Love is in the air

基地の廊下を足早に歩いた。
ミーティングに遅れてしまう。
どうにも気が重く感じてため息を吐いた。急いでいた足取りも自然と鈍くなる。
ミーティングに行くとどうしてもスカイアイと顔を合わせる。それが嫌だった。
誤解のないようにいえばスカイアイはとてもいい人だ。嫌いなわけじゃない。
まだ知り合って数ヶ月だが彼の人柄はよくわかっている。誰にでも人当たりがよくて親切で、頼りがいもあり、全く悪いところなんかない。
このところ、どういうわけか彼からよく話しかけられるのだ。
俺は人見知りで話すのは上手くない。話しかけられてもろくに返事もしないから大抵の人には初対面で呆れられるか嫌われる。こちらとしても一人でいる方が気楽だから好都合だった。俺は今さら誰かと関わろうなんて思っていない。
それなのに、スカイアイは俺のそんな反応をものともせずに話しかけてくる。こんな俺と話して何が楽しいのかさっぱりわからない。スカイアイと会うと穏やかで凪いだ気持ちが乱される。感じたことのない感情に振り回される。
だからあんまり会いたくないんだ。
会うとまた話しかけてくるんだろう。あの、爽やかな笑みを浮かべて……。
スカイアイのことを思い浮かべると妙に緊張してしまい、トイレに行きたくなった。
おあつらえ向きに前方にトイレが見えた。そのトイレに寄ろうとして、手に持っていたミーティングのための資料が邪魔だと気づいた。
トイレの横には四角く区切られた喫煙スペースがある。灰皿の他に、飲み物の自動販売機や小さな丸いテーブルが備え付けられている。ちょうどいい、とそのテーブルに資料を置いてトイレに入った。
用を足したあと資料を取りに喫煙スペースに戻ると、男二人が狭い喫煙スペースを占領していた。
見たことのある顔だ。だが名前までは出てこない。俺と同じ戦闘機パイロットなのはわかるが、話したこともないしコールサインも思い浮かばなかった。
二人の男は、あまりいい印象を抱く人物ではなかった。
喋りながらタバコをふかしている二人。一人の男は、Tシャツの袖からセクシーな女性を象ったタトゥが覗く。その肘を乗せたテーブルの上には俺の資料が。
タトゥの男が立ちすくむ俺に気づいた。
「……何だ?」
じろりと睨まれて俺は即座にうつむいてしまった。
「あ……あの」
そこにある資料を渡してくれと言うだけでいいのに、言葉が詰まって出てこない。
心臓が嫌な感じにドクドクと脈打つ。
「何だよ……なぁ?」
二人の男は俺の態度のおかしさに顔を見合わせてニヤニヤと笑いだした。
俺は視線をテーブルに向けて資料を見つめた。二人の男も視線を辿り、自らの肘の下にある資料に気づいた。俺の言いたいことを理解したようだ。しかし、男はニヤリと笑って腕を資料の上から退けようとしない。
きちんと言葉で伝えない限り、渡す気はないということか。
なんだか嫌な雰囲気になってきたなと思う。
しかしミーティングに資料は絶対に必要だったし、早くしないと遅れてしまう。ためらっている暇はなかった。
俺は意を決して口を開いた。
「あ、あの……その、資料、俺のなんだ。渡して……ほしい」
「はぁ? ……聞いたかよ、おい。ひっでぇ訛りだな」
二人の男たちはオーバーリアクション気味に手を叩いて笑いだした。
かぁっと頬が熱くなる。
自分の公用語の発音がひどいのは自覚している。
パイロットになるためには公用語の習得は必須だったから必死に勉強した。苦手な中でも文法や聞き取りは何とかマスターした。しかし、発音は難しくてネイティブのようにはとても話せない。学校でも発音に関してはそこまで教えてくれない。だからほとんど独学だ。
人と話すのが嫌だった。話し下手なのに加えて、発音が下手なのが恥ずかしかったからだ。
それでも今さらどうしようもない。急に発音が上手くなるわけがない。今は恥をかいてでも資料を取り返さなければならなかった。
「い、急いでるんだ。ミーティングでその資料を使うから……返してほしい」
「あぁん? 何だって? なに言ってるのかさっぱり聞き取れねぇ。これだから田舎者はよ」
「おい、よせよ。かわいそうだろ」
タトゥの男は隣の男に笑いながら話しかけた。隣の男は「かわいそう」と口では言っているが顔は笑っている。タトゥの男を嗜める意図はなく、悪ノリしているのだ。
こちらが困っている様を見て楽しんでいる。
その歪んだ顔を見ていると昔の記憶がフラッシュバックした。
