吸血鬼メビウス1 - 4/6

4.

 

深夜も過ぎた頃、少しウトウトしていたスカイアイはガラスが砕ける音と、女性の悲鳴で弾けるように目覚めた。
隣の部屋へ飛び込む。
窓ガラスは砕け、薄いレースのカーテンがはためく。寝台に、気を失ったのかうつ伏せに倒れている娘。月の光を背に、痩身の男が覆い被さっていた。
男の手から煙が出ている。焦げた匂い。
男はチッと舌打ちをした。
「……貴様か、銀のロザリオを娘に持たせたのは」
低くしゃがれた声がスカイアイを威嚇した。
ギロリとこちらを睨みつける目は鈍く光る。まさしく獣の眼だった。メビウス1の透き通った瞳とはほど遠い。
「まあいい。神父一人、俺の敵ではない」
男は傷ついた手をべろりと舐めた。
「貴様を殺して、この村の人間は俺が食らいつくしてやる!」
叫ぶやいなや、こちらに飛びかかってくる。その速度は人間離れしていた。吸血鬼は鋭く伸びた爪を振りかざす。振り下ろされたそれを身を捻ってなんとか避ける。カソックの二の腕が裂けた。
懐から小さなビンを取り出し、中の液体を吸血鬼の顔に向かってぶちまけた。
「グァ……ッ」
吸血鬼が頭を押さえて呻く。――聖水だ。皮膚がただれて煙が出ている。その隙に、体当たりをするように押し倒した。
もがく吸血鬼の胸に、首から下げていたロザリオを叩きつけた。
「ギアァアア!」
身の毛のよだつような醜い叫びが辺りにこだました。
ロザリオを押しつけた胸からは皮膚の焦げるジュウジュウという音と、吐き気をもよおす匂いが漂う。
「神父様! 娘は……ヒィッ」
様子を見にきたらしいグルックが、部屋を覗き見て引きつった声を上げた。吸血鬼の姿を見たからだろう。苦しみもがく吸血鬼の姿は目は血走り、口は裂け、見るもおぞましい姿だった。
「こっちへ来るな!」
グルックへ向かって叫ぶ。
その隙を狙われたのか、吸血鬼が強くスカイアイを弾き飛ばした。身体が吹っ飛び、戸棚に叩きつけられる。砕けたガラスが頭から降り注ぐ。一瞬、息がつまって動けない。
「いい加減にしろよ……」
吸血鬼が痛みからか息を切らしてフラりと立ち上がる。吸血鬼が憎しみでギラついた目でスカイアイを睨んだ。
「よくもこの俺に傷をつけてくれたな……人間ごときが……!」
呪詛を吐いて飛びかかってくる。避けようにも、ぶつけた身体が痛んで、とっさに動くことができない。スカイアイは鋭い爪が迫ってくるのをコマ送りのように感じた。あの爪が自分を刺し貫くのが容易に想像できた。
衝撃を予感して固く目を瞑る。
しかし、スカイアイに衝撃は訪れなかった。大きな音がして目を開くと、吸血鬼がなぜか壁に弾き飛ばされていた。
スカイアイの目の前に、小柄な黒い影が守るように立っていた。白い髪。
「メビウス1!?」
メビウス1はスカイアイの呼び声に少し顔を向けるだけで応え、視線は吸血鬼から離さなかった。
「来るなと言っただろう!」
「だって、あなたが死んでしまう……」
身体から煙をのぼらせながら、吸血鬼がゆらりと起き上がる。
ひびのいった壁から砂がパラパラと落ちた。
メビウス1とスカイアイはしゃべるのをやめ、吸血鬼に意識を向けた。吸血鬼はメビウス1を薄汚いものを見るように睨んだ。
「この匂い……貴様、吸血鬼か。なぜ人間とつるんでいる?……それも、神父と」
久しぶりに会ったはずの同族だが、仲間意識はあまりないようだった。この吸血鬼もメビウス1のようにずっと一人で生きてきたのかもしれない。ならば仲間意識などなくて当然か。
男が唾を吐き捨てた。
「吸血鬼のくせに人間に媚びやがって……俺と戦うつもりか? 同族とて歯向かうなら容赦はしない」
メビウス1は何も言わない。ただ静かに男を見返すのみだった。スカイアイは男を刺激しないようにゆっくりと立ち上がった。
メビウス1はスカイアイのために同族と戦う気でいる。ならば少しでも彼の足手まといにならないようにしなければ。
「ひよっ子が……いい気になるな!」
