吸血鬼メビウス1 - 6/6

6.

 

辺りが暗くなり、夕闇が支配する頃になって、スカイアイはようやく顔を上げた。
あれだけ村人がいた丘が、今は静まり返っている。誰もここへ近寄りたくないのだろう。それが今はありがたかった。
スカイアイは着ていたカソックを脱いで、広げたその上にメビウス1だった灰を集め始めた。なるべく一粒も取りこぼさないように。
そして服でくるんで胸の中に赤子を抱くように大切に抱え込んだ。
スカイアイはそれを持って歩き始めた。
行く当てはない。
ただ、人気のない場所を探した。
村を出て、人が踏みいらない森へ入った。森は昼間でも薄暗い場所で、狼も住んでいる。村人たちは危険をよく理解していて、決して狼の住みかを荒らさなかった。
そんなところへ一人で、夜の暗闇の中で。
正気の沙汰ではない。あるいはもう狂っているのかもしれなかった。狼にいつ襲われてもおかしくないのに、恐怖もなくひたすらに歩く。
すると、そんなスカイアイの目の前に立派な館が現れた。
石造りのしっかりした外観。
もう何年も人は住んでいないのが一目でわかる。壁を侵食して草木が生えている。
スカイアイはこんな森の奥に館がポツンとあるのを不思議に思いながら中へ入った。
クモの巣を避け、崩れかけた壁をトカゲが這っているのを横目で見やる。
テーブルや燭台など、朽ち果てた調度品は過去の美しかった姿を想像させた。
階段を上って二階へ行く。
二階も荒れてはいたが、一階よりもマシだった。奥まで進むと一室だけ荒れていない部屋があった。
小さな明り取りの窓が割れて月の光がそそいでいる。
ベッドはあまりホコリをかぶってはいない。シーツも、まるでさっきまで誰かが寝ていたみたいな乱れ方だ。
そこまで考えて、ここを発見してから頭に思い浮かんでいた仮説がやはり正しいのではないかと思い始めた。つまり、この館がメビウス1の住んでいた館なのではないかということだ。
百年もの間この一室で、たった一人で過ごしていた。メビウス1の気持ちを考えると胸が苦しいほど切なくなる。
しかし、ここがメビウス1のいた館なら、スカイアイの考えを実行するに相応しい場所のように思える。天からの運命の導きのようだった。

スカイアイは灰を包んだ服を床にそっと広げた。
窓の近くに散らばっていたガラスの破片をひとつ手に取る。そしてシャツの袖を捲って腕を出した。
灰の上に剥き出しの腕をかざす。
こんなことをして、一体何になるのかと思う。
どうにもならないかもしれない。
スカイアイはガラスの破片で手首の皮膚を裂いた。
鮮血がボタボタと灰の上にしたたり落ちる。
灰は血を吸収し、どす黒い色に変化した。
だがそれだけだ。
もっともっと血が必要なのかもしれない。
スカイアイは左腕も同様に裂いた。今度はもっと深く。
血が流れてゆく。床が真っ赤に染まる。
こんなことをしてもメビウス1が復活する根拠はなにもない。
だが、しかし――。

メビウス1が灰になって、絶望に打ちひしがれていた時、スカイアイはメビウス1が言ったある言葉を思い出していた。あの敵の吸血鬼を倒した後のことだ。
――死体は太陽の光に当てて灰にしたほうがいい。そして、灰は川に流す。
彼は「灰は川に流す」と確かに言った。それはつまり、灰にしただけでは吸血鬼は完全に消滅したことにはならないのではないか。何かそこから復活する手段があるのでは?
吸血鬼にとっては血が全てだ。それは、そばで見ていればよくわかった。
スカイアイは何もしないではいられなかった。あきらめられなかった。メビウス1が何気なく言ったひと言に、一縷の望みを賭けた。
死ぬ前に自分の気持ちを吐露したメビウス1。もっと早く言ってくれたならスカイアイとの関係も変わっていたかもしれないのに。
いや、やはり無理か。
自分は教義を守ることに固執しすぎていた。正しくあらねばならない。罪を犯してはならないと。神父としては当然だったのだが、それではメビウス1を救えはしなかった。
罪を犯すことを恐れすぎて、大切なことを見失っていた。

