吸血鬼メビウス1 - 5/6

5.

 

「神父さま…………神父さま」
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
スカイアイは目覚めてすぐ、わけのわからない焦燥にかられた。
急がなければ。しかし、何を?
床から起き上がろうとして、頭を押さえた。後頭部がズキズキする。頭に触れると包帯の柔らかな感触があった。
「気がつかれましたか」
「君は……マルコ?」
「はい。神父さま、大丈夫ですか?」
「ああ……。君が手当てしてくれたのか?」
「そうです。この程度しかできなくて」
「いや、ありがとう。――そうだ、メビウス1は」
殴られて気を失う前に見た光景を思い出した。メビウス1が村人たちに連れていかれる姿を。急いで助けに向かわなければならない。しかし、マルコが真剣な表情でスカイアイに問いかけた。
「神父さまが吸血鬼をずっと匿っていたって、大人たちが言っていました。本当なんですか? 僕は、神父さまがそんなことをするなんて信じられなくて……」
マルコの、一直線に見つめてくる瞳が胸に刺さった。スカイアイは確かにずっと彼を欺いていた。嘘をつくのは罪だとわかっていながら。
「……ああ、本当だ。だが彼は村人を一人も襲っていないし、襲うようなまねは嫌がっていた。俺には、何も悪いことをしていない者を断罪することはできなかった。……すまない」
マルコはスカイアイの眼をじっと見てきた。その奥に、嘘や偽りがないかどうか確かめるように。そして、こっくりと頷き「神父さまが優しいの、僕はよく知っています。だから……信じます」と微笑みを返してくれた。
マルコは大人たちがメビウス1を連れていくところを見ていたらしい。
「丘で“はりつけ”にすると言っていました。あの丘は、朝日が一番に当たるので」
全身から血の気が引いた。
「日の出までは!?」
「もうすぐです。あまり時間はありません」
倒れていたグルックの屋敷から出ると、当たりはうっすらと白み始めている。
日の出が、迫っていた。

 

