喫茶スカイアイ - 1/4

次の営業所にまわる途中、新しい見慣れない看板が目に入った。
「――喫茶スカイアイ?」
今日はいつも通る道とは違う道を通った。たまたまだったが新しく出来た喫茶店を発見できたのは、代わり映えのない日常に些細な彩りを与えてくれたようで嬉しい。
俺はさっそく休憩がてら入ってみることにした。

 

Act1.

 

いささか古風な重たい木の扉を開けると、ドアベルがカランと鳴った。
いかにも昔ながらの喫茶店という風情がよい。
外は春の光に溢れていたが店内は薄暗い。
ゆったりとしたジャズの流れる店内は、まるでそこだけ現世の喧騒から切り離されたように静かだった。
店の内部はそんなに広くない。入ってすぐのカウンター席、テーブル席がいくつかと、奥にはソファーの席がひとつ。
「い、いらっしゃいませ……」
店員に声をかけられた。
「お、お好きな、お席に、どうぞ……」
若いウェイターだった。学生アルバイト――ではさすがにないと思うが、背が低く、気の弱そうな青年だ。
おどおどしてセリフはつっかえているし声に覇気がない。まだ雇われたばかりなのだろうか。雰囲気のよい喫茶店を見つけたと内心喜んでいたから、いささか水を差された気分になった。出来たばかりの店なら店員もまだ慣れていないのだろう。仕方がないかとため息を飲み込んだ。
見渡せば少ないテーブル席のほとんどが埋まっていた。その半数が女性客だった。こんな渋い、言わばおじさん好みの喫茶店になぜ――と不思議に思いながらも言われた通り席を好きに選んだ。少し奥の窓際のテーブル席だ。
「ブレンドコーヒーひとつ」
「か、かしこまりました……」
青年は注文をブツブツ唱えながらカウンターへ向かった。向かった先にいたのは店主と思しき男。
驚いたのは、その店主らしき男がずいぶんと男前だったことだ。眼鏡をかけた目元が理知的な印象で、すらりと高い長身に清潔感のあふれる真っ白なシャツがよく似合っていた。歳は四十代くらいだろうか。喫茶店のマスターとしては若い方だろう。落ち着いた渋い喫茶店なのに妙に若い女性客が多い理由がわかった気がした。最近出来たばかりの店のようなのに女性の情報網はまったくすごい。営業マンとしては見習うべきだなと感心した。

コーヒーを待っている間、店内を見回した。
焦げ茶色の壁や床、テーブルなどは華美さはないが重厚感がある。店の角には観葉植物が置かれ、落ち着きのある店を作りたいという店主の趣向がみられた。
特徴的なのは、壁に飾られたいくつかの空の写真。
構図もありきたり。そんなに上手くない素人が撮ったとわかる写真で、しかしその素朴さが逆に肩肘張らない雰囲気を醸し出していた。昔によく見上げた空のようで、少年のころの気持ちを思い出す。『スカイアイ』と店の名前にもあったように、どうやらこの店のテーマは空のようだった。
「お……お待たせいたしました」
ウェイターがコーヒーを持ってきた。
コーヒーの入ったカップをテーブルに置こうとするが、カタカタと耳障りな音がした。ウェイターの手が小刻みに震えているせいだ。
不安になって見上げると、ウェイターの青年は硬い表情で一心にコーヒーカップを見ていた。零さないように必死になっているようだった。
(どんだけ不器用なんだよ……)
内心で盛大にため息をついてやった。いくら慣れていないとはいえ、これは相当仕事ができない奴だなと呆れた。
たかだかコーヒーを持ってくるだけで大層な仕事をやり遂げたかのような顔をして、ウェイターは去っていった。
ひと口飲んだブレンドコーヒーは期待を裏切らずに美味かった。
気に入りの店になる予感は外れていなかったのだ。ただひとつ気になるのはあのウェイターだ。男前の店主は、なぜこんな使えなさそうな男を雇ったのだろう。よほど人が集まらなかったのか。店の内情などはわからないが、この店にあのウェイターは相応しくない。たったひとつの汚点のように思えてしまう。

コーヒーを飲み干して、短い休憩を終わらせた俺は席を立った。
その時、ちょうど横を通り過ぎようとしていたウェイターと肩がぶつかってしまった。
ウェイターは客が飲んだグラスや皿を回収していた最中だったらしく、手に持っていたグラスを床に派手にぶちまけた。
静かだった店内にグラスや皿の割れる音が響き渡る。
「あ……」
「す、すみません……!」
ウェイターの青年は真っ青になって謝った。すぐに床に這いつくばって割れた破片を回収しようとしている。
そんな姿を見たら、さすがに気まずい。彼に対していい印象は抱いていなかったが、わざとぶつかったわけじゃない。後ろから来ていたから見えなかっただけなのだと、誰かが聞いているわけでもないのに言い訳を頭の中で並べ立ててしまう。
「お客様」
低く心地よい声した。
すぐ近くにまで店主がやってきていた。
「お怪我はございませんか」
「あ、ああ……大丈夫です」
間近で見ると青い瞳が印象的だった。店名の『スカイアイ』とはそういう意味もあるのかと、ふと思った。
「失礼いたしました。すぐに片付けますので」
「あ、いや、もう出ようと思って……」
「そうでしたか」
では、こちらへどうぞとレジまで案内される。
会計をしている間も床を片付けているウェイターが気になって、ついチラチラと見てしまう。床に散らばったグラスや皿の破片をひとつひとつ手で拾っている。
(ああ、そうじゃないだろう。ひとつひとつ手で拾うなんて効率の悪い! 箒ではくなり、掃除機で吸うなり、もっとやり方があるだろうに。それに、破片で手を傷つけたらどうするんだ)
自分の後輩だったら、間違いなくそう言って叱りつけていただろう。
しかし彼が皿を割った責任の一端は自分にもある。
この後、店主から叱られなければよいが――。
そんな思いでハラハラして見ていると、店主がこちらに声をかけてきた。
「お客様、こちらをどうぞ」
そう言って手渡されたのはコーヒーの割引券だった。店主は少し声を潜めて内緒話をするかのように語った。
「またいらしてくださると嬉しいです。……その時には“彼”も、少しは成長しているかと」
片目を瞑ってにこやかにウインクをされた。
男前はウインクすら様になるのだなぁ……と、ふわふわとした夢見心地で店を出た。
しかし、あの店主にどこまで自分の気持ちを見透かされていたのだろうか。ウェイターの彼に対するイライラや、心配や、罪悪感を。
全て筒抜けだったのなら恥ずかしい。
それに店主は全てを承知の上であの使えない彼を雇っているようにも感じた。だとしたら、なんて懐が深いのか。人間が出来ている。
人を“仕事ができる”か“できない”かでくくってしまう自分がひどく小さく感じる。俺は仕事もそれなりにこなせる様になって少し天狗になっていたのかもしれない。
ついつい仕事のできない後輩にマウントを取りがちな自分を振り返った。
(もう少し、思いやりを持たないとなぁ……)
あの青年が成長したかどうかを確かめに行くのも悪くないのかもしれない――。
割引券を大切に財布にしまって、次の営業所に向かった。