人魚のひみつ - 2/6

2.

 

サラサラした乾いた感触に包まれている。
これはなんだろう。
メビウス1は違和感から目を覚ました。
レースのカーテンから柔らかな朝の日差しが差し込んでいる。
ベッドは白い布に覆われていて、メビウス1は違和感の正体に気づいた。いつものワカメのベッドじゃない。
バッと起き上がってシーツを捲る。
いつのまにか人間の服を着させられていた。腰から下が銀の鱗に覆われた尾びれじゃなく、二本の足がにょっきりと生えていた。
(足が――ある!)
メビウス1はどうやら人間になるのに成功したらしい。激痛があるとは聞いていたが、確かにものすごく痛かった。もう二度と味わいたくないレベルの痛みだった。
それにしても、ここはどこなのだろう。
白を基調とした美しい部屋。それなりに広いが掃除は行き届いている。ベッドの脇にあるテーブルには瓶に青い色の植物が挿してある。陸に生えているという“花”だ。噂には聞いていたが初めて見た。
ここは人間の屋敷らしい。
メビウス1には全てが物珍しく、キョロキョロと辺りを見回した。
コンコンと、ドアをノックする音に肩が跳ねる。
返事をする間もなく入ってきたのは人間の女だった。黒いスカートに、白いエプロンをしている。
ベッドに起き上がっているメビウス1を見て、女は目を丸くした。
「まあ、気がつかれたのですね!」
女はそれだけ言うと、入ってきたばかりなのに慌ただしく去っていった。
しばらくして、複数の足音が近寄ってくるのが聞こえた。
再びのノックの後に現れたのは、背の高い男。
心臓がドクンと脈打った。
その姿は、あの海でメビウス1が助けた人間。会いたくて会いたくてたまらなかった男だった。
「……気がついたんだね、よかった」
男は柔らかな笑みを浮かべてベッドで固まっているメビウス1に近寄ってきた。
――信じられない。あの人が目の前にいる。
想像していたよりずっと優しくて深い響きのある声に聞き惚れる。高い背と、均整のとれた身体を覆う黒い服。腰に下げた細い剣。もしかしたら男は軍人なのかもしれない。隙のない身のこなしから、同じく軍人であるメビウス1は直感的にそう感じた。
「具合はどうかな。岩場に裸で倒れていたのを俺がたまたま見つけてね、うちに連れ帰って目が覚めるまで看病していたんだよ。あんな所で倒れているなんて……海に足でも滑らせたのか?」
(あ、あの、俺は――!)
メビウス1は口をパクパクさせた。
「うん……? もしかして君は口がきけないのか?」
(そうだ、薬を飲むと声が出なくなるんだった!)
ベッドの隣に椅子を持ってきて座った男は、さっきの女に紙とペンを用意させた。
「文字は書ける?」
渡された紙にメビウス1は「助けてくれて、ありがとう」と書いた。
「いや、気にしなくていい。君の名前は? 家はどこだい? よかったら家まで送ろう」
メビウス1はとっさに、記憶喪失で自分の名前以外は何も覚えていないと返した。
「記憶がない……? 溺れた時に頭でも打ったのかな」
可哀想にと同情してくれた男には悪いが、自分が人魚であったことや、この男に会いたくて人間になったことなどを説明するわけにはいかなかった。信じてもらえるわけがないし、せっかくこの人に会えたのだ。嘘をつくのは心苦しいが、今はこの偶然を最大限に活かすしかないと思った。
「じゃあ、記憶が戻るまでゆっくりしたらいい。部屋は空いているしね。大丈夫、きっとすぐに思い出すよ」
慰めるように男は優しく背中を撫でた。メビウス1の胸が嘘をついた罪悪感でズキンと痛む。
「ああ、自己紹介がまだだったな。……俺の名前はスカイアイだ。よろしく、メビウス1」
差し出された手を握った。
(スカイアイ――スカイアイか)
声に出せないかわりに、胸の中で繰り返し男の名を呼んだ。

