人魚のひみつ - 4/6

4.

屋敷に帰ってからスカイアイに秘密を打ち明けようとしたメビウス1だったが、スカイアイは仕事で忙しく、なかなか二人きりにはなれなかった。
そうして時間ばかりが過ぎていく。
ある夜、意を決したメビウス1はスカイアイの執務室に向かった。なんとか彼に秘密を打ち明けたいと思った。スカイアイは溺れていたところを助けた人を探している。それがつまり自分であること。そして自分は人魚であると、全て話したかった。たとえ信じてもらえなくても……。
それが彼の真摯さに応える唯一の方法だと思った。

スカイアイの執務室のドアから、ひとすじの明かりが漏れて廊下を照らしていた。ドアがうっすら開いていたのだ。あまり行儀はよくないが、気配を殺してこっそり中を覗く。
――話し声。
どうやらスカイアイの他に、部下のエリックもいるようだ。今夜も二人きりにはなれそうもなくて、メビウス1はがっかりした。
「……少佐、いつまで彼を屋敷に置いておかれるつもりですか」
「彼?」
「メビウス1と名乗った男のことです」
自分の名前が出てきて心臓が跳びはねる。
「記憶喪失だそうですが、少佐はそれを信じているのですか?」
「ああ。君は違うのか?」
「どこの誰ともわからない人間が、記憶喪失などと都合のいいことを言って少佐の信用を得たとなれば心配にもなります。我が軍はまだこの間の敗戦のダメージを回復できていませんし、間諜がいたと聞きますが、それも発見できていません」
「……何が言いたいのかな」
「彼が、敵国の密偵であるという可能性です」
メビウス1の心臓は驚きを通り越して止まりそうになった。まさか自分が間諜だと疑われていたとは。
エリックの言葉に続くスカイアイの返答はなかった。
メビウス1はそっとその場を離れる。
ふらふらとした足取りで、転倒しなかったのが奇跡なほどだ。
ショックだった。
スカイアイが自分に対してわずかでも疑いを持ったのだということが。
頭を振る。
(いいや、疑われたって当然じゃないか)
自分は嘘をついている。スカイアイに後ろ暗いところがあるのは事実なんだ。それを、あのスカイアイの部下のエリックは、軍人の嗅覚で敏感に感じ取ったのかもしれない。
こんな、スカイアイに疑われた状態で「記憶喪失って言うのは嘘です」なんて言って、はたして信じてもらえるだろうか。実は人魚です、なんて――。
メビウス1は泣きたい気持ちになった。
気がつけばスカイアイの屋敷から出て、当て所なくふらふらと歩きだしていた。夜の闇の中を月明かりを頼りに歩く。昼間は熱かったが夜の空気は湿ってひんやりしている。
なつかしい潮の香りがした。その香りに誘われるままに歩を進める。
砂を転がすような波の音がどんどん近づいてきた。なんとなく歩いていたら、いつの間にか海に来てしまっていたらしい。仕方がない。海はメビウス1にとってなつかしい故郷。心が休まる場所なのだ。
岩場の上を歩く。ごつごつした岩場を慎重に歩いたが、たまに滑ってあちこちぶつけた。メビウス1は足で歩くのが苦手で、未だ慣れなかった。スカイアイに支えてもらった日を、そんなに遠い日でもないのになつかしく思い返す。
例の、スカイアイとメビウス1、二人が倒れていた岩場に到着した。
ここから全てが始まった。
スカイアイと出会って、恋をしてしまった。彼に嘘をついてまで側にいようとしている。
そう言えば、あれからもう半月以上は経っている。
もし、ひと月経ってもスカイアイと恋が実らなければ、メビウス1は泡となって消えてしまうのが魔女の薬を飲む代償だった。
このまま自分は泡となって消えゆく運命なのか――。
海の中を覗き込む。
母なる海は何も答えず真っ暗で、まるで引きずり込まれそうな深淵がただ広がるばかりだった。
そこから突然、二本の腕が伸びてきてメビウス1の腕を掴んだ。
「……ッ!?」
あまりのことに心臓が止まりそうになる。
「やっと見つけたぞ、メビウス1……!」
水の中から海草まみれの顔を出したのは、なつかしい戦友、オメガ1だった。
オメガ1はゼェゼェと息を切らして岩場に上半身を預けた。ずいぶん疲労しているみたいだ。
「メビウス1……ずっとお前を探していたんだ。まったく魔女なんかにそそのかされやがって」
(え、なんで知ってるんだ?)
メビウス1はパクパクと口を動かした。相変わらず喋れないのだが、オメガ1はそれを痛々しいものを見るみたいに顔を歪めた。
「本当に人間になっちまったんだな……。魔女の薬を飲むと声を奪われる――有名な話だ」
(オメガ1、どうしてわざわざ俺に会いに来たんだ)
「……何しゃべってるかわかんねーから勝手に用件だけ言うぞ。――戻ってこい、メビウス1。人魚に戻るんだ」
(人魚に戻る……? そんな方法あるのか?)
「魔女の家に行って、薬を飲んだやつが人魚に戻る方法を聞いてきた。――これだ」
オメガ1は腰に下げていたナイフをメビウス1に渡した。
「このナイフで想い人である人間を刺して、その血を浴びるんだ」
メビウス1は息が止まりそうなほど驚愕した。首がもげそうになるほど横に振る。そんなこと、できるわけがない。
「メビウス1、頼むから戻ってきてくれ。お前の力が必要なんだ。『死神』と呼ばれたお前の力が……。お前がいなくなったことを知ったエルジアは勢いづいちまって、俺たちは負け続けてる。……このままじゃ、国が滅ぶ」
(……!)
「頼む……!」
オメガ1は岩に頭を擦り付け、メビウス1に土下座した。見ればオメガ1の身体はメビウス1の知らない傷でいっぱいだった。頬はげっそりして、やつれているようにも見える。
どれだけ厳しい状況なのだろう。彼の姿、切羽詰まった様子からただ事ではないと見てとれた。
メビウス1は渡されたナイフをぎゅっと握り込んだ。
オメガ1はそんなメビウス1を見て、繰り返し頼み込むことはしなかった。自分の言いたいことは言ったとばかりに、それ以上は何も語らず、闇の中に消えていった。
メビウス1の手に、月の光を反射した冷たいナイフだけが残された。

