吸血鬼メビウス1 - 1/6

1.

 

「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。――アーメン」
スカイアイは身体の前で十字を切る。
これで本日のミサは終わりだ。
「神父様」
少し腹の出た、恰幅のよい中年の男に声をかけられる。
「ああ、グルックさん」
「こちら、どうぞお納めください」
「これは……いつもすみません」
差し出されたのは麻袋に入った大量の金貨だ。グルックはこの村で一番の有力者で、こうして毎月教会へ献金を施してくれる。正直、彼の資金でこの教会はもっているようなものだった。ありがたくもあるが、彼一人の力で支えられている今の状態は危ういとスカイアイは感じていた。
「いや、神父様あってのこの村ですからな」
腹を揺すって笑う。
神父であるスカイアイには一応このように礼を尽くしてくれるが、地位も金もあり、この村でグルックに逆らえる者はいないだろう。
グルックから献金を受け取り「あなたに神のご加護があらんことを」と祈った。
グルックや信徒たちが教会を去った後、あと片付けをする。
一人の少年が教会の掃除を手伝ってくれている。この教会の近所にすんでいる15歳の少年で、マルコといった。
「マルコ、その辺でいいよ。ありがとう」
「まだ大丈夫ですよ」
「いや。もう暗くなってきたし、危ないから帰りなさい」
「そうですか? ……じゃあ神父さま、僕は失礼しますね」
「ああ、ありがとう」
マルコが帰るのを教会の入り口から見送った。途中で振り返って手を振るマルコに手を振り返し、その姿が見えなくなるまで。
日が沈み、外は薄紫の夕闇が支配している。教会のステンドグラスは輝きをなくし、ライトがなければどこか不気味に見える。
誰もいなくなったのを確認する。
蝋燭に火をつけた燭台を手に教会の奥へ進み、階段を下る。地下は倉庫になっていて食材や、教会の大切な資料などが保管されている。階段を一段下るごとに、ひんやりとした空気が足元から這い上がってくる。
地下の奥の奥。薄暗い廊下の先の一室。
扉につけた南京錠を開ける。
ここまでする必要はないのかもしれない。だが念には念を、だ。
重い扉を開けると、それほど広くはない部屋にベッドがひとつ。
地下ゆえに窓もなく、明かりも何もない。蝋燭の明かりが真っ暗な部屋を照らした。
こちらを見つめる瞳がふたつ。暗闇に浮かび上がる。
「おはよう。遅くなってすまなかった」
ベッドに身を起こしていた人影に向かって声をかけた。もう夕方なのに「おはよう」は、本来ならおかしいのだが、“彼”にとっては日の暮れたこれからが活動時間なのだ。
彼は夕方、日の沈む頃に起き出して、また日が昇る前に眠る。
夜に生きるもの。
人間とは異なる性質をもつもの。
吸血鬼――ヴァンパイアだった。
スカイアイの声かけに、ベッドの上の人物は大あくびで答えた。
「おなかすいた」
見た目はマルコと同じ年くらいか、少し上に見える。青年と少年の間のような、微妙な頃合いだ。この生物に、人間と同じ年齢という概念が当てはまればの話だが。
ぞっとするほど青白い肌に、薄い色の髪。瞳はクリスタルをはめ込んだ人形のようだ。
「ああ……、ちょっと待て」
スカイアイは燭台をベッドサイドの台に置き、首に下がったロザリオを外した。ベッドに座り、黒いカソックのボタンをいくつか外す。
期待している彼の気配を隣から感じる。彼にとって自分は美味しい獲物でしかないのだろうか。そんな相手に自らを進んで与えようとしている自分はひどく愚かで、どうにも救いがたいように思われた。
下に着ていたシャツをはだけさせ、首筋をあらわにする。
じりじりと四つん這いでにじりよってくる彼。
スカイアイの膝の上に股がり、両腕を首に回す。
まるで恋人にするように。
つ、と指先で首筋を上から下になぞる。その皮膚の下に流れる熱い血潮を感じるのか、彼はペロリと舌なめずりをした。その表情はとてもマルコと同じ年頃の少年には見えない。蠱惑的で、妖艶。
顔を近づけてスカイアイの首筋に軽く触れる。ほんのり冷たい唇にぞくりと背筋が粟立つ。
軽く彼の背中に腕を回し、続きを促した。
つぷ、と皮膚が食い破られる痛みは一瞬のこと。血を吸い上げられる度に背筋にぞくぞくとしたものが駆け上がり、頭は霞がかかったようになる。首筋から何か毒でも流し込まれたみたいに血が熱くなり、彼を抱きしめる腕に力が入った。
「……っ、は」
息を吐いて熱を逃がす。頭が沸騰しそうだ。
彼の喉がゴクリと音を立てるのが嫌にはっきり聞こえた。彼は何度か喉を鳴らして血を飲み干し、チュと小さく吸い付いた。名残惜しげに噛みあとを舐められ、スカイアイは理性の糸が切れそうになった。彼の両腕をつかんでベッドに押し倒す。
彼の冷たかった肌はスカイアイの熱が移ったように温かくなり、真っ白で血の気のなかった頬もうっすらと赤みを帯びている。その変化は目をみはるほど美しい。
ただ彼は息を乱すスカイアイをぼんやりとガラスのような眼で見上げていた。
スカイアイは目をぎゅっと閉じて乱れた呼吸を調える。
「我慢しなくていいよ?」
と彼が言う。自分の吸血行為がどういう作用を相手にもたらすのかを理解しているのだ。
彼にとっては親切心から出た言葉なのかもしれないがスカイアイにとっては悪魔の誘惑だった。
唇を噛みしめてこらえる。
額から汗が流れ落ちて彼の頬に滴った。
嵐のような衝動を、なんとか理性でねじ伏せることに成功した。

