吸血鬼メビウス1 - 2/6

2.

 

「神父さま、じゃあぼくはこのへんで。さようなら」
「ああ、いつもありがとうマルコ」
ミサの後、掃除を手伝ってくれたマルコを見送る。
いつもの日常だ。
だが、スカイアイの心は夕闇が近づくほどに暗く沈んでゆく。人々に罪を悔い改めよと教えるその口で、自分自身が神に背くようなことをしているからだ。
スカイアイは地下に吸血鬼を隠したまま、これまでと変わりない日々を過ごした。
あの吸血鬼をどうするべきか、決心がつかないでいる。
いいや、やるべきことは決まっていた。
すぐに退治するのだ。
危険な存在だった。空腹でつい襲ってしまったと言っていた。あの馬鹿力で地下の扉がいつ破られるかわからない。そして村人を襲う。そうなる前に――。
わかっているのに、あの少し間の抜けた顔を思い出すと気持ちが萎える。十字架で焼かれた時の「痛い痛い」と泣いていた顔を思い出しては決心が鈍った。
だがもう、あれから数日は閉じ込めたまま放置している。さすがに様子をみた方がいいだろう。
スカイアイは重い腰を上げ、地下への階段を下った。
扉の鍵を開け、中に入る。そして吸血鬼が自分から外へ出ないように、閉めたドアの取っ手に予備のロザリオを下げる。どの程度効くのかわからない。お守りのようなものだ。
部屋の中を蝋燭で照らす。
下は冷たい石畳だ。そこに吸血鬼がうつ伏せにうずくまっていた。
出会った時を思い出す。ああやって倒れているふりをして、また襲いかかるつもりだろうか。
「おい、吸血鬼……」
声をかけてもピクリとも動かない。
胸に下げたロザリオを片手にしっかりと握りしめ、慎重に近寄った。
「どうした」
肩に手を当て、軽く揺する。しかし何の反応もない。だんだん心配になってきて、スカイアイは吸血鬼の身体を横倒しにうつ伏せからひっくり返した。ぱたんと力なく倒れる身体。床に投げ出される腕。血の気のない顔は目を閉じていた。死んでいるみたいに。
「おいっ、しっかりしろ!」
つい、声を荒げて身体を両手で乱暴に揺さぶった。
すると、呻き声をあげて吸血鬼がみじろいだ。
「おなか、すいた……」
「お前は……」
スカイアイは盛大なため息を吐いた。心配して損した。食い意地のはった吸血鬼だ。だが吸血鬼が生きていたことに、どこかホッとしている。
おかしな話だった。こいつを殺すことばかり考えていたはずなのに。
「吸血鬼というのは、腹が減れば餓死するのか」
「……しない。その前に、空腹が極限までいくと、理性を失う……」
つまり、出会った時のように本当の血に飢えた化け物になってしまうということか。
それはいかにも不味い。だが自分の血を差し出していいものか。
スカイアイが迷っていると吸血鬼が答えた。
「動物の血でも飢えはみたされるよ。若干だけど……。あとは、薔薇とか」
「薔薇?」
「うん。植物の薔薇にも、血と同じような精気が宿ってる……」
薔薇ならちょうど教会の庭にたくさん咲いている。
スカイアイは一度、地下から上がって庭に咲いた薔薇を数本採って、再び吸血鬼の元へと戻った。
「これでいいのか?」
「ありがとう……」
起き上がる元気のない吸血鬼の胸元に、薔薇を置いた。まるで葬儀のようだ。これから埋められていく人みたいな。手に握られたそれが真っ赤な薔薇なのはそぐわないが。
吸血鬼が薔薇の茎に手を触れると、瑞々しかった赤い薔薇は、見る間に萎れて枯れてしまった。ハラハラと黒く変色した花弁が辺りに散らばる。
「少し……、マシになった」
吸血鬼は気だるそうに身を起こした。やはり、人間の血でないと元気は出ないのか。
スカイアイは側に跪いて尋ねた。
「吸血鬼よ。お前は人を襲う気はないのか」
「うん……できれば、襲いたくはないな」
「何故だ?」
「……ちょっと、長くなるかもしれないけど、聞いてくれる? 優しい神父さま」
そう言って吸血鬼は穏やかに微笑んだ。

 

†     †      †      †      †

 