スカイアイは寒さを感じて震えた。足に力が入らなくなる。仕方なくメビウス1の灰の隣に寝転んだ。呼吸が荒くなり、心臓が警告を発するようにひっきりなしに騒ぐ。
血を流しすぎた。
このままでは、いずれ自分は失血死するだろう。
それでもいい。そうなる覚悟はしていた。
彼を許容しないこの世界にいる意味なんてあるのか。
大切な人を救えなかった自分に、生きる意味があるのか。
「メビウス1……」
彼もずっとこんな気持ちだったのだろうか。
呟きは虚空に吸い込まれた。
現世から遠ざかっていく意識。苦しみも、悲しみも、どこか膜が張ったように現実味がなくなる。
ぼんやりとする意識に、かすかに赤黒くなった灰が脈打つのを感じた。
灰は、スカイアイの血を吸い込んで、丸いブヨブヨとした血の塊になった。そしてどんどん血を吸って膨れ上がり、体積を増してゆく。
「ああ――」
スカイアイは歓喜の呻きをあげた。
人が一人、中に入れるくらいに成長した血の繭は、限界を迎えてパチンと弾けた。
赤い雨が降り注ぐ。
その中に、うずくまって丸まった人の姿が現れた。
何も身に付けていない真っ白な皮膚は血まみれで、ぞっとする姿のはずなのに、スカイアイの目には美しく映った。
彼がゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。スカイアイはぼやけてよく見えない目を必死に瞬いた。
メビウス1が近寄って、顔を覗きこんできた。スカイアイの頭にポタポタと雫が垂れてくる。むせ返るような血の匂い。
「スカイアイ……なんで、こんな馬鹿なマネを……」
こちらを哀れむみたいに見るメビウス1の瞳は潤んでいた。
「俺は死んで、ようやくこの呪われた生から解放されるはずだったのに……」
スカイアイの頬に手が触れる。その触れ方は羽が触れるように優しかった。
「あなたはもうすぐ死ぬよ。勝手に復活させておいて、俺をまた一人にするつもり?」
スカイアイはもう言葉も発することができない。かわりに頬の肉を引き上げて微笑んでみせた。
上手く彼に伝わっただろうか。
嬉しかった。再びメビウス1に会えたことが。
「ばか……」
メビウス1の瞳から透明な涙が流れ落ちるのを見たのを最後に、スカイアイは意識を失った。

 

 