 

メビウス1は茫然自失として、気がつけば深夜、スカイアイの屋敷に戻ってきていた。
手にはオメガ1から渡されたナイフがある。
本当にこれでスカイアイを刺せば人魚に戻るのだろうか。オメガ1が嘘を言うとも思えないが、あまりにも残酷な仕打ちだ。想い人を手にかけなければならないなど。
使用人も寝てしまったのか、屋敷は静まり返っていた。
どうしたらいいのかわからなくなってスカイアイの寝ているだろう寝室へ足を忍ばせた。
スカイアイに会いたかった。彼の顔を見て安心したかった。
初めて入ったスカイアイの部屋は広く、絨毯の感触も柔らかかった。
広い寝台の上に彼は寝ていた。
月明かりのぼんやりとした明かりの中、そっと寝顔を覗き込む。
わずかに眉間にシワがよっている。疲れているのだろう。ここのところずっと忙しそうにしていた。例の、間諜がどうのと言っていた件でだろうか。
スカイアイの力になれたらいいのに、と思う。しかし海の中でならまだしも陸での自分は無能に等しい。
スカイアイが優しくしてくれるのは多分、自分を助けたのがメビウス1ではないかと思っているからだ。それは当たっているし、もう十分すぎるほど恩は返してもらったと思う。
スカイアイに比べて自分はどうだろう。彼恋しさに仲間を捨て、嘘をついてまで自分の欲を満たそうとしている。
スカイアイを殺すことなどできるはずがない。しかし、そうしなければ祖国が滅ぶという。国にいるたくさんの人魚、仲間たちを見捨てることになる。それでもメビウス1は、祖国と、たった一人の人間の命を秤にかけて、人間の命を優先しようとしている。
時が来たら自分が勝手に泡になればいいと思っていた。その時に、自分の嘘も罪も精算されるのだと。
しかし、祖国を見捨てることになるなんて思わなかった。そんな大きな罪、自分の命ひとつで本当にまかなえるのだろうか。
メビウス1は罪の大きさに恐ろしくなって震えた。
「……ん」
寝ていたはずのスカイアイが目蓋を震わせて目を開いた。
メビウス1はハッとする。
「……メビウス1か、どうした……」
寝起きのかすれた声で呼び掛けられる。トロリとした目がメビウス1の手の中にあるナイフを視界に入れた途端、スカイアイは弾かれたように目を覚まして身体を起こした。
(ち、違うんだ……これは)
ナイフを後ろ手に隠し、頭を振ってなんとか説明しようとする。
その時、複数の足音が寝室へ押し入ってきた。
「メビウス1、そこまでだ!」
入ってきたのはエリックと、武装した兵士たち数名。
「少佐から離れてもらおうか」
エリックは腰に下げた細い剣を抜いてメビウス1に突きつけてきた。
「エリック、待て! 何か事情があるのかもしれん。ちゃんと話を聞いてみないことには……」
「少佐、まだこいつを庇いますか? 今、命を狙われたばかりではありませんか。現場をおさえたのですから、もう言い逃れはできません。メビウス1は敵国の間諜です」
(違う……!)
メビウス1は首を強く振った。喋れないことがこんなにも不自由だと思ったことはなかった。
「今日の夜、この男は一人で屋敷を抜け出して、海で誰かと密会していたそうです。見張らせていた部下の証言です」
スカイアイはまさかと、メビウス1を振り返った。その瞳には驚きと疑惑があった。
メビウス1は全身の血の気が引いた。
(違う……違うんだ、スカイアイ)
誰に疑われたってかまわない。でも、あなたにだけは信じてほしかった。あなたを裏切るようなことはしない――そう言いたかった。
「口がきけないというのもどうせ嘘に決まっている。拷問して自白させる。……拘束しろ!」
エリックが部下に命令する。兵士たちがメビウス1を取り囲み、持っていたナイフを取り上げた。おとなしく言うことを聞いたからか、特に乱暴はされなかった。
「エリック、待て。勝手は許さん」
スカイアイがベッドから立ち上がり、肩に服を羽織った。
「まだ彼を庇うんですか」
「いや、聞いたところ疑わしい行動があったのは事実のようだ。とりあえず地下の一室に閉じ込めておく。……明日、軍の本部へ馬車で護送しよう。そこで本格的に調べあげればいい」
「はっ、了解しました」
エリックはスカイアイに向かって敬礼した。無表情ながら自分の主張が通ってどこか満足そうだった。
メビウス1は後ろ手に拘束され、兵士に囲まれながら連れていかれる。スカイアイはそれを感情のこもらない瞳で見ていた。
メビウス1は、スカイアイにそんな目で見られたのは初めてだった。いつだって彼は優しくて、温かかったから。
――もう、過去のものとなってしまったようだが。