人魚のひみつ - 1/6

1.

広い海原、その波間。
カモメたちが魚を狙う。
魚たちは海の深くへ潜る。
そこは美しい青の世界。
魚たちが群れをなして泳ぐ。キラキラと鱗を輝かせながら。それを口を開けて追いかけるサメ。真っ黒なスミを吐くタコ。色とりどりの珊瑚礁やイソギンチャク。イソギンチャクに隠れてクマノミが頭を出す。
貝たちは土の中で静かにおしゃべりをする。
人間の知らない、海の底の底。

そこに一匹の人魚がいた。

 

 

「メビウス1、よけろ!」
仲間の鋭い声で、メビウス1は反射的に身をよじった。槍の矛先が腰の鱗をわずかに掠め、シャリ、と涼やかな音を立てる。
メビウス1は尾びれをくねらせて水を強く蹴った。一気に加速する。反動をつけて手に持った槍を突き出す。その速さは弾丸のごとく。敵を貫く確かな手応えが槍を持つ手に伝わった。
「ぐ……ぅッ」
メビウス1を貫こうとした敵は、逆にメビウス1の槍に胸をひと突きにされ、呻いて絶命した。
「大丈夫か、メビウス1!」
仲間が泳いで近寄ってくる。
「ああ……かすっただけだ」
敵に突き刺した槍を引き抜く。赤い血が海水に広がった。
槍がかすった腰の鱗を確かめた。メビウス1の銀色の鱗にはわずかに白く傷がついていた。しかし皮下組織に傷がついたわけではなく、痛みもない。
「ありがとう、オメガ1」
オメガ1はメビウス1より年長で、先輩の兵士だった。見た目は厳ついが面倒見のよい男で、軍に入隊した当初からなにかと無愛想なメビウス1の面倒をみてくれ、今では最も信頼する仲間である。
「いやぁ、さすが敵に『死神』と呼ばれるメビウス1だな。あいつはかなりの手練れだったが、ひと突きか」
「別に――」
そう応えかけたメビウス1のセリフを遮って、巨大な音が辺り一面に響いた。
「何だ!?」
オメガ1が海面をふり仰ぐ。
はるか上の海面に、何か大きな影がよぎった。
「あれは……」
「人間の乗る船だな」
オメガ1が吐き捨てるように言う。
一体、何があったのだろうか。上空から船の破片であろう木片や、鉄の欠片が降りそそいだ。
そして遅れて人間も。海底に沈んでくる人間は皆、当然生きてはいない。
戦場は一気に混沌とした。味方だけじゃなく、敵方にも動揺がみられる。
「くそっ、人間どもめ……また海を汚しやがって。敵も退いていく。メビウス1、帰るぞ。今日の戦は終いだ」
オメガ1は苦々しげに呟いて、海の底にある王国へ尾ひれを向けた。
「ああ……うん」
答えながら、メビウス1はオメガ1の向かった海底とは反対の方向へ泳ぎ出した。ただの気まぐれだが、水面で何が起こったのかを確かめたくなったのだ。
たくさんのガラクタが海に漂っている。それを避けながら水面へ向かう。
ものの数秒で水面に顔を出した。
大きな船が視界に飛び込んできた。人間の乗る船の中でも最も大きいものだ。それが傾いて、沈みかけている。夕日の紅を背景にして、どこか禍々しい。
船の土手腹には大きな穴があいていて、そこに大量の海水が流れ込んでいた。あれが船の致命傷になったのだろう。
人間界のことはよくわからないが、たぶん彼らも戦争しているんだと思う。ここのところ海底にたくさんの人間が流れ着いてくる。もちろん死んだ人間だ。
人間がまだ甲板にたくさんいて慌ただしく動いていた。
(陸の世界も大変なんだな……)
メビウス1は漠然と親近感を覚えてしまった。
そんな中、甲板にいた一人の人間がこちらを見下ろした。それなりに距離があったはずなのに、不思議なほどバッチリと目があってしまったのだ。
背の高い精悍な男だ。
つい見入ってしまったが、人間に姿を見られるのは禁忌だ。魚である下半身は海の中にあるから見られてはいないはずだが、生きるか死ぬかの場面で悠長に海面から観察する者がいたら、やはりおかしく思われるだろう。
(まずい)
メビウス1がそう思って海面に潜ろうとした時、遠くからドンと空気を震わせる大きな音がした。一瞬の後、目の前の船の甲板が何かに押し潰されるように砕け散った。
船のへり近くにいた背の高い男は爆風に吹き飛ばされたらしく、海面へとまっ逆さまに落ちていった。
そこからの行動は、なぜそうしてしまったのかメビウス1にもわからない。
海に落ちた男めがけて泳ぎ、気を失ってぐったりした身体をすくい上げて海面に引き上げた。しかし、男は息をしていなかった。
メビウス1はそこから最も近い岸まで男を連れて泳いだ。この辺りの海岸には浜辺がない。仕方なく平たい岩の上に男の身体を押し上げた。意識を失った、それなりに逞しい身体の男を海水から引き上げるのは、なかなか骨の折れる作業だった。
岩に寝かせた男の脈を確かめる。
――まだ、生きている。
メビウス1はホッとした。
外傷はなさそうだ。だが、肺に水が入って呼吸が止まっている。人間は人魚とは違って水の中で呼吸ができないのだ。そのくらいは知っている。
メビウス1は大きく息を吸い込み、男の唇に自身の唇を合わせた。ふぅ、と息を吹き込む。
何度か繰り返すと男はゴボッと水を吐き出し、息を取り戻した。激しくむせる男の様子を側で見守る。
息の落ち着いた男が、まぶたを震わせて薄く目を開いた。
――青い瞳。
深くて、キラキラしていて、美しい。
メビウス1の心臓はドクンと大きく脈打った。この宝石を誰にも見せたくない。自分だけのものにしたい。そんな風に感じた。
「君、は……」
しゃがれた声が男の口から漏れる。
その時、遠くから人の声と足音が近づいているのを感じて、メビウス1は男を岩場に残したまま後ろ髪を引かれる思いで海の中へと飛び込んだ。