喉が渇く。
カラカラに干上がっている。
身体が、妙に熱い。
水が飲みたい。

スカイアイは強い喉の渇きを感じて目覚めた。
夜なのだろうか。辺りは薄暗い。
だんだん闇に目が慣れてくる。

ここは、メビウス1の住んでいた館だ。床にスカイアイが流した大量の血の跡が、黒く染み付いていた。スカイアイ自身は床ではなくベッドに寝かされていた。誰かが移動させたのか。
そうだ、メビウス1。彼はどこに?
ハッとして身を起こした。
ベッドがきしむ。すると背後から「うーん」という寝ぼけた声が聞こえてスカイアイはギョッとした。
隣にメビウス1が寝ていた。近すぎて気づかなかった。
「あ、やっと起きた……?」
メビウス1が眠たげに目を手でこする。その仕草に思わず見入ってしまう。スカイアイは彼のこの仕草が、実は前から好きだった。いつも「可愛い」と密かに思っていた。
メビウス1を頭の先から足の先まで眺めた。
気を失う前は裸だったが、どこかで服を調達したらしい。白いシャツにズボンをはいて、サスペンダーで留めていた。
「スカイアイ、身体は大丈夫? 一ヶ月も寝てたんだから」
「そうなのか?」
驚いて答えた口の中に違和感。スカイアイは手のひらで口を覆った。
鋭く尖った犬歯が舌に触れた。
――牙だ。
これはつまり。
「……気がついた?」
「俺も……吸血鬼になったのか」
「そうだよ。あなたは死にそうだったから、俺の血を与えて助けるしか方法はなかった。今さら文句は聞かない」
つんと横を向くメビウス1の顔が、しかし不安に怯えているのを感じとり、スカイアイは彼をそっと抱きしめた。
「大丈夫だ。俺もそれを望んでいたんだから」
最後の時、話せないかわりに目で彼に訴えたつもりだった。
「あなたはもう、一生太陽の光も浴びられないし、十字架に触れることもできないんだよ」
あなたはいつかきっと後悔する、と呟いてメビウス1は怯えた。
「いいやメビウス1。後悔とは自分ができることをしなかった時の言い訳だ。俺はこの選択を決して後悔しない。――君と、共に生きたいんだ」
メビウス1は消える間際に「俺のもとに堕ちて欲しかった」と告げたが、スカイアイはこれを“堕ちた”とは思わない。彼と“同じになった”のだ。
「あなたは……本当に、……馬鹿だ」
メビウス1はふるふると震えて、また涙を流した。罵られても、「嬉しい」「好きだ」と言っているようにしか聞こえない。
素直じゃない顎を上げさせ、涙を唇で吸い取った。
「甘い――」
喉が渇いているせいではない。まるで甘露だ。
「涙にも、血液ほどじゃないけど精気が含まれているからね……。喉、渇いているでしょう?」
メビウス1は少し身体を離して、シャツのボタンを外し始めた。
これまでスカイアイが彼に向かって何度もしてきたことだが、逆の立場になって、その姿が妙に興奮を煽ると知った。
自分に無防備にさらされる首筋。命を、全てを信頼してゆだねられる喜び。獲物を貪りたいという本能。
スカイアイは無意識に喉をごくりと鳴らした。
「いいよ、スカイアイ。――きて」
メビウス1の肩を掴んで、白い首に強く噛み付いた。
一瞬、ビクリと跳ねた身体を両腕で抱きしめた。すぐに口の中いっぱいに広がる血の味。
ねっとりと甘い、メビウス1の命の味だ。
ごくりと飲み下すと、身体中の血が熱くなり、力がみなぎった。
「あぁ……っ、んぅ」
メビウス1があえいだ。抱いた身体が小さく震えている。
自分にも覚えのあるあの感覚が、彼を今、満たしているのだろうと想像するとたまらなかった。
吸血鬼として生まれたばかりのスカイアイは、どのくらい量を飲んでいいのかわからなかった。メビウス1の身体に障るのではないかと不安になって、吸い付いた唇を離した。
頬を赤く染めて、息を荒くしたメビウス1はとても淫らだ。
腕を伸ばしてスカイアイを引き寄せる。
「俺も……欲しい」
それを拒むべき理由は、もうなかった。
「ああ……」
スカイアイは自分も首を差し出した。
メビウス1が指先で首筋をくすぐる。そんな刺激ですら背筋がゾクゾクした。
「知ってた? ……吸血には、好きであるほど相手を発情させる効果があるんだ」
彼が首筋に吸いつくと、覚えのある熱が身体中を駆けめぐった。
「好きなほど」というのは、吸う方がなのか、 吸われる方か?――どちらでもかまわない。つまり想いは同じということだろう?
その熱に逆らわず、スカイアイはメビウス1の身体から性急に衣服を剥ぎ取り、彼をベッドに押し倒した。
見上げるメビウス1の瞳も、この先の期待で潤んでいた。
貪るように口づけをした。互いの舌が絡み合う。唾液すら甘い。彼の身体はどこもかしこも甘かった。吸い付き、撫でまわすと、彼はかわいそうなくらい敏感に反応した。自分の激しい反応に戸惑った顔をするメビウス1に、スカイアイは煽られた。
欲求のまま、牙を立てながら強く貫いた。狭く熱く絡みつく彼の内部に目眩がするような快感を感じる。中に熱を吐き出せば、メビウス1は痙攣して白い首を晒してのけぞった。

一度熱が引いてもお互いに噛みつき合って、また熱を高められる。永久機関だ。そして疲れ果てるように眠り、起きてはまた愛し合う。
そうやって二人で気のすむまで抱き合った。

 

何度目かにスカイアイが目覚めると、腕の中の感触が何かおかしいことに気づいた。
抱き心地が違う。
スカイアイが身体を起こすとメビウス1ものっそりと起き上がった。眠そうに目をこする。
「メビウス1、その姿は……」
肩幅も背の高さも、何もかもが以前より大きくなっている。
メビウス1は少年の姿から、一気に大人へと成長していた。しかし、どこかあどけない雰囲気は残っていて、スカイアイより幾分かは全体的に小さめだ。
メビウス1は自分の身体をあちこち触って確かめながら「あなたがたくさんの精気を注いだせいだね」と言い、自分の腹を撫でた。
メビウス1の言い方は事実を言っただけで決して淫らな意図は含んでいなかったが、スカイアイはどぎまぎしてしまう。静まったはずの情欲がまた溢れそうになる。自分はこんなにも好色だったかと呆れた。
「もしかして、前の子供の姿の方が好みだった……?」
頭を抱えたスカイアイに向かってメビウス1が不安そうに聞いたものだから、スカイアイは慌てて否定した。
「そんなわけないだろう? どんな姿でも君は君だ」
長く自分を苦しめた罪の意識と、葛藤を思う。
吸血鬼になったからといって、神を信じる心までなくなったわけじゃない。スカイアイはあくまでもスカイアイのままだった。

彼を愛することが罪ならば、罪を背負って生きる。どこまでも、彼と共に。

メビウス1を胸に引き寄せて頬に口づける。「君を愛してる」
彼はくすぐったそうに肩をすくめ、一切の憂いのない幸福そうな笑みをスカイアイに見せた。