男が跳躍する。鋭く尖った爪が月の光に反射した。メビウス1は自らも爪を伸ばし、それを受け止めた。暗闇に爪の軌跡が弧を描いた。二人の動きは素早く、ただの人間であるスカイアイに間に入る余地はなかった。
メビウス1が苦しい顔を見せる。明らかに男におされている。彼は三日間、血を飲んでいない。対して奴は三人もの人間の血を飲み干している。精気が有り余っているのだ。それだけでかなりのハンデを負っている。
メビウス1の身体に無数の傷ができていく。
スカイアイが後ろにいることで背後を庇い、攻撃を避けられないでいる。スカイアイも、メビウス1が男の近くにいるために援護できない。聖水などで下手に攻撃すれば、同じ吸血鬼であるメビウス1にもダメージを与えてしまう。
「メビウス1、俺を気にするな!」
「スカイアイっ、こそ……!」
苦しい息の下からメビウス1が喘ぐように叫んだ。
その隙を男が狙う。
天井高くまで飛び上がり、メビウス1にのし掛かった。床に倒れ伏す二人。男が上からメビウス1に馬乗りになり、爪で刺し貫こうとする。メビウス1はそれをなんとか手で押さえた。両手をお互いにがっしりと組み合い、動けなくなる。だが、のし掛かられたメビウス1の方が体格差もあって明らかに分が悪い。
爪が駄目ならと男は口をカッと開き、尖った牙をむき出しにした。メビウス1を噛むつもりだ。
――今なら。
スカイアイは懐に手を差し込む。指にひんやりと冷たい塊が触れた。
あまり使いたい代物ではなかった。神父である自分には不釣り合いの武器を構える。
メビウス1の首筋に、あと数センチ。男の牙が迫っていた。迷う暇はない。引き金を引く。
村中に響き渡る音。
耳が一瞬おかしくなる。
メビウス1に馬乗りになっていた男はぐらりと傾いて彼の上に力なく倒れた。
メビウス1は目を見開く。男の身体を重そうに横に転がし、立ち上がった。
「スカイアイ……ピストルなんか持ってたの?」
「ああ……。銀の弾丸を仕込んだ退魔の銃だ」
この銃と銀の弾は教会本部から支給されたものだ。魔物と渡り合うための、スカイアイの切り札だった。
手の中の銃を胸のホルスターに仕舞った。
倒れた男を覗き込む。仰向けに力なく倒れた身体は、こめかみから血を流している。目をカッと開いて動かない。
「死んだのか……?」
スカイアイはメビウス1に尋ねた。
「一応は。……でも、復活すると厄介だ。死体は太陽の光に当てて灰にしたほうがいい。そして、灰は川に流す」
「そうか……」
メビウス1の身体が力が抜けたように傾く。スカイアイは両腕で受け止めた。
「大丈夫か?」
スカイアイに身を預けて荒い息を吐くメビウス1の顔色は青い。血が足りないのだ。三日飲んでおらず、この戦闘だ。今すぐにでも血を与えてやりたいが……。
そのとき、ガラスを引っ掻いたような悲鳴が響いた。
「いやっ、なに、何なの!?」
寝台で気絶していた娘が目覚めたらしい。その悲鳴を聞きつけて、グルックが部屋へ転がり込んできた。
「アンナ!」
「お父様……!」
グルックは一瞬、部屋の惨状や転がった吸血鬼の死体に腰が引けたようだが、さすがに娘が心配だったのだろう。恐怖を飲み込んで娘の元へ駆けつけた。
泣きじゃくる娘を抱きしめながら、グルックはスカイアイを睨みつける。
「吸血鬼は……死んだのか?」
「ああ、仕留めた。だが、死体を太陽の光で灰にするまでは安心できない――」
「いいや、まだだ」
グルックは怒りというより恐怖を孕んだ目を向ける。
「まだ、そこにいる……!」
グルックが震える指先で指したのは、スカイアイが抱えて支えていた――メビウス1だった。
スカイアイはとっさにメビウス1を自らの身体の後ろに隠した。
「なにを……言っている?」
「誤魔化すな! ワシは聞いていたんだ。吸血鬼の男とそいつが争っていたとき、『吸血鬼』だと――同族だと言っていたのを!」
スカイアイは全身から血の気が引くのを感じた。