ずっとずっと昔、吸血鬼は今よりもっとたくさんいたらしい。
まだ幼かったメビウス1は、たくさんの仲間たちと村でつつましく、平和に暮らしていた。
吸血鬼には掟があった。人間をむやみに襲ってはならないという掟だ。吸血鬼は人間の血が力の源であり好物だったが、人間に同意もなく血を奪うことは禁止されていた。親しくなった人間から血の提供を受けるのが基本だった。動物の血を飲んだり、または吸血鬼同士の血の交換でも飢えはしのげた。
だがその掟を古くさい考えだと破るものが現れた。掟に従うなど馬鹿らしい、と人里へ下りていき、欲望のままに人間を手当たりしだいに襲ったのだ。
すると人間の方はたまったものではない。吸血鬼を恐ろしい化け物だと認識し、退治しはじめた。吸血鬼を一匹たりとも生かしてはおけないと、吸血鬼がひっそり住む村にまで集団で押し寄せ、襲いかかってきた。吸血鬼の掟とは、そうなることを見越して作られていた先人の知恵であったのだが、気づいた時にはもう何もかもが遅かった。
吸血鬼は人間よりもはるかに身体能力も高く、不死に近い生命力も持っていた。一対一なら人間になど負けはしなかっただろう。しかし人間が集団になった時の強さや情報力を見誤っていたのだ。
人間は吸血鬼の苦手なものを研究し、殺す方法を編み出した。吸血鬼ハンターなど、吸血鬼を専門に狩る人間も現れた。
吸血鬼は散り散りになって逃げ隠れたが、ほとんどの仲間は人間に殺されたのだという。
「お前はどうして助かったんだ」
「俺は両親と一緒に山奥に隠れていたんだ。だけどそこもどうやら人間に見つかってしまって……。俺は棺の中に両親によって眠りの術をかけられて、長い間、封印されていたみたいだ」
「みたい?」
「目が覚めて、棺から出た時にはもう誰も……何もなかった」
「ご両親はどうした」
「わからない……。でもきっと……死んでる。あれから二百年は経っているけど、迎えには来なかったから」
「そうか……」
二百年と聞いて、驚きと、やはり人間の尺度では計れない生物なのだという納得をスカイアイは同時に感じた。
「百年は封印されていた時間。もう百年はただ一人で両親が帰ってくるのを待っていたんだ。だけど、やっぱり動物の血や花の精気だけでは理性を保つのがだんだん難しくなっていった」
「お前は一人になってもまだ吸血鬼の掟を守っていたのか?」
「掟だからというより、人間を襲うと大変な目に遭うって思っていたからかな。それに、たった一人で、なぜ自分が――自分だけが生きているのか。何のために生きるのか……わからなくて」
そう言って静かに目を伏せて、何かに想いをはせる吸血鬼がスカイアイには哀れに見えた。
たくさんの仲間がいたのに、目が覚めればたった一人で百年。どれだけの孤独なのだろう。スカイアイには想像もできない。
「お前が、人に仇なすことはないと誓うなら……」
スカイアイの口は勝手にそんな言葉を紡いでいた。それがどれだけ自分の首を絞めるか、わかっていながら。可哀想ではすまない。もし吸血鬼を匿っていることがバレれば、今の神父としての地位も信頼も失うだろう。
わかっている。
わかっているのだが――。
吸血鬼がぽかんと口を開けてどこか幼さの残る顔を向けた。この顔がいけないのだ。妙に同情してしまうのは。
「誓うって、あなたの信じる神に……ってこと?」
「そうだ」
「あなたの神は、俺のような存在を許してくれないんじゃないの?」
吸血鬼の視線はスカイアイの首から下げたロザリオに向かう。これに酷く痛めつけられたことがまだ記憶に新しいのだろう。そういえばあの傷はどうなったのだろうか。
「お前のような存在でも、許しを乞えば救ってくださるにちがいない。――きっと」
スカイアイがそう言うと、吸血鬼は「じゃあ、あなたが信じる神を、俺も信じてみようかな」と薄く笑った。
「あと、俺の名前。『お前』じゃなくて、メビウス1っていうんだ神父様」
「変わった名だな。俺はスカイアイだ」
「スカイアイ……か」
吸血鬼はしみじみと、スカイアイの名前を大切なもののように噛みしめていた。

