人魚のひみつ - 3/6

3.

こうしてメビウス1はスカイアイの屋敷で暮らすことになった。
メビウス1にとっては好きな人がそばにいる、まさに夢のような日々である。
スカイアイは毎日忙しくても一緒に朝食を取る時間を必ず作ってくれた。そして体調をたずねたり、記憶が戻っていないか確認したりした。
スカイアイは唯一の手がかりである「メビウス1」という名前で、家族や知人がいないか近隣一帯を調べてくれたらしい。だが手がかりは何も得られなかったようで、すまなそうに謝った。
(彼のせいではないのに)
見つかるはずがないのだ。地上に自分を知る人間なんていない。
記憶喪失にするにしても、名前だけ覚えているなんて設定にしなければよかったのかもしれない。そのせいでスカイアイに要らぬ労力をかけてしまった。
名前を告げてしまったのは、ただスカイアイの声で――あの心を揺さぶる声で名前を呼ばれたかったから。それだけだった。
スカイアイは優しく、親切で、喋れないメビウス1に対してもよく話しかけてくれた。メビウス1はうなずくか、首を振るくらいしかできなかったのだが。
ある晴れた日、スカイアイが言った。
「今日はいい天気だな」
メビウス1はこっくりとうなずく。
「暑いからプールで泳ぐか」
( プール? ……プールって何?)
首を傾げるメビウス1を、スカイアイは案内した。
屋敷の裏庭に、地面を四角くくりぬいて石で囲った巨大な水溜まりがあった。これがプールというものか。
しかしメビウス1には謎だった。なぜ海があるのにわざわざこんな狭い水溜まりで泳がないといけないのだろう。海で泳いだ方が気持ちいいに決まっているのに。
スカイアイに身振り手振りでなんとか聞いた。
「なぜ海で泳がないか、って? 海はクラゲやサメがいて危険だからな」
(なるほど、クラゲやサメか)
メビウス1にとってはどちらも脅威とはなりえなかった。確かにサメは獰猛な生物で、人魚でも襲われることがある。だが兵士であるメビウス1らは、そんなサメから他の戦闘力を持たない人魚を守るために存在していた。
「じゃあ泳ごうか」
そう言ってスカイアイは上半身の服を脱ぎ出した。メビウス1もウキウキして服を脱ぐ。早く水に入りたい。スカイアイよりも早く服を脱ぎ捨てて、プールに勢いよく飛び込んだ。
全身が水につかる。
冷たい水が気持ちいい。
海とは違うが、やっぱり水が肌に触れる感覚はなつかしい。だが今はエラ呼吸できないため、すぐに息が苦しくなった。
一度、水面に顔を上げるとスカイアイが慌てた様子でメビウス1を呼んだ。不思議に思って近寄る。
「メビウス1、さすがに素っ裸はダメだ。これを履いて」
スカイアイは小さい布のようなものをメビウス1に差し出した。
(ええー……水の中でも服を着なきゃいけないのか。絶対、裸で泳いだ方が気持ちいいのに)
確かにスカイアイは短いズボンのようなものを身に付けていた。メビウス1もそれ(水着というらしい)をしぶしぶ着る。
「メビウス1、君はとても泳ぐのが上手いんだな。さっきの飛び込みを見て驚いたよ」
元が人魚であるメビウス1にとって泳ぎが得意なのは当たり前なのだが、スカイアイに褒められてちょっと嬉しくなった。
スカイアイの肩を指先でチョンチョンとつつく。
「ん? ……なんだい?」
メビウス1はスカイアイにチラリと笑みを見せ、水の中に潜った。少し距離をおいて水面に顔を出すと、スカイアイに手招きする。
「……なるほど」
なんとなくメビウス1の意図を察したスカイアイは、自身も水に潜ってメビウス1を追いかけた。
太陽の光が水を透過して降り注ぐ。
キラキラと輝く青い世界で、二人は鬼ごっこをし始めた。
スカイアイは海で戦う時のために溺れないように訓練していたし、泳ぎには自信もあった。それなのにメビウス1に追いつくことができない。メビウス1の身体は水の中でしなやかにくねり、水の抵抗を一切受けていないようにもみえる。なんとか掴めそうな距離まで追いついても、ヒラリとかわされる。
何度かかわされて、スカイアイは気づいた。
――わざとだ。メビウス1はスカイアイが追いつけないほどもっと距離をはなして泳ぐこともできるのに、わざと手を抜いてギリギリでかわしているのだ。
息が苦しくなって水面に上がる。
メビウス1も少しはなれた距離に上がってきた。
「メビウス1……」
遊ばれている悔しさや楽しさ。それを眉間に表して濡れた髪をかきあげた。メビウス1はそんなスカイアイを見て、輝くような笑顔を見せた。顔や髪を濡らした水滴が太陽の光をはじく。
もし彼に声が出せたなら、楽しげに笑う彼の声が聞けただろうに――。
「……君のそんな笑顔を、初めて見たよ」
スカイアイがそう告げると、メビウス1の動きが止まった。ほんのりと頬を染めて、恥ずかしそうにうつむいた。
視線を反らしたその一瞬の隙をついて、水しぶきをあげ、彼に一気に近づいた。
「……つかまえた」
メビウス1は、もう逃げなかった。
腕の中にメビウス1の身体を囲い込む。スカイアイは離れがたいものを感じて、彼を抱いたまましばらく動かなかった。

