喫茶スカイアイ - 4/4

大変な一日だった。

不審な男が店に入ってきたと思ったら、その男はピストルを所持していた。メビウス1がよりにもよってその男の前でいつものドジを発揮して倒れかかり、蹴り飛ばされた時は心臓が止まりそうになった。下手をすれば彼に銃口が向けられていただろう。
何とか客に被害も出さず男を取り押さえることができたが、その後の警察の事情聴取も長引き、ようやく解放されてメビウス1と共に家に帰ってきたところだった。
もう夜はとっぷりと暮れている。

 

Act4.

 

 

メビウス1は風呂に入った後のパジャマ姿で、リビングのソファーで眠そうに大あくびをしていた。
確かに今日は遅くまで大変だったが、明日も通常通りに店は営業する。明日に備えて寝なければならない。
しかし、その前に確認することがあった。
「メビウス1、服を脱いでくれ」
「ふぇ……!?」
メビウス1は顔を赤くし、目を見開いてこちらを見た。いったい急に何を言うんだと言いたげに。
別に、不埒なことをしようというんじゃない。
「怪我をしたんじゃないか? ……服を脱いでくれ。手当てをしよう」
「えっ……あ、だ、大丈夫……」
メビウス1は眉を下げて困ったように笑った。
俺にはわかる。こんな時、彼は必ず嘘をついている。自分の負った痛みを他人には決して見せようとはしない。それは初めて会った時からの彼のクセだった。彼の言う「大丈夫」が大丈夫だったためしはないのだ。そのクセを見せられる度に、俺はいつも少し悲しい気持ちになる。
「見せなさい」
強く言えばメビウス1は渋々といった様子で上半身に着ていたパジャマを脱いだ。
彼の肌をよく検分すると蹴られた肩の辺りやテーブルにぶつかった背中に赤く変色した痛々しい痕がみられた。そのひとつひとつに湿布を貼る。
「別に、これくらい平気だよ。すぐに治る」
大袈裟だなぁスカイアイは、と笑う。
「メビウス1……」
確かに大袈裟なのかもしれない。過保護な自覚はある。だが、傷だらけのメビウス1の身体を見ているとどうしても戦っていた頃を思い出す。
戦闘機で激しい戦闘機動を行うと、身体にかかるGにより毛細血管が破裂して体表面に内出血が現れる――こんな風に。戦闘後の彼のタンクトップから覗く肌の色はいつも痛々しかった。
背後から抱きしめ、ため息を吐くと腕の中のメビウス1が「どうしたの?」と聞いた。
「あの、心配させたならごめん。俺……また失敗しちゃって……。目の前にピストルが落ちてきた時はびっくりしたよ。スカイアイがあいつに隙を作ってくれて助かった」
「いいや、君の方こそ。あの一瞬で、倒れた体勢からよくピストルをこちらに寄越してくれた」
さすが英雄だな、と付け加えてくすりと笑った。
「やめてくれよ」
メビウス1はうつ向いてしまった。そういえば彼は英雄だなんだと言われるのが嫌いだった。からかいすぎたかと反省する。
それにしても、最近のメビウス1は少しナイーブになっている気がする。何か悩んでいるようでもあり、喫茶店で接客をするという慣れないことをしているストレスのせいかと思っていたのだが。
「スカイアイ……俺、本当にこのままあなたの側で働いていていいのかな」
「……え?」
「もっと他にちゃんとした人を雇った方が……」
「急に何を言うんだメビウス1」
「だって……俺、何の役にも立ってない。失敗ばっかりで……。もう俺は戦闘機パイロットでもない。唯一の取り柄すら失くしてしまった役立たずだ。あなたの隣にいる価値なんて……」
それきり黙りこくってしまう。
メビウス1の不安をずっと感じてはいたが、それは新しい環境に慣れていないだけだと思っていた。だが、そんなに単純なものでもなかったのかもしれない。彼は自分の誇りでもあった“戦闘機パイロットである自分”を失って、何を支えに生きていけばいいのかわからなくなってしまったのだろうか。
「メビウス1……」
スカイアイは抱きしめていたメビウス1からそっと腕を離した。
ソファーから立ち上がり、寝室の方へ向かう。
「ス、スカイアイ……?」
置いてけぼりにされたメビウス1が戸惑いの声を上げた。
寝室のクローゼットに仕舞っていたあるものを持って、またすぐメビウス1の元へ戻って来る。
メビウス1は捨てられる子犬のような不安げな目をして、目の前に立った俺を見つめた。
俺は、ぎゅっと自分の手の中の物を握った。手のひらが汗ばんでくる。
ずっと渡したくて用意していたものだった。だけど、彼はこういうものを必要ないと言いそうで――もし仮に拒まれたならかなりの精神的ダメージを負うだろうと思うとなかなか踏ん切りがつかなかった。
だけど、たぶん、渡すとしたら今しかない。自分のプライドを守るよりも、彼の感じている不安を軽くしなければ。
「メビウス1」