子供の頃、珍しい白い髪を引っ張られたり後ろから突き飛ばされたりした時の同級生たちの顔は、まさにこんな顔だった。
この二人に何となくいい印象が持てなかった自分の直感は当たっていた。
大人になってもからかわれ、いじめられている自分が情けない。情けなくて――消えたくなる。
男たちの顔を見たくなくて、うつむいて自分の靴の爪先を見ていた。再度、訴える。
「資料を……返してくれ」
「だからぁ、何て言ってるかわかんねぇんだって」
男たちの下卑た笑い声が基地の廊下に響く。
だが、その笑いは背後から近づく革靴の音でピタリと止んだ。
「俺には『資料を返してくれ』とハッキリ聞こえたんだが……君たちには聞こえなかったのかな?」
後ろから聞き馴染んだ声がして、この場に満ちていた嫌な空気を凍りつかせた。いや、凍りついたのはさっきまで俺をからかって遊んでいた男たち二人だけだ。
二人は俺の背後を目を見開いて凝視する。その顔は青ざめていた。
「君たちは耳が悪いのではないか。それでは任務に支障をきたすだろう。軍医に視てもらうといい」
俺とは違い完璧な発音で、嫌みたらしくもなく、淡々と事実を述べる静かな声。感情が不必要なまでに抑制されているような声だった。普段、その声はもっと優しさに満ちているだけに、ひどくギャップを感じた。
タトゥの男はだらしなくテーブルに預けていた身体をシャキッと伸ばし、資料を俺に差し出した。そしてもう一人の男と共にすごすごと足早に去っていく。
俺が後ろを振り返るとスカイアイが苦笑して立っていた。「大丈夫か?」と俺に問いかける。それに何とかうなずきを返す。
こんなみっともない場面、彼には見られたくなかった。けれど助かったのも事実だった。
「ありがとう……スカイアイ」
「いや、俺は何もしてないよ。それよりミーティングに行こう。遅れてしまうよ」
スカイアイが俺の肩に手をかけて促した。
一緒に廊下を歩く。うつ向いて一言も発しない俺を気遣ってか、スカイアイが声をかけてきた。
「さっきの……気にしてるのか?」
「いや……、俺って、そんなにひどい発音をしてるかな……」
発音が下手な自覚はあったけれど、通じないとか笑われるほどなのか心配になった。ネイティブの人の感覚は自分にはわからない。
スカイアイは言葉を選びながら、しかし嘘をついても仕方がないと思ったらしい。正直に「上手いとは言えない」と教えてくれた。
「時々、単語が違う意味に聞こえるときがあって、そういう時は文脈から判断している」
スカイアイから告げられた言葉は正直、ショックだった。かろうじて通じてはいると思っていたからだ。みんな親切だからわざわざ指摘せずに文脈から読み取ってくれていただけだったのだ。
がっくりと肩を落としてひどく落ち込んだ俺を見て、スカイアイは慌てたように言い募った。
「いや、母国語ではないのだから仕方ないよ。それに、これから勉強していけばいい」
スカイアイは自分の発言から妙案を得たとばかりに顔を輝かせた。
「そうだ、いいことを思いついた。俺が君に発音の仕方を教えればいいんだ」
「え……?」
「俺では不満かな」
「い、いやっ、そんなことは――」
こういうとき、はっきり「ノー」と言えないのは自分の悪いところだと思う。
本当は断りたかった。俺はスカイアイが苦手なんだ。それなのに、スカイアイに眉を下げて悲しげな顔をされると、ひどく悪いことをしたような気分になって断りきれない。
「じゃあ、その話はまたミーティングの後でな」
彼はすっかりその気になっている。
スカイアイは機嫌よさげに俺の肩を叩くと、いつの間にか辿り着いていたミーティングの部屋に入っていった。

それからというもの、スカイアイは何かにつけて俺に発音をレクチャーしだした。
発音を正してもらうには、まず会話をしなければならない。だからスカイアイと会話をする機会も多くなる。
スカイアイは意外にも厳しい教師だった。正しく発音できないと、できるまで何度もやり直しをさせられる。正しい発音を覚えるためなのだから仕方ないとはいえ、繰り返し発音をしている自分の姿を他の人間に見られるのは恥ずかしかった。
人前でするのは俺が集中できないと汲んで、勉強はスカイアイの部屋でやることになった。これも俺が提案したわけではなくてスカイアイからだ。仕事が終わって就寝までの少しの自由時間を勉強に当てようと彼が言い出した。
「そんな……、迷惑じゃない?」