 

☆      ☆      ☆

 

スカイアイはとても優しい。
記憶を失ったと信じているメビウス1を医者に診せたり、何かと気づかってくれる。幸せだと感じるのと同時に、彼に嘘をついて側にいるという事実がメビウス1の心を次第に重くしていった。
メビウス1は鬱々とした気持ちで屋敷の庭に出ていた。
呆として、庭にある美しい花に手を伸ばした。赤くて大きな花びらが重なる花。
チクりとした痛み。
咄嗟に手を放したが、指先からは赤い血がぷっくりと盛り上がった。
「メビウス1、指をどうした」
後ろから声をかけられて驚く。スカイアイがいつの間にか現れた。
「ああ、薔薇を素手で触ったのか。ダメじゃないか」
花に勝手に触れたことを叱られたのだと思ってしょげたメビウス1だったが、どうやらそうではないらしい。
「薔薇は美しいがトゲがあるからな。触るときは注意しないと」
スカイアイは血の滲んだ指を口元へ持っていき、吸い付いた。
舌が指先を舐める。ピリッとした痛みと、背筋を這う何かよくわからない感覚。どこか後ろめたくなるような――。
初めての感覚にメビウス1は身体を震わせた。
ハッとしたスカイアイは「すまない」と言って手を離した。真っ赤になったメビウス1は頭を振った。
二人の間に妙な空気が流れる。
間を持たすためかスカイアイがメビウス1に話しかけた。
「君の記憶、なかなか戻らないな……」
メビウス1の胸を、指の痛みなどかき消すような苦しみが襲う。
「いや、すまない。君を責めているんじゃないんだ」
肩を落としてしまったメビウス1を見て、スカイアイが慌てて言い繕う。
「そうだ、今から君が倒れていたあの岩場に行ってみないか。現場を見れば何か思い出すかもしれない」
スカイアイは妙案を思い付いたといった顔で、しょぼくれたメビウス1を海へ連れ出した。