スカイアイは東の空が薄紫から赤に変わっていくのを睨みつけながら走った。働き者は起き出して活動している時間なのに村は不気味なほど静まり返っている。皆、丘の上に集まっているのだ。
くねる坂道を登り、木々の間を駆け抜ける。
芝生が生えた丘の上に、人だかりが見えた。
村人たちの間を掻き分けて中央へ向かう。
そこには、スカイアイの胸をえぐるような光景が待っていた。
木で十字に組まれた柱に、縄で手足をぐるぐる巻きに縛り付けられたメビウス1の姿があった。
「メビウス1!」
思わず呼びかける。ぐったりとうつむいていたメビウス1がノロノロと顔を上げた。
「……スカイアイ……」
メビウス1は呟いて、それっきり口を噤む。
近づこうと足を踏み出すと、目の前を遮るようにグルックが現れた。
「神父様、邪魔せんでもらおうか。……まったく、ずっと気を失っておれば嫌なものを見ずにすんだものを」
「グルックさん。頼む、彼を解放してやってくれ」
「神父様の頼みでも、こればっかりは聞けんな」
「彼は何もしていない! 村人を襲ったりしないし、俺がさせない!」
「たとえそうだとしても、だ。周りを見てみろ」
グルックが顎で促す。スカイアイは周りを囲む村人たちを見た。恐怖で身をすくめるもの。怒りや憎しみで睨み付けるもの。不安を隠せないもの。様々だが、誰一人として吸血鬼メビウス1の存在を歓迎していないのはわかる。グルックがため息混じりに言った。
「……わからんな、神父様。何であんたはあの吸血鬼をそんなに庇うんだ」
グルックに問われて、スカイアイは答えに窮した。
スカイアイ自身にもよくわかっていなかった。彼と出会ってからずっと己に問いつづけてきた。
ただ、彼を失いたくない。
失いたくないんだ。
それは身体の内側から沸き上がってくる衝動で、理屈じゃなかった。
グルックが唐突に、訳知り顔でうなずいた。
「そうか……わかったぞ。あんたも、お稚児趣味の司教どもと同じなんだろう」
「――ッ!」
スカイアイの身体にカッと血が走った。羞恥と怒りで目の前が赤くなる。こんなに誰かに怒りを覚えたのは初めてだった。
「あんたはあんな変態どもとは違うと思っていたのにな……。残念だよ」
グルックはスカイアイを蔑むように見た。
歯を食い縛り、手の平に爪が刺さるほど固く握りしめる。違う、と叫びたかった。あんな獣どもと一緒にするなと。だが、何が違うというのだろう。自分は確かにメビウス1に劣情を覚えていた。実行には移さなかったが、頭の中で何度も彼を裸にして、言葉にできないようなことを彼にしてきたではないか。実行していなくても、確かに罪はあった。
誰も知らなくても、神と、スカイアイ自身が知っていた。
それが罪だというのなら、いくらでも罰は受ける。はりつけにされてもいい。しかし、メビウス1は関係ないではないか。
スカイアイが押し黙った隙に、グルックは顎で村人たちに指図をした。屈強な村人たちがスカイアイを両脇から押さえつけた。
「くっ、……放せ!」
暴れるが、びくともしない。
こうしている間にも辺りはどんどん明るくなっていく。スカイアイは東の空を見た。遠くに見える黒い山の端がくっきりと浮かび上がる。光は雲に反射し、虹色に輝く。
静謐で、美しい光景。
村人たちも日の出を注視した。
スカイアイはメビウス1の名を呼んだ。
こちらを見たメビウス1は白い光に照らされ、元々白い肌が透き通るように輝いていた。いや、顔だけではなく今や全身が光を浴びて輝いているようだ。
そうだ。こんな明るい外で、彼の姿を見るのは初めてだった。いつも暗い部屋か、月明かりだったから。
「スカイアイ」
こんな時なのに、彼の姿が細部にいたるまではっきり見える。細い絹糸のような髪も、震える睫毛も。
こちらを見つめる瞳は少し潤んでいた。メビウス1は血の気の失せた唇を薄く開き、何かを言いかけてやめる。
どうして。なぜ何も言ってくれない。
スカイアイは思う。
なぜ「助けて」と言ってくれないんだ。俺が彼に神の救いを信じさせることができなかったからか。
ずっと孤独だったメビウス1。たった一人で百年も。
寂しさを埋めてやれたらと思っていた。孤独な人に神の救いを与える。それが神父である自分の役目だったから。
だけど――。
だけど、違ったのかもしれない。
彼を救いたかったのは俺自身なんだ。神ではなく。
愛はあると信じてほしかった。
肉欲に支配されたわけじゃなく、ただ君が存在するだけで嬉しいのだと証明したかった。
無償の愛がここにあると。
信じてほしかったんだ。

 

