ネコの気持ち

朝、腹がすいて目覚める。
身体をうんと伸ばしてあくびをした。今日も俺の腹時計は正確だ。
布団の中から外へ出ると、俺を拾った生き物が寝ていた。
気持ち良さそうに寝ている横顔を前足で踏みつける。俺の体重はこの人の何十分の一しかないから大したダメージにはならないだろう。
何度かふみふみしていると、ようやくその人は薄く目を開いた。青い瞳がまだ眠そうにこちらを見た。
「おはよう、メビウス1……。でも、顔を踏んで起こすのはやめてくれっていつも言っているだろう……まったく」
俺にはその人が何て言っているのかはわからないが、不愉快にしかめられた眉を見れば何となくは伝わる。
「ニャー」
「ごはんだね……了解」
しかめた眉をほどいて笑う。
この人は俺に甘いんだ。仕事の邪魔をしても怒らないし、食べ物を食べなければ心配する。どんなに物を壊そうとも俺に危害を加えたことは一度もなかった。
この人に拾われてから数週間が経った。死を覚悟したあの時から、まさかこれほど快適な暮らしができるとは思っていなかった。
膝の上に乗ると優しく撫でてくれる。あの人の青い瞳は、いつもこの上なく愛おしいものを見るように細められていた。
そんな甘々な人だけれど、一つだけ、俺には絶対に許してくれないことがあった。
外へ出ることだ。

外が見える透明な窓の前に座る。緑の庭に小鳥が一羽、舞い降りた。
地面をつついている小鳥をなす術もなく見ている俺。透明な板に仕切られていて、あそこへ行きたくても絶対に行けない。少し前まであの世界にいたのに、今はひどく遠く感じる。
あの世界には命の危険がいっぱいある。俺もあの人に拾われなければ死んでいたんだろう。わかっている。でもそれが世界というものなんだ。
居心地は良いけれど、ずっとここにいたらあの人の甘さに溺れて二度とあの世界には帰れなくなってしまう。そんな気がして――。
考え込む俺の前に、たらりと紐がぶら下がった。
ゆらゆらと小刻みに揺れるそれを見ていたらどうにもムズムズして耳がピンと立ち、尻尾が左右に振れた。
完全に臨戦態勢になった俺は、紐に襲いかかった。あの人が手に持ってわざと動かしているのはわかってるけど、目の前で物が動くと狩猟本能が疼いてしまうのだ。
飛んで跳ねて走り回って、ひとしきり遊んだ後、俺は何を考えていたのかをすっかり忘れていた。

お気に入りのソファーの上で目を覚ました。
あの人の姿が見えない。
耳を澄ませて辺りを探る。カタカタと小さな音が聞こえる。
どうやら自分の部屋にいるらしい。眠るのに飽きた俺はソファーから飛び降りて、毛足の長いカーペットに着地する。
あの人がいる部屋へ向かった。途中の扉は全て開け放たれている。俺には扉を開けられないから、自由に動けるようにいつも扉は開け放たれていた。
部屋を覗くとあの人は机に向かって何かをしている。
俺は背後から忍び寄って膝の上に飛び乗った。
目測をあやまったのか高すぎたのか、足がずり落ちそうになってあの人の膝に爪を立ててしがみついてしまった。
「痛……っ」
悲鳴に、申し訳ない気持ちになる。傷つけるつもりはなかったのだけれど。
ズボンの布地に爪が引っ掛かってぶら下がった俺を、あの人は救出して膝に上げてくれた。
「……仕方のない子だ」
ため息をついて呆れながらも、声には優しさが溢れていた。
「ごめん」と鳴いた俺を撫でる大きな手。顎の下あたりをくすぐられると気持ちよくて自然と喉が鳴った。この人の膝の上で撫でられるのが一番好きだった。
身体から力が抜け、トロンと目蓋が下がってくる。
そんな時間を引き裂く無情な音が、玄関で鳴った。
「ん……誰か来たな。すまない、ちょっと待っててくれ」
寝ていた俺を膝の上から椅子の上にそっと移動させたあの人は玄関へ向かった。
膝から下ろされて目が覚めてしまった。毛繕いをしてボーッとした頭をすっきりさせる。さっきまであった温もりが消えて、なんだか急に寒々しく感じる。
あの人の後を追った。
玄関ではあの人と誰かが立ち話をしている。俺は物陰からそっと様子をうかがった。
玄関の扉を開けたまま二人が話している。二人の足の隙間から外が見え、俺の視線はその景色に吸い寄せられた。
太陽が明るく石畳を照らす。草は太陽の光をはじいてキラキラしている。いつもよりもずっと鮮やかに。
すぐそこに、外の世界がある。
胸がドキドキした。
今、あの二人の足の隙間を通っていけば外へ出られるのではないか?
あの人は話に夢中で俺の存在に気づいていない。これは外へ出るチャンスなんじゃないか。あの人はきっとこれからも俺を外へ出してはくれないだろう。そんな気がするんだ。
外へ出るチャンスはきっと、今しかない。
そう思ったら身体が動いていた。床を蹴ってしなやかに駆け出す。チリンと首に付けられたリボンが鳴った。あの人が気づいて振り返る。しかしその瞬間に俺は二人の足の間を通り抜けて、家の外へ出ていた。
風がヒゲをそよがせる。
土の匂いに、鳥の羽音。
ああ、外の世界だ。
「メビウス1……っ」
呼ばれて振り返った。
外へ出たと言っても、ここはまだ家の庭先。捕まったらまた閉じ込められてしまう。
俺は走り去ろうとした。
「待てメビウス1、行くなっ」
あの人が必死になにかを呼びかけている。青い瞳が見開かれて、すがるように見つめてくる。そんな目をしないでほしい。その目を見ていると自分が悪いことをしている気になる。
この人のことは嫌いじゃないんだ。俺を助けてくれたし、たくさんよくしてくれた。撫でてくれる手が好きだった。
「外は危険だ。戻っておいで、……ほら」
手を差しのべられる。
でも――。