――今夜も。

 

彼が外へ散歩に行きたいと言うので、教会の中庭に連れてきた。
庭には薔薇が植わっていて、美しい赤い花を咲かせている。空気は重く湿り気を帯び、辺りは霞んでいた。彼はそんな空気を胸一杯に吸い込むように深呼吸をする。
空を見上げる彼の白い髪が、ほのかな月の光りに照らされて輝きを放つ。やはり彼には夜の光がよく似合う。だが彼を外へ連れ出せるのは教会の中庭までが限度だ。彼の姿を村の者に見せるわけにはいかなかった。

彼は吸血鬼。名を、メビウス1という。

 

彼と出会ったのは三ヶ月ほど前。
所用があって出掛けていた帰り、夜も遅くなって少々急ぎ足で教会に帰ってきたところだった。
教会の門の前で誰かがうつ伏せに倒れていた。
スカイアイはあわてて駆け寄り、その人に声をかけた。
「どうなさいました」
黒いズボンに黒いコート。全身黒ずくめのぐったりした小柄な人物を抱き起こした。あらわになる小さくて白い顔。まだ少年のようだった。紙のように青白い顔をして短く浅く息を吐く。目を固く瞑り、うっすらと額に汗が浮かんでいた。
「大丈夫か、君……」
なぜこんな少年が夜に教会の前で倒れているのかわからないが、ひどく具合が悪そうだった。スカイアイはとりあえず彼を教会の中へ運ぼうと考え、背中と膝の裏に腕を差し込んで抱え上げようとした。
固く閉じていた彼の瞳がカッと見開かれ、赤く輝いた。かと思うと、抱き上げようとしていたスカイアイの首に両腕を回してきた。
「な……っ」
突然、倒れていた少年に抱きつかれ、スカイアイは驚く。
首筋に熱い痛みが走る。
一瞬の出来事で身体が動かない。思考もついていかない。一体、自分に何が起こっているのか。
ずず、と首筋から嫌な音がした。血を引き抜かれる感触がして全身に鳥肌がたった。おぞましい感触。
皮膚に噛みつかれ――血を、吸われている。
「ッ――!」
スカイアイは首に吸い付いている得体の知れないものを無我夢中で振り払おうとした。しかしスカイアイが力を込めても小柄な少年はびくともせず、引き剥がすことができない。
――こいつは吸血鬼だ!
スカイアイは確信した。しかし、それはさらなる恐怖を生んだ。吸血鬼に血を吸われた場合、その者も吸血鬼になってしまう。
スカイアイは夢中で胸元を探って、手に触れた固いものを吸血鬼に向かって押し付けた。
短い叫び声を上げて吸血鬼とおぼしき少年は跳び退く。
「う……ッ」
胸の辺りを押さえて苦しげに呻いている。そこからまるで何かが焼け焦げたみたいな煙と、焦げくさい匂いが立ちのぼった。
スカイアイはとっさに、胸にいつも下げていた十字架を少年に押しつけていた。銀で出来たロザリオだ。十字架が効くということは、やはりこの少年は不浄なる者。神に背く者だ。
「貴様は、吸血鬼か」
荒い息を吐きながら問いかける。
「うぅ、いたい……」
男は煙の出る箇所を押さえて、「痛い、痛い」と呻いていた。
相手は吸血鬼だ。それなのに、まだ少年のようなあどけない姿で目に涙をためて苦しまれると、まるでスカイアイの方が酷いことをしたような気分になってしまう。