グルックはスカイアイたちが戦っている間、部屋の外の廊下で様子をうかがっていたのか。おそらく娘の様子が心配だったから……。
――だから逃げろと、来るなと言ったのに。
今さら言っても仕方がないが、最も恐れていた事態になってしまった。
スカイアイは固く目を閉じて、一秒にも満たない間、なんとかできないものか考えた。そんな都合のいいものがあるはずもないのに。
「グルックさん、彼が吸血鬼だとして……、彼はあなたのために――あなたの大切な娘を守るために傷だらけになりながら戦ったんですよ。そんな者をどうすると?」
スカイアイはメビウス1が吸血鬼ではない、と嘘を突き通すことはできなかった。現場を見られていたのなら、それは難しい。グルックを説得するしかない。
「決まっているだろう! 吸血鬼は一匹残らず始末する! でなければ、また吸血鬼が増えるじゃないか……!」
「グルックさ――」
「あんたも何だ! 神父のくせに、なぜ吸血鬼なぞ生かしておいたんだ!」
スカイアイはぐっと言葉につまった。
「まさか、あんたも吸血鬼なんじゃないのか……」
「違う! 俺は――」
グルックの目は今や疑心と恐怖に真っ黒に染まっている。なんとかグルックを説得しようとしたスカイアイだったが、部屋の外にたくさんの人の気配を感じて振り返った。
村の男たちが集まってきていた。
グルックの差し金だろう。それぞれ、手に縄や鍬を持っている。
「神父様、そいつを渡してもらおうか」
村人たちもグルックと同じ目をしていた。彼らもまた、娘を吸血鬼に殺されている。吸血鬼が憎くてたまらないんだろう。その気持ちは理解できる。メビウス1を、吸血鬼を庇おうとするスカイアイの方がおかしいのだ。
村の男の一人がメビウス1の腕を引く。弱っているメビウス1は簡単に捕まり、拘束された。
「待て! やめろ、彼を放せ!」
メビウス1を取り戻そうと村人に掴みかかった。数人ともみ合う。
「スカイアイ……もう、いいよ」
諦めたような呟きが、スカイアイの耳にハッキリと聞こえた。
「メビウス1、君の力なら、包囲を破って逃げられるだろう? なぜ逃げない!?」
メビウス1はうっすらと笑みを浮かべ「もう、いいんだ」とスカイアイに告げた。
何がいいものか。スカイアイにはメビウス1の気持ちがわからなかった。なぜ逃げない。なぜそんな全てをあきらめたような顔をする。いくら弱っているとはいえ、死に物狂いで抵抗すれば逃げる隙も生まれるかもしれないのに。
スカイアイは毛の先ほども納得できていない。このままでは彼は死んでしまう。村人に殺される。
スカイアイはメビウス1に向かって、必死で手を伸ばした。
村人を押し退けて、あと少しで手が届くというところで、後ろから鈍い衝撃が襲った。スカイアイの指は空を掻いて、意識は闇に落ちた。

 

 

いつだったか、メビウス1が聞いた。

「神父って、結婚したらいけないんだよね」
「そうだよ」
「ひとりで寂しくない?」
「寂しくないよ」
「ふぅん……」
メビウス1は眉を寄せて、納得がいかないという顔をした。強がりだと思われたのかもしれない。
「俺には神がいつもそばにいてくださるから」
「神様なんて、どうして信じられるの。姿も何もないし、つらい時も何もしてくれないじゃないか」
それは神を信じられない人がよく口にする疑問だった。
「では聞くが、君は誰かに愛された経験があるか?」
「え……? えっと、父さんと母さんに……かな?」
「では、その愛が確かにあったと、君はなぜ信じられるんだ? 愛も目には見えないはずだ」
「それは……」
メビウス1はうつむいて考え込んだ。うまく答えられないようだ。
「神の愛も同じだ。姿はなくても、信じれば確かにあるんだ」
スカイアイがそう言うとメビウス1は頭を振り、ため息を吐いた。
「わからないよ……スカイアイ。俺は、神様の愛なんていらないんだ」
宙を見上げ、空虚な目で遠くを見た。
「俺はただ、一人でもいい。体温が感じられる距離に誰かがいてくれたらって……ずっと思ってたよ……」