人魚のひみつ - 5/6

5.

かび臭くて埃っぽい。
地下の物置のような部屋にメビウス1は閉じ込められた。当然、外からは鍵がかかっている。
床は石で、座ると固くて冷たかった。
でももう、どうでもいい。脱力感が襲う。
メビウス1は膝を抱えて丸くなって座った。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と思う。
いや、わかってる。すべて自業自得だ。
禁忌とされていた人間に近づいたこと。
人間になりたいと思ったこと。魔女の薬を飲んだこと。
――あの人に、嘘をついたこと。
あの人の側にいたかった。全てはただそれだけだったのだけれど、運命はあの人に恋をしたのがそもそもの間違いだったといいたいのだろうか。
スカイアイの何の感情も浮かばない瞳を思い出すと身を切られるようにつらかった。あの人にだけは真実を告げたかったけれど、その望みも絶たれてしまった。
これから自分は何処かへ連れられて、人間たちから拷問を受けるんだろう。だけど自分は本当に声が出せないから、どんなに痛めつけられても彼らの望む情報は出てこない。
もうすぐ薬を飲んでからひと月が経つ。メビウス1はスカイアイと心を通じ合わせることはできなかった。魔女の言っていたとおり、メビウス1は泡となって消えてしまうのだろう。それとも、拷問で死ぬ方が早いか。
(どっちでもいい。どうせ死ぬんだから……)
メビウス1は真っ暗な暗闇の中で目蓋を閉じた。

 

色々なことが一度に起こって疲れきったメビウス1はいつの間にか眠っていた。
それでも軍人としての性だろうか、寝ていてもかすかな物音を感じてうっすらと目を開けた。
部屋の鍵を外す音だ。
静かに扉が開く。
暗闇に目がなれていたメビウス1は、気配を殺して現れた人物が誰なのか、よくわかった。
背の高い、その姿。
(ス、スカイアイ……?)
スカイアイは「シッ」と人差し指を口元に当てた。
「――ついておいで」
限りなくひそめた声でスカイアイは呟き、右手を差し出した。彼の表情は逆光で見えない。メビウス1はためらいながら右手を出した。それを力強く掴まれる。
スカイアイと共に暗い地下の部屋を出た。一階に上がり外へ出て、馬小屋から馬を一頭連れ出した。その馬に二人で乗る。
スカイアイが馬の腹を蹴ると馬はぐんと速度を上げた。
頬に感じる風に、二人で馬に乗って海の岩場まで駆けた時を思い出した。どうやら本当にそこへ向かっているらしいと気づく。道順があの時と一緒だった。
(スカイアイ……なんで?)
空が明るい紫色に染まっている。
もうすぐ長い夜が明けようとしていた。