噛まれた首筋を辿ると、手にねっとりと血がついた。
「俺も、吸血鬼に……」
自分が得体のしれない化け物になって、理性もなく人を襲うところを想像したらゾッとした。そんなものになったら――。
「……ならないよ」
「なんだって?」
まだ胸を押さえて苦痛にあえぎながら、それでも少年ははっきりと告げた。
「俺は確かに吸血鬼だけど。ただ吸血鬼に血を吸われたからって、吸血鬼にはならない……」
「本当か?」
少年はこくりとうなずく。
突然襲ってきた男、しかも吸血鬼の言葉を簡単に信じていいものか。スカイアイの迷いを少年は読み取ったらしかった。
「襲ってしまって、ごめんなさい……」
スカイアイは困惑した。
吸血鬼とは、神に背き闇に生きる化け物。不死であり、人の生き血を啜り、退治することも困難だと聞いている。だが、自分は神を信仰する者として、善良な村人を脅かす存在を許してはならない。吸血鬼が実際に存在した以上、退治しなければならなかった。
「吸血鬼が、天敵である教会の前で倒れるなんてマヌケもいいところだな」
「ずっと長い間眠っていたから……おなかがすいて……」
それで倒れていたのか。やはり間抜けだな、とスカイアイは思った。
おなかが空きすぎて、理性がとんでしまったのだと吸血鬼は話す。
「長い間って?」
「さぁ……、百年くらいかな?」
首を傾げ、さらりと言われた言葉に驚く。あどけない少年に見えても、やはり人外の存在なのだ。あるいはこの姿も人の警戒心を解くための計算なのかもしれなかった。なぜならスカイアイはその術中にすでにはまりつつあったからだ。
「これ以上痛い目にあいたくなかったら大人しくするんだ」
ロザリオを掲げて脅す。このロザリオがどの程度吸血鬼に効くのかわからない。さっきのような馬鹿力を発揮されれば、スカイアイでも押さえ込むのは無理だ。
そんな危機感を覚えたが、吸血鬼はこっくりとうなずき素直に立ち上がった。念のため、彼の腕を後ろ手に一纏めにして拘束して罪人を連れていくみたいに歩かせた。
そして教会の地下に連れていき、ひとまず奥の一室に閉じ込めることにした。
部屋に入れられた吸血鬼は「殺さないの?」と首をかしげる。殺されないことを心底、不思議に思っているみたいだった。スカイアイはその無垢な瞳に内心たじろぐ。
吸血鬼を退治しようとしないことを一番不思議に思っているのはスカイアイ自身だった。
自分は神父として、神に背く悪しき存在を裁かなければならない。こんな化け物を放置したままにしてはいけない。何をするかわからない――と、理性ではわかっているのに、殺すのを躊躇う自分がいる。
「殺されたいのか?」
そんな自分を誤魔化すために、逆に問いかけた。吸血鬼は少しうつ向いて考え込んだ。
「ううん。でも……あなたになら、殺されても……いいかな」
目を細めてかすかに笑う吸血鬼を見ているとスカイアイの動悸が激しくなった。さっき血を吸われた箇所がじくじくと、毒が侵食していくように熱をもって鈍く疼いていた。