ずっと寝ていたのだから、まずはシャワーでも浴びてはどうだとスカイアイがすすめた。シャワーとはなんだろうと疑問に思いながらベッドから立ち上がろうとした時、身体がグラリと傾いた。
「あぶない!」
ぐらついた身体をスカイアイが支える。
なんだ、この人間の足というものは。
二本の足をどう動かせばいいのかわからない。細くてバランスが取りにくい。よく人間はこんなので歩けるなと思った。
フラフラしてうまく歩けない。それに、地上は海の中にいるよりもずっと身体が重く感じられた。
「ずっと寝ていたから、足が弱っているのかな?」
スカイアイは勝手にそう判断したらしい。メビウス1の膝の裏に腕を入れて身体を持ち上げた。
「!」
「旦那さま自らお運びにならなくても……従僕を呼びましょうか」
さっきの人間の女が慌てたように言った。どうやらこの女性はこの家の召し使いのようだ。
「いや、いいよ。このままバスルームに連れていく」
抱き上げられ、急の接近にドキドキしてしまう。ずっと会いたかった人がこんなに間近にいて、触れているという事実がまだ信じられない。
シャワーとやらがある部屋に連れていかれた。
身体がすっぽりと収まりそうな脚の付いた大きな入れ物がある。じっと見ていると「まさか風呂の入り方がわからないのか」と言われ、こっくりとうなずいた。
「記憶喪失とは、そんなことまで忘れてしまうのか。名前は覚えていたのになぁ」
不思議そうに言われてギクリとした。
スカイアイが壁についた蛇口をひねると、上部にある変な形の金具から水が雨のように降ってくる。
ビックリして思わずスカイアイにしがみついた。
「ははは。ここをひねると水が出るから、身体を洗ってくれ」
スカイアイはあらかたシャワーの浴び方について説明した後「ごゆっくり」と言って去っていった。
服を脱いで裸になる。
スカイアイに教わった通り、石鹸を泡立てて髪や身体を洗う。泡をシャワーで流す。
水が身体を流れる感覚がすごく気持ちいい。水を浴びるとなんだか生き返った気がする。ずっと水の中で生活していたのだから。
今の自分の身体は人間のものだから、海に入っても呼吸ができなくて死んでしまうだろう。でも、やっぱり自分は水に触れるとひどく落ち着くのだ。
シャワーを浴びた後、身体を乾いた布で拭く。新しく用意された服を身につける。正直、服を着るのはあまり馴染まない。ごわごわして、身体にまとわりついて締め付ける。
人間はなんでこんなものを着るのだろう――わからないが、人間らしくするには慣れるしかないのだった。メビウス1はため息をついた。
シャワーを終えた後、スカイアイに支えてもらいながらなんとか歩き(また抱き上げられそうになったが丁寧に断った)食事をすることになった。
「病み上がりだから身体によさそうなものを用意させたよ。食べられそうなものだけ食べてくれたらいいから」
テーブルにはたくさんの料理が並んでいた。人間の料理なんて食べたことがないから、どれが好きかわからない。ただ、みんな美味しそうに見える。
スカイアイも同じテーブルについて食べだしたから驚いた。こんな広い家に住んでいて、使用人もいるくらいだ。身分が高そうだったが、自分みたいなどこの誰かわからない人間と共に食事をするものだろうか。
客人として扱われているのかもしれないが、スカイアイはずいぶんと優しい人だ。
しかし、スカイアイと共に食事を取れたのは僥倖だった。彼の真似をしながら食べれば人間の食事マナーを知らない自分でも粗相をしないですむ。
一通り食べて腹がふくれる。
人間の食事もわるくないな、などと思いながらいっぱいになった腹を撫でた。
「病み上がりにしてはいい食べっぷりだったな」
スカイアイが笑う。
しまった、もう少しおさえて食べるべきだったか。人間の食事が意外にも美味しくて食べすぎてしまったかもしれない。
「いや、食欲があるのはよかったよ。デザートはどうだい? フルーツとか」
食べ終わった食器は使用人に片付けられ、テーブルには何やら色とりどりの物体が籠に盛って出された。これがフルーツとやらか?
メビウス1が不思議そうに首を傾げて見ていると「食べ方がわからないのか」とスカイアイに言われてしまった。
スカイアイは椅子を持ってきてメビウス1の隣に座った。フルーツの盛られた籠から紫色の粒がたくさんついた物体を手に取ると、小さな一粒をもぎ取った。
「これはブドウという。……美味しいよ、口開けて」
一粒を口元に差し出される。
言われるがままに口を開いた。
スカイアイが指に力を入れるとぷちゅ、と紫色の皮から中身が飛び出した。瑞々しい粒が口の中に滑り込むように落ちてくる。
(……甘い! なんだこれは!!)
雷が落ちたような衝撃を受けた。こんな甘いもの、海の中にはなかった。
メビウス1があまりにも目をキラキラさせていたからか、スカイアイがおかしそうに笑った。
「気に入ったかい? たくさん食べていいよ」
そういって、またブドウの一粒を指につまんでメビウス1に与えようとする。
彼に手ずから食べさせてもらっている今の状況はなんだかおかしい気がする。食べ方はわかったのだから自分で食べるべきだと思うのに、彼がにこやかにブドウを差し出すものだから断りづらい。
(自分で食べられるって言うべきかな……)
なんだか無性に恥ずかしく感じてきて、顔が熱くなった。
「失礼します」
二人の甘ったるい空気を切り裂くように部屋に入ってきたのはスカイアイより若い男だった。スカイアイと同じような軍服を着ている。短い髪、鋭い目付きで、いかにも軍人という雰囲気だ。
彼はスカイアイに向けて敬礼した。
「おはようございます、スカイアイ少佐」
「ああ、おはようエリック」
エリックと呼ばれた男はスカイアイに向けていた視線をちらりと横へずらし、メビウス1を見た。
「気がつかれたのですね」
「今朝な。彼の名はメビウス1というのだそうだ。しかし、名前以外の記憶がないらしくてな。しばらくうちで面倒をみようと思っている」
「記憶がない……ですか」
「メビウス1、彼は俺の部下のエリックだ」
スカイアイが彼を紹介する。エリックはメビウス1に向かってにこりともせず一礼した。
「少佐、おくつろぎのところ申し訳ありませんが、ご相談したい案件が……」
「ああ、いいよ。……じゃあメビウス1、悪いが失礼する。君はゆっくり食べていてくれ。この家も自由に使っていいからね」
スカイアイは爽やかな笑みを残して出ていった。
エリックもスカイアイの後に続く。が、去り際にメビウス1を一瞥していった。
その瞳の鋭さにたじろぐ。
(彼に睨まれるようなことを自分はしてしまっただろうか。初めて合った人間なのに?)
理不尽さと不可解さを感じて、メビウス1は内心で首をひねった。