喫茶スカイアイ - 2/4

今日も失敗してしまった――。

夜の八時を過ぎ店を閉めた後、客のいなくなったテーブルをひとつずつ拭いていく。
ため息はどうしても漏れる。
今日もグラスや皿を割ってしまった。「今日も」というのは、昨日も一昨日も同じようなミスをやらかしているからだった。

 

Act2.

 

「お疲れさま、メビウス1」
レジ締めを終わらせたスカイアイが声をかけてきた。
「スカイアイ……」
スカイアイは細かい文字を見続けて目が疲れたのか、かけていた細いフレームの眼鏡をずらして目頭を揉んでいた。最近、スカイアイは眼鏡をかけるようになった。歳のせいか目が悪くなったらしい。だけどその眼鏡がまた理知的なスカイアイにはよく似合っていて、俺は以前とは少し違うストイックな雰囲気のスカイアイを見てはドキドキしてしまう。
「まだ落ち込んでいるのかい? グラスを割ったことは気にするなと言っただろ。君やお客さんに怪我がなくてよかった」
「でも俺、スカイアイに迷惑ばかり……。あのお客さん、二度と来てくれないかもしれないし……」
「さて、どうだろうね」
スカイアイは穏やかに笑ってコーヒー豆をミルで挽く。二人だけしかいない静かな店内にコーヒーの香ばしい薫りが満ちた。
「あの……割ったグラスの分は給料から引いておいてね。あ、いや、そもそも給料なんかもらえないんだけど……」
一人前の働きを出来ていないことはわかっている。だから給料を貰うなんておこがましいと何度もスカイアイにはそう伝えているんだけれど。
「ダメだ。従業員として雇っている以上、給料はちゃんと払うよ」
そう言って毎回断られる。
なぜ俺が、スカイアイの店で慣れないウェイターなどしているかというと――。
ことの始まりは俺が軍を辞めると決まったあの時からだ。

今年の春、俺は軍を辞めた。
これまでは一時的に辞めたり、戻ったりしていたが、今回は違った。完全な引退だ。
肉体が戦闘機パイロットとしては使い物にならなくなった。定期的に実施されるパイロットの身体検査で引っかかったのだ。三十半ばにしては若く見られがちだったが肉体はそうでもなかったらしい。よる年波には勝てなかった。
何も退役する必要はないじゃないかと皆が言った。戦闘機パイロットの基準に達しなかっただけであり、仕事はそれ以外にもあるのだから。司令には軍への残留をすすめられたが戦闘機がすぐ側にあるのに戦闘機に乗れないなんて拷問に等しい。乗れない自分が悔しくて悔しくてたまらなくなるのが目に見えていた。
だから軍を辞めるとスカイアイに相談した。すると、あろうことかスカイアイも軍を辞めると言い出したのだ。
「自分も『スカイアイ』を降りろと言われてね。……だが、現場で働けなくなるのは嫌なんだ」
スカイアイには昇進の話が持ち上がっていたらしい。しかし現場で指揮をとることに誇りを持っていたスカイアイはその昇進話を惜しげもなく蹴った――いや、上からの命令だから拒むことは出来ない。だから辞めることにした、ということだ。
そうして、笑顔で突拍子もないことを言い出した。
「一緒に喫茶店をやらないか、メビウス1?」と。