甘い記憶を振り切るように走った。
「メビウス1!」
あの人が追いかけてきて、呼びかける声が聞こえる。
俺は無我夢中で走った。道なんてわからない。ここは俺のテリトリーじゃないから。
木によじ登り、塀に飛び移ってまた降りて。植え込みをくぐって花壇を超えて。
気がつけば背後に感じたあの人の気配は完全になかった。振りきることに成功したらしい。ほっとする。
あの人には悪いけれどやっぱり外に出たかった。外を自由に歩き、見たいものを見て、行きたいところに行きたかった。
風が毛並みをくすぐる。
太陽がポカポカと温かい。
危険は当然あるだろう。でも、俺はこの世界に生まれたから、ここで生きていかなくちゃならないんだ。
あなたにもらった恩と愛情は忘れないから。

俺は今日、安全に寝られる寝床を探しに一歩を踏み出した。

 

 

******

 

 

あの雨の日。
庭の植え込みの影で震えているあの子を発見したのは、ほんの偶然だった。
雨に濡れて、ボサボサの毛並みが更にみすぼらしく哀れに思えた。
家に連れ帰って泥を落とすためにシャワーで濡らしたら、ガリガリに痩せ細っていた。
飼うつもりはなかったんだ。
生き物を飼うのには責任が伴う。だからといって見捨てるのも後味が悪すぎる。誰か、飼ってくれる人を他に探すつもりだったのだ。
数日間、世話をしているうちに完全に愛着がわいてしまったのは誤算だった。
最初から人懐こく、撫でられても嫌がらなかった。ジャンプした着地の目測をあやまってずり落ちたり、食べている間に居眠りしたり、野良猫だったくせにあの子は妙に危機意識が薄くて鈍かった。
首輪を見せて「うちの子になるかい?」と聞いたら、まるで理解したみたいに「ニャー」と鳴いた。
あの子のために買った、青色のリボンがよく似合った。
「メビウス1」と名付けた。
猫を飼ったことがなかった俺は動物病院に足を運び、獣医師に注意すべきことなどを聞いた。
そのひとつが「なるべく外には出さないこと」だった。
猫は完全に室内で飼った方が長生きするらしい。交通事故に合わないとか、他の野良猫と喧嘩したり病気をもらったりしないなど、納得できる理由があった。
可哀想だが彼のためだと思って家に閉じ込めた。
メビウス1はときどき、外の世界を懐かしそうに眺めていた。そして飛び出していった。
やはり人間のエゴだったのだろう。残された空の餌皿を見てそう思う。
だがメビウス1の身体はまだ小さく、爪は細く頼りない。野生で生きていくにはあまりにもひ弱に見えた。
俺は近所に迷い猫の張り紙をして、辺りを探しまわった。
探しだしてどうするのか。
また彼を閉じ込めるのか。
それが彼の幸せなのかもわからないまま、メビウス1を探した。
彼がいなくなって初めて、自分がいかにあの小さな命に満たされていたのかを知ったのだ。

 

 

******

 

 

 