就寝までの貴重な自由時間を俺ごときのために使わせるなんて。
しかしスカイアイは「俺の方から提案したのだし、迷惑なはずがない」と、まるで聖人のような笑みを浮かべたのだった。

そんなわけで、今日も夜になったらスカイアイの部屋で勉強会である。
日常的によく使う言い回しや、軍隊内でよく使う専門用語などを重点的にやっていく。
スカイアイが手本を示して俺がそれに続く。発音の悪かった部分を彼がすかさず指摘した。
「thの発音のときは舌を歯で噛んで」
顔を突き合わせてスカイアイの唇や舌の動きを注視する。スカイアイにも同様に見られる。見よう見まねでやってみるが恥ずかしさからか上手くできず、なかなかスカイアイからOKが出ない。
「もっと舌を出して。慣れないうちはオーバーにやった方がいい」
口や唇の動きを他人にこんなに見られるのは始めてで、なんだかやっていて無性に恥ずかしくなる。顔が熱くてスカイアイに変に思われないか焦ってしまう。
恥ずかしくてうつ向いて小さくモゴモゴ言っていると、スカイアイが俺の顎に指をかけて引き上げた。
「ん? 聞こえなかった。……もう一度」
そう言って顔を覗き込まれる。
スカイアイは俺のために勉強に付き合ってくれているのだからもっと真剣にやるべきだとは思う。だがしかし、こんなに他人と近くで話すなんてかつてないことで、どうにも落ち着かない気持ちになった。
そうやって一時間も練習していると、いつも終わる頃にはぐったりした。
何度も何度も同じ単語を発声して、普段はほとんど動かさない唇や舌、そして頬の筋肉を酷使するためだろう。もう一言も喋りたくないという気分になる。
毎度ぐったりする俺を見てスカイアイはおかしそうに笑った。
そうして何度か練習を重ねていくうちに、スカイアイに対する苦手意識もいつの間にか薄れていった。勉強の合間にお互いの話もするようになった。
「スカイアイの発音は綺麗だよね」
「そうかい? ……ありがとう」
スカイアイの発音は俺みたいなネイティブじゃない人間にも聞き取りやすかった。滑舌がよいせいだろうか。それに汚い言葉遣いをしているのを聞いたことがない。
「やっぱり、管制官だから?」
「一応、訓練生時代にボイストレーニングを受けたことがある。呼吸の仕方や、マイク越しでも聞き取りやすくなる発声方法なんかを。無線でのやり取りは音がクリアじゃないからな」
へぇ、と思わず感心した声を上げた。
「俺たちの仕事は正しく伝えることが重要だからね。……君の発音も、かなりよくなってきたよ」
「本当に?」
「ああ。以前よりずっと。自信をもっていい」
スカイアイから褒められて俺は嬉しくなった。
そういえば普段生活する上で必要になる会話も、前ほど抵抗感がなくなったような気がする。元々の性格が暗いから、明るくペラペラ喋るようにはとてもなれはしないが――。
「スカイアイ、ありがとう……あなたのおかげだよ」
「いや、君が真面目に頑張った結果だよ。生徒にやる気があれば教える側も自然と熱が入るさ」

スカイアイと二人きりの勉強会は、結局一ヶ月にも満たずに終わった。もちろんまだ完璧とは言いがたい。しかし独学でやっていた頃から比べれば格段によくなり、普通に通じるレベルにはなった。
発音に対する苦手意識がなくなってくると人と話すのも前ほど嫌ではなくなって、自信のようなものが身体の内から湧いてくるのが不思議だ。
基地内で、あの時のタトゥの男とすれ違うこともあった。だが目があってもすぐに反らされ、彼らが俺に絡んでくることは二度となかった。
思い出したくもない苦い記憶だったが、あのことがなければスカイアイに発音を教えてもらうこともなかっただろうから、何がきっかけになるかわからない。
勉強会はなくなったが、スカイアイと会話をしている最中に発音が気になる部分があれば、彼は適宜、指導してくれる。
「……スカイアイは、どうしてそんなに親身になってくれるんだ?」
ある時、そう尋ねると、いつもすぐに答えを返す彼が珍しく口ごもった。
「ああ……うん」
少し困った顔で笑う彼の、何かを秘めたような青い瞳に吸い込まれそうになる。じっと彼に見つめられて俺の胸は高鳴った。
練習を重ねていくうちにスカイアイのことは苦手じゃなくなったはずなのに。
ドキドキといつまでも治まらない胸に手を当てる。
この胸のドキドキはいったい何なのか、どこからやってくるのか。
彼といると落ち着かない気分になるのはなぜなのか――俺にはわからなかった。