一筋の光が、矢のようにメビウス1の頬を差した。
あっという間に光が膨れ上がる。
清浄な朝の光は、彼の全身を包み込んだ。
ボッと、彼の胸の辺りに青白い炎が上がった。それは瞬く間に全身に広がる。
メビウス1の口から喉を裂くような絶叫が迸った。
村人たちが身体を跳ねさせて、半歩下がる。
スカイアイを押さえつけていた村人も、及び腰になり力が弛んだ。その隙をついて村人をはね飛ばし、彼の元に駆け寄った。
全身を生きたまま焼かれる苦痛に呻くメビウス1。
スカイアイはメビウス1がまとう青白い炎を手ではたいて消そうとした。しかし消えない。その炎はスカイアイには全く熱さを感じさせない。メビウス1を縛る縄も、はりつけにされた木も燃えていない。
――幻の炎だ。
だが、メビウス1にとってこの炎は幻ではなかった。絶叫して、顔を歪めて実際に苦しんでいる。
ならばと、スカイアイはメビウス1に覆い被さって身体で太陽の光を遮った。
それでも炎は止まらなかった。
「くそっ、ダメなのか!?」
悪態をつくスカイアイを嘲るように、炎はますます勢いを増してメビウス1とスカイアイを飲み込んだ。
「ス、スカイアイ……もう……いい」
「馬鹿を言うな! まだ何か、方法が……っ」
スカイアイの腕の中で、メビウス1があえぐ。
「いいんだ……。はじめから、死ぬつもりだったんだから……」
スカイアイはメビウス1の言葉に息をのんだ。
「あの日、教会にいたのは……偶然なんかじゃない。教会に行けば、俺を殺してくれるだろうと……。まさか、神父があなたみたいに優しい人だとは……誤算だった」
メビウス1は唇を歪めて笑う。それも苦痛によってすぐに消えてゆく。
スカイアイはメビウス1の告白を、驚きと納得の気持ちで聞いた。
「初めてだった。あんなに、誰かと話したのも……そばにいたのも。吸血する度に、あなたが俺に堕ちてくれたらって……そんなこと……ありえないのにね……」
メビウス1の透明な瞳から涙が流れる。
しかし、涙は炎にまかれてすぐに蒸発した。
メビウス1の、木に縛られ固く握りしめた手がホロホロと灰になって崩れ落ちた。
スカイアイはそれを信じられない思いで見た。
「メビウス1……!」
「あなたに会えて、よかっ――」
ぎゅっと抱き締めていた身体が急に質量を無くし、ボロリと崩れた。
スカイアイの腕から、サラサラと砂のように形を無くしたメビウス1“だったもの”がこぼれていく。
地面に灰が降り積もって山になる。
――さっきまでここにいたのに。
この腕の中に、確かにいたはずなのに?
スカイアイは腕を回したままの姿勢で固まった。現状を理解したくなかった。
スカイアイは足元に山になった灰の前に力なく跪いた。
これがメビウス1だというのか。この灰が――。
グルックがじりじりと近寄ってくる。
「し、死んだようだな……。神父様、あんたのことは教会本部に報告しておくからな。吸血鬼を匿った罪で、あんたは処分されるだろう」
スカイアイはそれを渇いた心で聞いた。
そんなことはどうでもいい。ただ、もう誰にも彼に触れてほしくなかった。スカイアイは灰に覆い被さり、両腕で抱え込んだ。
「はっ、とうとう頭もイカれたか?」
グルックが吐き捨てて去っていった。
村人たちも一人、また一人と重い足取りで去っていく。
ただ、一人。
「神父さま……」
スカイアイに近寄って声をかけた者がいた。マルコの声だった。しかし、地面に臥して顔も上げないスカイアイに何を言えばよいのかわからなかったらしい。彼もやがては去っていった。
すっかり太陽の光で明るくなった世界を拒むように、スカイアイはずっとうずくまったまま動かなかった。

なぜだ。
なぜ彼が消滅しなくてはならなかったんだ。吸血鬼にとって血を吸うことは、人の食事と同じだ。それを彼は健気にもギリギリまで我慢していたんだ。そして人のために戦ったじゃないか。それをグルックは知っていたはずなのに。
正義はどこにいったんだ。
神はなぜ、彼を助けてくれなかった。
――なぜ、俺を、助けてくれなかった。
心の中に疑念が浮かぶ。いや、“憎しみ”といってもいい。スカイアイは初めて自らが信じる神を憎んだ。
胸の中がドロドロとしたものでいっぱいになった。
スカイアイの言い分を全く聞かなかったグルックを。グルックに操られるように反抗もしないで彼を死に追いやった村人を。
世の中を、全てを恨みそうになった。
誰かのせいにできたら楽だった。だがそうするには、スカイアイはあまりにも誠実すぎた。
本当に憎むべきは、自分自身が不甲斐なかったからだとわかっていた。
メビウス1の孤独を知りながら、結局、彼を自ら死に向かわせてしまった。
罪を犯すことを恐れて、彼の手を放してしまったのは、スカイアイ自身だったのだから。