二人にとっての特別な場所。あの岩場に到着した。馬を降りて岩場を進むスカイアイについて行く。
波が岩に打ちつけて砕ける。
スカイアイは平たい岩の上に立ち、夜が明けようとしている水平線を見ていた。
「君と、二人きりで話がしたかった」
そう言って視線をこちらに向ける。その目は、あの時のような何の感情もうつさない瞳ではなく、しっかりとメビウス1を見つめていた。いつもの優しいスカイアイだ。メビウス1は安堵した。
「嘘はつかないでくれ。君は……敵国の間諜なのか?」
メビウス1もスカイアイから視線をそらさず、首を振った。
(どうか伝わってくれ)
気持ちを込めてスカイアイの青い瞳を見つめた。しばらく見つめ合い、スカイアイはホッと肩から力を抜いた。
「やはりな……。確かに君には状況的に疑わしい行動があって、エリックの言うことも否定はできなかった。しかし、俺には君が間諜だとはどうしても思えなかったんだ」
スカイアイは、あの場はエリックの言う通りにすることで彼を落ち着かせ、ひとまず場をおさめたのだと言う。そして隙をついてメビウス1を地下から解放した。
「……いや、たとえ君が本当に敵の間諜であったとしても、俺はこうしていただろうな」
スカイアイが一歩近づき、メビウス1の目の前にはスカイアイの胸しか見えなくなった。温かさに包まれる。
すっぽりと身体を抱きしめられていた。
「君を……好きになってしまったんだ」
メビウス1は息を吸い込んだ。
頭が混乱して、スカイアイが何を言っているのか理解できない。
スカイアイは抱きしめた身体を少し離した。メビウス1が上を向くとスカイアイの優しい瞳とかち合う。その奥に切実に訴えかけるような熱を感じた。
「メビウス1、……好きだ。君が何者であっても」
スカイアイの顔が近づいて視界いっぱいに広がる。
唇に温かい感触。
ああ、これは知っている。以前、彼に人工呼吸をしたことがあったから。
だけど、あの時とは全然違う。
唇と唇が触れあう。甘くついばみ吸い上げる。
こんなのは知らない。こんな、甘くて恥ずかしくて泣きたくなるようなのは。
愛しい、と言っているみたいな。
(ああ……スカイアイ、俺も好きだよ――ずっと、初めて会った時から)
気持ちが溢れて飛び出しそうだった。しびれるような幸せが身体中を駆け巡って、メビウス1の髪の一筋から爪の先、細胞のひとつひとつまで満たした。
突然、メビウス1は支えを失ってバランスを崩した。スカイアイが驚いて強く抱きしめる。
「どうした……っ!?」
メビウス1は足がなくなったように感じた。違う。なくなったわけじゃない。
「君、それは……」
スカイアイに、ほとんど体重を支えてもらわなければ上体を起こしておけなかった。
メビウス1の二本の人間の足は、一瞬のうちに鱗に覆われた魚の尾びれに変化していた。
スカイアイも支え続けるのが厳しくなり、ズルズルと岩場に二人で崩れて座る。無意識に動いてピチピチと岩を叩く尾びれ。なつかしい感覚だった。
「――やっぱり。見間違いじゃなかったんだな。ここで気を失った俺を助けてくれた人が海に飛びこむところが見えたんだ。下半身が魚の、人魚のようだった。夢か幻だと思っていたんだが……」
「見られてたのか……」
「えっ、君、その声……」
「あっ、声が出る!」
「一体どういうことなんだ」
「えっと、これはその……」
メビウス1は自由に出せるようになった声で、ずっと話したかったことを語った。魔女の薬で人間になったこと。その代償に声を失ったこと。
「どうして人間になろうと?」
「そ、それは…………あ、あなたのことが忘れられなくて……。どうしても、もう一度会いたかったから……」
言っていて恥ずかしくなってうつむいた。頬が熱くてたまらない。
「メビウス1……」
「だから記憶喪失って言うのは嘘だったんだ。本当にごめんなさい」
「そんなことはいいんだ。……あのナイフは?」
メビウス1はあまり話したくはなかったが、もう嘘をついたり誤魔化したりするのはこりごりだったから、全てを明らかにした。
スカイアイは経緯を聞いて青ざめた。
「数日後には泡になって消えるところだったって……? なんてことを、メビウス1」
強く呼び掛けられ、自然と背筋が伸びる。
「自分の命を大切にするんだ、頼むから……」
きつく抱きしめられる。叱られると覚悟して力んでいたメビウス1は、思いがけない甘い包容に尾びれをばたつかせた。
「スカイアイ……」
「もう一度、呼んでくれないか。ずっと君の声を聞きたいと思っていたんだ」
「ス、……スカイアイ」
「ああ……」
スカイアイは返事とも、呻きともとれるような声を発した。深く感じ入っているみたいだった。
スカイアイの肩越しに海が見える。
水平線からまばゆい光を放ちながら太陽が顔を出した。空は紫から赤、そして青へと変化していく。
地上はなんて色鮮やかなのだろう。花も木々も空も。愛おしい人が住むこの世界は、なんて美しいのだろう。
メビウス1はスカイアイの身体に腕を回して、その温かさを、この景色と共に胸に刻んだ。
ずっとこうして抱き合っていたかったがそうもいかない。
「スカイアイ、俺は海に帰らなきゃならないんだ」
一時は自分は泡になって消えるのだと全てを諦めていた。しかし人魚に戻れた今、自分にはやらなければならないことがある。
メビウス1は説明した。海の中でも戦争をしていて、自分の国が滅びそうな状態にあると。だから戻って自分も戦わなければならないということを。
「そうか……」
スカイアイは深くうなずいてメビウス1の立場を理解してくれた。海と陸、生きている場所は違えども軍人同士、通じ合うものはある。
その時、遠くから馬の足音が近づいてくるのが聞こえた。こちらに向かって複数、馬に乗った兵士が駆けてくる。先頭はエリックだ。
「気づかれたな。さぁ、行くんだ」
「スカイアイは大丈夫……?」
スカイアイは間諜として疑わしい自分を逃がしたことになる。罪に問われないかが心配だった。
「心配しなくても俺なら平気だ。エリックも、先の負け戦の穴埋めをしようと焦っていたんだ。どうか許してやってくれ」
「また……、会えるかな……?」
メビウス1は拒絶される不安に怯えながら尋ねた。しかし、そんな心配は杞憂だった。
スカイアイは即座に答えた。
「もちろんだ。生きて、またここで会おう」と。
本当に会えるのかはわからない。これからメビウス1は激しい戦いに身を投じなければならないし、スカイアイもまた同じだ。海と陸、二人は生きる世界が違う。
それでも、彼が言うなら信じられるんだ。きっとまた会えると。
メビウス1は、にこりと笑って海に飛びこんだ。
ぱしゃん、と小さく水しぶきが上がる。
スカイアイは海の浅いところを尾をくねらせて優雅に泳いでいくメビウス1の姿を見送った。
「スカイアイ少佐!」
馬を下りてエリックが走ってくる。歩きにくい岩場をものともせず軽い身のこなしで近寄る。よほど慌てているらしい。
「あの男を逃がしたのですか!?」
乱れた息で詰問する。
「エリック、彼はな――」
スカイアイが説明しようとした、その時だった。
少し離れた海の中から大きな波音と水しぶきをあげて何かが飛び上がった。
高く、高く。
細い身体。
その腰から下には魚の尾びれがある。月のように弧を描きながらしなやかに湾曲する。水平線から昇りきった白い太陽を背にして、キラキラと水滴をまとって輝く銀の鱗。
その優美さと、力強さ。
「人、魚……?」
隣からエリックの呆然とした呟きが聞こえる。
人魚は伸ばした手先から水面に向かって落ちていく。ほとんど水音をさせないで波の中へ沈んでいった。
人魚が跳ねたのは瞬きの間だったが、それを見た人間に鮮烈な印象を与えて海原に消えた。まるで夢か幻のように。
「……彼には、うちのプールは狭すぎたみたいだね」
スカイアイは痛快な心地で、朝の太陽を仰いだ。

 

人魚の身体で無事に海底の国に戻ったメビウス1は、隣国エルジアに攻めこまれて敗北寸前の祖国を守るため、オメガ1らと共に戦った。そしてギリギリの状況から巻き返し、エルジアに打ち勝つという奇跡を起こす。
メビウス1は救国の英雄と呼ばれるようになる。