覚悟を決めてソファーに座るメビウス1の前に跪いた。彼の左手を手に取る。
手の中に握っていた物を、彼の左手の薬指に通す。
キラリと光を反射するシルバーのリング。しっくりと彼の指に馴染んだ。
「へ……? こ、これ――」
メビウス1は目を見開いて薬指にぴったりはまった指輪を凝視し、戸惑いをあらわにする。
「いや、その……。深い意味はないんだ。こんなもので君を縛れるとは思っていない。ただ……俺の気持ちを示しておきたくて……」
ずっと管制官として仕事をしてきたくせに、情けないくらい舌が回っていなかった。こんなことは初めてだ。どんな戦況でも冷静さを失わずに指示を出してきたというのに。緊張で、言うつもりだったセリフも何もかもが吹っ飛んでいた。
だから今の自分の正直な気持ちを伝えるしかない。
「指輪といえば結婚のイメージがあるだろう。だけど結婚するかしないかは正直どちらでもかまわない。ただ、それくらいの覚悟があると示したかったんだ。……君は役立たずだと言うけれど、君がそばにいてくれるだけで俺は幸せなんだ、本当に」
そう伝えると、メビウス1のガラスの瞳が戸惑いに揺れた。
「たくさん一緒に飛んだよな。色んな空を……」
俺はもう彼に傷ついてほしくなかった。心も身体も。
メビウス1はこれまで十分に戦った。身体がボロボロになるほど社会に、人々に、世界の平和のために貢献してきたじゃないか。軍を辞めた後にまで苦労してほしくなかった。
ただ安穏と暮らすのを彼は良しとしないだろう。だから彼が安心して働ける場所を用意したかった。以前に軍を辞めていた一時期、彼は仕事を転々としていた。どんな仕事に就いてもミスを連発して辞めさせられてしまうらしい。俺がオーナーなら、どんなに彼が失敗したとしても辞めさせたりしなくてすむ。
その為の『喫茶スカイアイ』だ。
そしてまた、正直に言えば自分のためでもあった。
任務に出撃する彼を、今度こそ失うのではないか帰ってこないのではないかと不安に苛まれる必要のない日々を手に入れたかった。
表向きには彼を信頼している一番の理解者の顔をしておいて、内心では不安でたまらなかったなんて……彼には絶対に言えないけれど。ただ、不安の中でも、彼を支援するのは自分だけだという自負は絶えず持っていた。
「価値があるとか、ないとか。そういうことじゃなくて……ただ一緒にいたいだけなんだ」
もうここは戦場ではない。お互いを縛っていた役割はなくなった。
だから――。
メビウス1の手を握り、もう一つのリングを渡す。メビウス1に渡したものと同じデザインのシンプルな指輪。
メビウス1はさっきから一言も発していない。大きく目を見開いて、硬直したように動かない。
「もしかして……やっぱり嫌だったのかな、こういうのは」
不安になって聞いた。
メビウス1はハッとしたように首を横に振った。
「ちがっ……ほ、ホントにいいの? ――こ、この指輪……スカイアイがしているのを見たら、せっかく来てくれてる喫茶店の女性客が減るかも……」
「なんだ、そんなことを気にしてたのか」
安堵から、つい笑みが漏れた。女性客が増えようが減ろうがどちらでもかまわない。もともと儲けようと始めたわけじゃない。ただ、彼が女性客を気にしていたとは意外だった。ひそかに嫉妬したりしていたのだろうか。だとしたら嬉しい。
「その……よかったら、君の手で……」
促すと、メビウス1が覚悟を決めたように真剣な表情をしてもう一つのリングを指に持った。俺の左手を取り、薬指に指輪をくぐらせる。指の途中で引っかかってしまった指輪を不器用に一生懸命、震える指で押し込もうとする姿を見たらたまらなくなった。
「メビウス1……」
まだ途中だったがメビウス1の身体を引き寄せて抱きしめた。指の途中で引っかかった指輪は自分で押し込んだ。
メビウス1からは風呂上がりの石鹸の香りがする。
「ス、スカイアイ……いいの?」
濡れてくぐもった声が胸元に響く。
「こんな俺で…………ほ、本当に、いいの?」
少し身体を離してメビウス1の顎に指をかけ顔を上げさせる。潤んだ瞳が俺を写していた。
「君は?」
「え……?」
「君は、俺でいいのか?」
問いかけながらメビウス1の指に指を絡めて握った。すると彼の顔がみるみる赤く染まっていく。可愛らしくて、ずっと見ていたくなる変化だ。
見つめ合うのが恥ずかしいのか、彼は瞳をぎゅっと瞑った。けれど、震える吐息で一生懸命に言葉を紡いだ。
「俺は……許されるならいつだって……スカイアイと、ずっといたいよ」
メビウス1の滅多に聞けない素直な気持ち。
嬉しくて、目を閉じたままの彼に誘われるように顔を近づけた。
「――どんな時も、これからもずっと一緒にいると君に誓うよ」
君が翼を休める場所は、俺の傍であってほしい。
この先も、ずっと。
誓いと願いを込めて口づけを贈った。