 

メビウス1は力強い銀の尾びれを持つ人魚だった。
泳ぎは国で一番速いと評判だ。現在、メビウス1の国は隣のエルジア国と戦争をしているのだが、その強さから『死神』などとあだ名されて恐れられていた。
「最近、お前おかしいぞ。どうしたんだ?」
オメガ1が、傷の手当てをするメビウス1に向かって言う。
オメガ1の言いたいことはよくわかっている。以前の自分なら戦いで傷など受けなかったから。といっても、かすり傷程度だが。
集中力を欠いている自覚はあった。
ここのところ、夜は眠れず、食欲もなく、暇があれば物思いにふけってしまう。
頭を占めるのは、あの海のような青い瞳を持つ人間のこと。なぜか彼のことが頭から消えてくれない。
もう一度、あの瞳を見たい。
あの時はちゃんと聞けなかったけど、きっといい声をしているはずだなどと根拠なく思う。
言葉を交わしてみたい。あの人の名前を知りたい。名を呼ばれたい。
そんなことを夢想しては、いても立ってもいられなくなる。
それをメビウス1は唯一信頼しているオメガ1に打ちあけた。
オメガ1は口も目もカッと開き、「お前、人間に会ったのか」と驚きをあらわにした。
「ダメだダメだ! 人間なんてろくなもんじゃねぇ! さっさと忘れろ!!」
オメガ1はとても嫌なことを聞いてしまったとばかりに肩を怒らせて去っていく。彼は人間が大嫌いだったから相談する人を間違えたのかもしれない。しかし人魚たちは大体が人間嫌いである。というのも、昔から人魚は物珍しさから人間に狩られてきた歴史があった。だから人間に近づいてはならない、人間に姿を見せてはならないという決まりがある。
メビウス1も人間に対して好意的になった覚えはない。正確には、好きでも嫌いでもない。自分とは違う世界の生物だし、そもそもメビウス1は感情自体が常日頃から薄かった。
誰かを好きになったり、嫌ったりしたことがなかった。冷徹で顔色ひとつ変えずに敵を屠るから、つけられたあだ名が『死神』だ。
けれども、あの人間に会って何かが変わった。
食事をしても味がわからない。寝ても覚めてもあの人のことを考えてしまう。
――このままでは、頭がおかしくなる。
メビウス1は藁をもすがる思いで、魔女の元を訪ねた。

魔女は、王国の外れに住んでいる。大きな巻き貝を乗せた屋根の家だった。
メビウス1は深夜、こっそりと魔女の家を訪れた。魔女の家に行くことは、やはり禁止されていたからだ。
魔女は海の世界で唯一、人魚を人間にする薬が作れる。いにしえの時代から陸の世界に憧れて人間になりたいと思う人魚は後をたたなかった。そんな人魚に、人間になれる薬を与えてきたのが魔女だ。
魔女は深海色のローブを身に纏い、素顔は見えない。枯れ枝のような細い指で何が入っているのかわからない紫色の液体の入った壺を柄杓でかき混ぜていた。
「おやおや……人間になりたい人魚かね」
魔女はメビウス1が訪ねてきた理由などすでにわかっていたようだ。
「人間になる薬が欲しいんです。どうしても、もう一度会いたい人がいて……」
「恋だねぇ」
「こ、恋?」
メビウス1は目を白黒させた。思いもよらなかったことだった。まさか自分が誰かに恋をしているなど――。
「眠れない。相手を思うと胸が苦しい……恋じゃなければなんだね?」
(恋……これが)
メビウス1はようやく自分の胸苦しさの正体を知った。自覚した途端、顔が火照り、動悸が激しくなる。
「薬は作ってやれるよ。ただ、この薬は万能じゃない。尾ひれが人間の足に変化するのは激痛をともなう。そして足を得る代わりにあんたは声を失う。そしてもうひとつ重要なことだ。あんたが想い人と心を通じあわせられなければ、ひと月であんたは海の泡となって消える」
それでもいいのかいと問われ、メビウス1は迷いなくうなずいた。
声が出なくなるなんて別にどうでもいい。もともと喋るのは苦手だ。あの人に会えたなら、海の泡になってもかまわない。こんなに何かに心を揺さぶられたのは初めてだった。

魔女の家を出て、あの日、あの男を助けた岩場にやってきた。
手には魔女にもらった小さなガラスの小瓶。中に入っている紫色の液体は人間になる薬だ。
メビウス1はそこで薬を一気に飲み干した。
カッと全身が熱くなる。
尾ひれが二つに裂かれる。身体が真っ二つになるような激痛がメビウス1を襲った。
「ぐ……ッ、ぅ」
喉から悲鳴がほとばしった気がしたが、出たのはただの息だけだ。
声が、出ない。
苦しい。
――痛い、痛い、イタい!
メビウス1は岩に爪を立てた。爪が剥がれて血がにじんだが、そんなものが気にならない程の痛みだった。
このまま死んでしまうのかもしれないという恐怖が襲う。
死ぬ前に、どうか、もう一度。
あの人に――。
メビウス1は傷みの中で、それだけを願った。