数日間、食べ物を求めてさ迷い歩いた。
もうヘトヘトだ。
ここがどこなのか、すっかりわからない。
歩き回るうちに他所の猫のテリトリーに入ってしまい、喧嘩になりそうになってあわてて走って逃げた。逃げた先には間の悪いことに大きな犬がいて、更に逃げた。
腹が減ったから狩りをしようと小鳥を狙ったのだが、首についたリボンが動く度にチリチリと鳴って獲物に気づかれてしまう。以前から狩りは得意とは言えなかったが、あの家を飛び出してからほとんど何も食べていなかった。
フラフラしていると空からカラスに狙われ、つつかれそうになった。植え込みに隠れて何とか難を脱した。
弱肉強食。弱くて隙のあるものは誰かに食われる。それがこの世界の常だ。
わかっていたはずなのに、もうあの温かい家が恋しい。いつでも満腹で、誰かに襲われる心配もなくのんびり寝ていられるあの家が。
あの人の愛情を身体いっぱいに受けて……。
自由を望んだのは間違いだったのだろうか。この世界で強く生きるなんて、俺には無理だったのだろうか。
今さら戻りたいなんて、虫がよすぎる。あの人が待っているかもわからないのに。
トボトボと当て所なく歩いた。
夜の闇の中、どこをどう歩いたのか自分でもわからない。危険の少なそうな場所を選んで歩いていたら、どこか見覚えのある場所に出た。
木々が生え、地面は芝生や草花が生えている。誰かの家の庭みたいだった。家を見上げると大きな窓があって灯りがともっている。
なんとなく温かそうに感じて、その窓に近寄った。
窓のそばにちょうど小さな階段状の脚立があって、その上に登った。
室内は温かいオレンジの光で満たされている。大きな木のテーブル、ソファー、毛足の長いカーペット。
あのソファーには見覚えがある。いつも自分が寝ていたソファーにそっくりだった。あのテーブルも、カーペットも。
ここはもしかして――。
部屋の奥の方へ視線をやると、あの人がうずくまっていた。やっぱりそうだ。ここはあの人と過ごした家だった。
なぜだかわからないけれど、めちゃくちゃに走り回り、歩き回っているうちに家に戻ってきてしまったらしい。
それにしても、あの人はあんな部屋の隅で何をしているのだろう。
少し角度を変えて、よく部屋を覗き込んでみる。
するとソファーの影に隠れていた、床に置かれた自分の餌皿が見えた。あの人は床にしゃがんでその空の餌皿をじっと見つめていた。
俺は、何だかたまらない気持ちになった。
あの人に気づいてほしくて「開けて」と鳴いた。
しかし、分厚い透明な窓に遮られてあの人は気づかない。
何度も何度も鳴いた。
窓に爪を立ててカリカリと引っ掻いてみた。透明な窓に当たるとキィキィと耳障りな音がする。
すると、あの人が何かに気づいたみたいにうつ向いた顔を上げてキョロキョロ辺りを見回した。
そして窓越しに目と目が合う。
信じられないものを見たみたいに目を見開いたあの人に向けて「ニャー」と鳴いた。
あの人がこちらに近寄ってきて窓を開けた。その動きはゆっくりしていてじれったくなるくらいだ。
「メビウス1……」
慎重に差しのべられる手。
そうか。また逃げられるかもしれないと心配しているのか。
確かにそう思われても仕方のないことを俺はした。
大丈夫だよ、という思いを込めてその手に頭を擦り付けた。
「メビウス1……!」
あの人が俺を持ち上げて、胸に抱き上げられる。首のリボンがチリンと鳴った。
「無事でよかった。本当に心配してたんだよ」
何度も撫でて頬擦りされる。
それがとてもくすぐったい。
俺も嬉しくて、何度もくり返し鳴いた。

 

膝の上で撫でられる。

やっぱり穏やかなこの時間が一番好きだな、と改めてそう思う。
あれから俺は、またこの人に世話をされている。戻っても受け入れてもらえないかもしれないとの考えは杞憂だった。この人は前以上に俺に甘くなった。
そして前以上に俺が外に出ないように神経を尖らせるようになった。
来客を知らせるチャイムが鳴った。
俺は膝の上から彼を見上げ、彼も俺を見た。
一瞬、見つめ合う。
さっと俺の身体を抱き上げると、彼は俺を扉のある部屋に押し込め、扉を閉めた。
そして足音が遠ざかる。
来客があるといつもこんな感じだ。
俺が二度と逃げ出さないようにとても慎重になっているみたいだった。実は、俺はまた性懲りもなく何度か逃げ出そうと試みたのだ。――失敗したが。
やはり自由への欲求は抗いがたいものがある。
それに別にずっと帰ってこないつもりでもなかった。
自分が外の世界で生きていけないというのはわかったし、この家が一番だとも思った。だから遊びに出掛けても、飽きたらきちんと帰ってくるつもりだったのだ。しかしそんな自分の気持ちがあの人にわかるはずもない。

用事が済んだのか、あの人が扉を開けてくれた。
「閉じ込めてすまないな」
頭を撫でてくれる。
それに「ニャー」と答えて足にすり寄った。
これからも外へ出たい俺と出したくないあの人との間で、物言わぬ攻防が繰り返されるのだろう。
でも俺はそれを結構楽しんでいるし、あの人もきっと、案外楽しんでいるに違いない――と、俺は思っている。