 

 

 

 

カランとドアベルが鳴る。
新たに入ってきた客は、以前にメビウス1が肩をぶつけてグラスをぶちまけた男性だった。メビウス1があれだけのミスをしたにもかかわらず、また来てくれたのだ。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけると、彼ははにかんだ笑顔を見せてくれた。
メビウス1が彼を席へと案内し、注文をとる。
注文通りブレンドコーヒーを淹れ、それをメビウス1の持つ丸いトレーに乗せた。
彼の指にキラリとシルバーが光る。
「気をつけてな」
「う、うん……」
メビウス1はからくり人形のようなぎこちない動きでトレーを水平に保ちつつ歩いていく。
またドアが開いた。
今日はよく客が来る日だ。
「よ、スカイアイ」
片手を上げて笑うのは、昨日も見た顔だった。
「なんだ、オメガ1か」
「なんだとはご挨拶だな、せっかく来てやったのによ」
「はは、すまんすまん。昨日は助かったし、今日のコーヒーはサービスするよ」
「おお、サンキュー」
そんな話をしていた時だった。
メビウス1の「あっ」という声。同時に陶器の割れるの音。そして客の悲鳴が店内に響いた。
見ればさっきの男性客があまりに驚いたのか席から立ち上がっていた。メビウス1がまた派手にコーヒーを床にぶちまけたらしい。
「す、すみません、すみません……っ」
必死に男性客に謝るメビウス1。
実はメビウス1は朝からミスを連発していた。
昨夜、彼に贈った薬指の指輪。メビウス1は接客中もそれが目に入ると気になってしまい、集中力が途切れてミスをしてしまうらしかった。いつも以上に盛大にやらかしている。少しは成長してきたはずだが、また振り出しに戻ってしまった気分だ。
顔を片手で覆ってため息をついた。あの男性客には割引券ごときでは済まないかもしれない。
「……大変だなぁ、スカイアイ」
オメガ1が呆れた表情で同情の言葉をくれた。
それに苦笑で返す。
しかし、メビウス1を叱ることはできない。彼の集中力を切らしてしまったのは自分のせいでもあるのだから。
「ありゃあ、本当に成長するのかねぇ」
「さあな。神のみぞ知る……だ」
今日もメビウス1は閉店後にひどく落ち込むだろう。
だが、眉を下げた少し情けない顔でべそをかくメビウス1はかわいい。それを抱きしめて、キスをして慰めるのもまた役得というものだ。
つい弛んでしまう口元を引き締め、ひとつ深呼吸をすると男性客に謝りに向かった。