屋敷から海までは、スカイアイの操る馬に乗せてもらった。馬という生き物に乗るのは怖かったが、スカイアイが自分の後ろにピタリとくっつくように乗ってきたらドキドキして、馬のことを考える余裕はなくなっていた。
海は意外に近かった。馬や馬車なら数分でつく。歩いてでも来られる距離だろう。
例の岩場の辺りに到着する。
大小さまざまな大きさの岩があり、皆ごつごつしている。
「滑らないように気をつけて」
スカイアイが先に進んで手を差し出してくれた。それに掴まろうと一歩を踏み出した瞬間、足が滑った。体勢の崩れた身体を、すぐさまスカイアイが支えてくれた。
「滑らないようにと言ったばかりだろ」
仕様のないやつだと笑うスカイアイの顔は温かさに溢れていた。
スカイアイに支えられながら岩と岩を渡る。
ちょうど海との境目に、例の岩はある。人が一人寝転べるくらいの大きな岩。それを指しながらスカイアイは「君はここに倒れていたんだ」と言った。
教えてもらわずとも知っている。メビウス1はここで魔女にもらった薬を飲み、人間の足を手に入れた。あまりの苦痛に途中で気を失ってしまったようだが。
「ここで裸で倒れている君を発見して、すぐに連れ帰った。医師を呼んで診させたが、特に外傷はない、海水も飲んでいないという診断だった。それでも君は三日間、目を覚まさなかったのだが」
スカイアイは顎に手をやり、不思議そうに首を傾げた。
「何か……思い出したか?」
静かに問われる。
うつむいたまま頭を振った。
「そうか……」
ため息混じりの声。
こうなるのはわかりきっていたのだが、スカイアイをがっかりさせてメビウス1も辛かった。
「実はな、ここで君を見つけたのは偶然じゃないんだ」
(偶然じゃない……?)
「君も気づいていると思うが、俺は軍人だ。今、我が国は隣国と戦争をしていてな」
スカイアイは岩場に腰を下ろした。長い話になるからだろう。メビウス1もそれにならう。
「この間、隣国と海戦があった。俺も戦艦で出撃したんだが……我が軍はボロ負けしてしまってね」
スカイアイは困ったように笑う。
「どうも敵の間諜が我が軍に潜んでいて、そこからこちらの情報が漏れたらしい……まあ、そんなことは今はどうでもいいな。……俺の船も敵の大砲にやられて、俺は海に投げ出されたんだ」
知っている。すべて見ていたから。
「――その時、溺れた俺を、誰かが助けてくれたようなんだ」
ドキッとした。
どうしてスカイアイがそれを知っているのだろう?
「海の中で、ほとんど意識はなかったが、誰かが力強く身体を引っ張ってくれた感触が残っているんだ。戦場からこの岩場までにはかなり距離があって、気を失った俺が自然に流れ着くのは不自然だ。それに……見てごらん」
スカイアイは岩場に打ち付ける波を指した。
「俺も君と同じくこの岩場に打ち上げられていたんだが、この岩場は海よりも少しだけ高い位置にある。俺が気を失ったままこの岩場を登れるとは思えん。誰かが俺を引き上げなければ……」
メビウス1はスカイアイの推理におののいていた。
(どうしよう……俺がやりましたって言うべきかな……)
さながら犯人にでもなった気分だった。
「あの日から俺は何度もここへ来たよ。助けてくれた人が現れるような、そんな気がしてね。だから君が倒れていた時は驚いた。まさか君が……ってね。しかし、君は記憶喪失だった……。君の記憶に頼るしか、真実を確かめる術がないんだが」
スカイアイは俺を真摯に見つめる。
だからスカイアイは出会った当初から、自分に優しかったのかと納得のいく思いだった。助けてくれた命の恩人ではないかと期待したから――。
ああ、もうダメだ。これ以上、スカイアイに黙っておくなんてできない。
(あ……あの……、)
口をパクパク動かす。
当然、声はでない。
「どうした、メビウス1。何か思い出したのか?」
(違うんだよ、スカイアイ。俺は……俺はね……)
「メビウス1……すまない、わからないんだ」
必死に何かを伝えようとするメビウス1に、スカイアイは困ったように眉を下げた。唇を動かすだけでは何も伝えられない。手元に紙やペンはない。今、言わなければならないと思うのに、どうしてうまくいかない。これが安易に嘘をついてしまった罰か。
がっくりと肩を落とす。
そんなメビウス1を慰めるようにスカイアイが肩を撫でさすった。
「日も暮れてきたし、帰ろう。……帰ってから聞くよ」
スカイアイに連れられて帰りながら、メビウス1は打ち明けるタイミングを逃してしまった気がしてならなかった。