今考えたら、なんで頷いてしまったんだろうと思う。
その時は深く考えずに「なんだか楽しそうだな」なんて軽い気持ちでOKしてしまった。軍を退役してもスカイアイとずっと一緒にいられるなんて夢のようだと。
だけど自分の地上での無能さをもっとしっかり自覚しておくべきだった。まさかこんなに何も出来ないなんて……。
再びため息が漏れ出す。
「はい、メビウス1。コーヒーができたよ」
スカイアイが淹れたてのコーヒーを渡す。
「あ、ありがとう……」
店を閉めた後、スカイアイはいつもこうして二人で飲むためにコーヒーを淹れてくれた。
スカイアイのコーヒーは、疲れも、気分の落ち込みも吹き飛ぶくらい美味しい。
軍でもよくスカイアイの淹れてくれたコーヒーを飲んでいたし美味しかったけれど、軍を辞めて喫茶店をやると決めてからスカイアイはすぐに本格的なコーヒーの勉強を始めて更に腕を上げた。喫茶店の経営についても調べあげ、土地を用意し、店舗をかまえ――あっという間にこの『喫茶スカイアイ』が出来あがっていた。本当に仕事が早い。
俺は何もしていない。従業員の契約書にサインしただけだ。それなのに、そのウェイターの仕事すら満足にこなせていない。
本日、何度目かのため息を吐く。
「あんまりため息ばっかりついていると、幸福が逃げるぞ」
「あ、ごめ――」
「なんてな。やっぱり君にはストレスが大きかったかな、接客業は」
「そっ……そんなこと、ない!」
ため息と共に言われて必死に首を振った。
確かに俺は人見知りがはげしくて、あまり接客に向いているとは言えなかった。開店前にスカイアイに付き合ってもらって何度も何度もサーブの練習をした。その時は上手くできても、いざお客さんの前で本番となると緊張して今日のように失敗してしまう。そんなことを繰り返していた。たくさんグラスを割ったし、お客さんの注文を間違えたりした。
そんな自分が働かせてくれと言うのはおこがましいと思う。スカイアイにはすごく迷惑をかけている。普通ならクビになっていてもおかしくない。
でも――。
でも、今日はあのグラスを割った以外は上手くできたんだ。注文を間違えなかったし、コーヒーをこぼさなかった。
少しずつだけどミスは減ってきている気がするんだ。本当に、少しずつだけど。
人と話すのは苦手だ。でも、お客さんの笑顔が見られた時はすごく充実を感じる。
だから。
向いていないかもしれないけど、でも。
「スカイアイ……俺、頑張るから……見限らないでほしい……」
「メビウス1……」
スカイアイに縋りついて訴える。スカイアイはコーヒーカップをテーブルに置いて俺を抱きしめた。
シャツ越しに、温かい肌のぬくもりを感じる。
「見限るだなんてそんなことは絶対にない。ただ君は真面目だから、そんなに思い詰めないでほしいと思っただけなんだ」
優しく髪を撫でられる。前髪をかき上げて、スカイアイの口づけが額に降ってきた。
毎日、落ち込んだ俺をスカイアイはこうして慰めてくれる。だからこそやってこられているという面もある。失敗してもスカイアイが身体と心で全て受け止めてくれるから。
だけど不安はつのる。
本当にこれからもスカイアイは変わらないのか。
スカイアイは空を飛んでいた自分を好きになってくれた。俺だって、戦闘機パイロットとしての自分は好きだった。多少は人に誇れる部分もある。だけどそれを失くした今、いったい自分に何が残っているのだろう。スカイアイに好きでい続けて貰える価値が、自分にはあるのだろうか……。
「そもそもこの喫茶店は俺の道楽で始めたものだ。これまで軍で働いてきて貯まった金があるし、喫茶店で儲けようとは考えていない。だから君も、もっと気楽に構えてくれていい」
「うん……ありがとう……スカイアイ」
スカイアイが顔を近づけてキスをしようとし、ふと気づいて顔を離した。かけていた眼鏡を外すためだ。
現れる青い瞳――俺の大好きな。
スカイアイが眼鏡を外すのは口づけが始まる合図で、俺はパブロフの犬になったみたいに期待で身体が熱くなるのを止められなかった。
「ん……」
口づけが深くなる。
思わず目を閉じてキスに浸りたくなるけれど、意識して目をこじ開けた。
スカイアイの瞳を間近で見つめたかった。
潤んだ視界に青い瞳が映る。
お互いに見つめ合ってキスをする。
こんなに近くでこの瞳が見られるのは自分だけ。
最近、店にスカイアイ目当ての女性客が増えているのは気づいていた。スカイアイがモテるのは軍にいた頃からそうだったし今更だ。こんなに格好いいんだから皆が見惚れるのは当たり前だと思う。
だけど、眼鏡の薄いガラスに遮られもせず、こんなに間近でこの美しい青い瞳を見られるのは俺だけだ。

誰にも譲りたくない――。

そんな気持ちで口づけに積極的に応じた。
不安と焦りと独占欲。
そして、スカイアイを大好きだと思う気持ち。
それがスカイアイにどう伝わったのか。
その夜は、いつもよりいっそう深く甘い夜になった。