スカイアイは、教会の地下に吸血鬼メビウス1が住まうことを許した。スカイアイの暮らしで変わったことはあまりない。ただ、庭の薔薇の花が日々減っていくだけだ。
それを目ざとく気づいた者がいた。マルコだ。
「神父さま、庭の薔薇がなくなっていませんか?」
「ああ……、綺麗だから部屋に飾っているんだ」
そう言って何とか誤魔化したが、いつまでも誤魔化せるものでもない。このままいくと遠からず庭の薔薇が全て丸裸になってしまうだろう。
動物の血でもいいとは言っていたが、動物を自分の都合で手にかけるのも気がひける。
スカイアイはため息を吐いた。
夜のじめじめとした、少しカビ臭い地下の部屋の扉を開けると、吸血鬼はベッドの上に気だるげに身を起こした。
これまでは石の床に寝かせていたのだが、さすがにあんまりだろうと思って古いベッドを運び入れた。サイドテーブルやチェストなども置いて、部屋としては一応の格好がついている。
サイドテーブルに燭台を置く。
「う……っ」
メビウス1が苦し気に胸元を押さえた。
「どうした……。まさか、あの時の傷か?」
押さえた場所に覚えがある。十字架が当たって焦げ臭い匂いのしたところだ。
スカイアイはベッドに腰掛け、「見せてみろ」と命じた。
メビウス1は着ていたシャツのボタンを外す。白い首筋に、白く浮き出した鎖骨に目が吸い寄せられた。メビウス1がシャツを少しめくると、右胸に黒く焦げついた十字の傷跡があった。ところどころ膿が染み出している。
スカイアイは眉を寄せた。
「治らないのか?」
「普通は自然に治るよ。ただ今は、傷を治すだけの精気が足りない」
「血を飲めば……治るのか」
メビウス1はこちらを見つめた。スカイアイが何を考えているのかわかったみたいだった。その目には、否定も肯定もない。
ありのままに。あるがままを受け入れる、と。
何故こんなに静かな目ができるのだろう。傷は疼き、身体は飢えて仕方がないはずだ。それなのに、飢えからくる欲求も、同情を拒絶する意思もなかった。
スカイアイは首に下げたロザリオを外して、メビウス1からなるべく遠くへ置いた。メビウス1が僅かに目を見開く。
彼の静かな湖面のような瞳に揺らぎが生じた。そのことが妙にスカイアイの胸をすく。
服をゆるめて首筋をメビウス1に見せつけ、「飲め」と言った。
「いいの……?」
「ああ。吸われても吸血鬼にはならないんだろう。ならば構わない」
「……ありがとう」
うっすらと微笑んだメビウス1がベッドの上を膝立ちでにじり寄ってくる。
スカイアイの肩に手を置き、じっと見つめ合う。最後の意思確認でもしているようだ。スカイアイが少しでも嫌がる素振りを見せたら、やめる気なのだろう。少し横を向いて、噛みやすいようにしてやる。
そうしてメビウス1はようやく頭を近づけて、首筋に顔を埋めた。
ぷっつりと皮膚が食い破られる感触がして、しかし痛みはほとんどなかった。じんわりと温かいような感じが首から広がっていく。いい酒に酔ったみたいな感覚だ。
メビウス1が口を離す。
上げた顔を見て驚いた。真っ白だった頬は薄紅に染まり、唇は薄い皮膚の下が透けて見えるようなピンクだ。肌は内側から輝き、パサついた髪も艶やかに潤っている。凄まじい変化だ。それほど生き血というものが“彼ら”にとっては重要なのだとわかる。
「おいしい」
ほう、と吐息を漏らし、どこかうっとりとした口調で言う。いい酒に酔ったようになるのはどうやらスカイアイだけではないらしかった。
「傷は?」
気になって聞くと、シャツを捲ったメビウス1は「治った」と呟いた。確かに、さっきまで右胸にあったはずの傷が跡形もない。
スカイアイはほっとした。
「よかったな」
「スカイアイは、大丈夫……?」
「うん? 血を吸われて、という意味か? どうということもない。少々酔っぱらったみたいな感じがしたが」
「そう……」
だったらよかった、とメビウス1は続けて言った。

それからは、ほぼ今と同じ生活だ。
スカイアイは朝から日没まで教会の仕事をこなし、仕事が終わるのと入れ代わるようにして、眠っていたメビウス1が地下で目覚める。
スカイアイが寝るまでのわずかな間、庭を散歩したり話したりする。
メビウス1と接する時間は少なかった。
ある時は、スカイアイが食事をとるのを興味深げに見ていた。またある時は、スカイアイが彼に聖書を読み聞かせた。
「失われた羊の話をしよう」
「羊……?」
「とある羊飼いが、百匹の羊を飼っていた。しかしある日、一匹が迷子になってどこかへ行ってしまったんだ。羊は羊飼いから離れては生きていけない。羊飼いはその一匹を追い求めてどこまでも探して回った。そしてようやく迷子になっていた羊を見つけ、大いに喜んだ」
「う……ん?」
メビウス1は首を傾げた。なぜそんな話をしたのかよくわからない、といった顔だ。羊飼いが羊を見つけた、ただそれだけの話だ。
「羊飼いは、神を表しているんだよ。そして迷子の羊は、孤独な罪人……つまり君だ」
「俺……?」
「神は君を見捨てない。君が神を見失い迷っても、必ず見つけてくださる。だから安心していいんだよ」
メビウス1はスカイアイの話を困惑顔で聞いていた。しかし、スカイアイがたまにする神の話を嫌がったりはせず、いつも神妙な顔で聞いた。
スカイアイ自身はメビウス1になぜこんな話をしたのかと考えていた。神とは対極に位置する者に。

メビウス1の瞳はいつも空虚だった。孤独で、渇いていた。そんな彼に、神の愛と許しを与えたかったのかもしれない。