旅と旅のあいだに

夕闇に染まるビル街。
夜が近づいてめっきり冷え込んだ空気に男は白い息を吐いた。
信号が赤になり、歩みを止めた。
袖をずらして腕時計を確認する。まだ待ち合わせには余裕のある時間だ。しかしどこか落ち着かない気持ちで男は辺りを見回した。ビルの透明な壁が鏡のように男の姿を映していた。グレーのスーツにコートを羽織った飾り気のない姿だ。頭の先から爪先までをチェックする。少し歪んだネクタイの形を整えた。
そわそわしてしまうのも仕方がない。遠く離れていた恋人と、これから久しぶりに会うのだから。
信号が青に変わり、一歩を踏み出す。
待ち合わせはこの先にあるバーだ。自分には馴染みのある場所だったが、果たして彼は迷わずに来られるだろうか。
それが少しばかり心配である。

薄暗い照明に照らされた狭い階段を下りて店内に入った。
静かなジャズが流れる、こじんまりとした店だ。柔らかな光が照らす一角にピアノが置いてある。今は誰も弾いていないが時折ここで生演奏を聴ける。
席はカウンターを選んだ。店の入り口がよく見える。彼――メビウス1が入ってきたらすぐに気がつけるように。
その時を想像すると、年甲斐もなく胸が高鳴った。
会えない間は寂しくてつらいけれど、会える前の期待、会った瞬間の喜びは何倍にもなる。
ずっと共にいたとしても愛は薄れないと断言できるけれど、距離を置くことで新鮮な気持ちになれるのは確かだった。
しかし今でこそ余裕ぶって彼を待っていられるのだが、メビウス1が旅に出たいと言い出した時はこんな風に穏やかな気持ちにはとてもなれなかった。

大陸戦争の終結後、軍を辞めたメビウス1と同棲して数年。スカイアイは仕事の合間に休みを取っては恋人であるメビウス1と充実した日々を過ごしていた。
スカイアイは孤独だったメビウス1に、失くした家と家族の変わりになる“帰る場所”を与えたかったのだ。
初めは一緒に暮らすことに戸惑いのあったメビウス1も、徐々にスカイアイの存在になれていった。愛を受け取ることに全く慣れていない彼に根気よく愛を注ぎ、その戸惑いを消した。そしてスカイアイにだけは我が儘を言ったり甘えを見せるようになった彼に、なおいっそう愛しさはつのった。
そんな矢先だった。
メビウス1が「旅がしたいから家を出る」と言い出したのは。

 

キィ、と扉がきしんだ音がしてスカイアイは顔を上げた。
店の扉を開けて入ってきたのはMA-1を着た小柄な青年。幼さの残る顔は学生のようで、この落ち着いたバーには少し不釣り合いにもみえる。不安げにキョロキョロと辺りを見回すたびに特徴的な白っぽい髪がふわふわと揺れた。
スカイアイは軽く右手を上げた。それに気づいた彼はこちらを見る。
パッと華やぐ表情。
少し早歩きで近づいて来る。
「スカイアイ!」
呼んでから、彼は「しまった」という表情で口を塞いだ。公共の場でコールサインを口にしてしまったからだが、思わず出てしまった仕草がかわいい。
「――久しぶりだな」
微笑ましく思いながら隣の席に座るようにすすめた。
ここが自分の家やホテルであれば、今すぐ彼を抱き締めて口づけたいところだが、バーではそうもいかない。
なぜ待ち合わせに家ではなくバーを選んだのかというと、スカイアイの勤務地が変わったからだ。勤務地が変わるのは、その時の状況や作戦によってよくある。そのためにメビウス1と過ごしていた家からは遠く離れてしまった。
「本当に、久しぶり。……会いたかったよ」
近づいたメビウス1が、そっとスカイアイの耳元に顔を近づけて周囲には聞こえない音量でささやいた。
少し照れ笑いを浮かべながら隣の椅子に座るメビウス1。
今すぐ抱きしめたい。
スカイアイは差し出しそうになった腕を握りこぶしを作って耐えた。
バーではそうもいかないと自制したところだったのに、彼はそんな自制を崩しかねないことをする。まったく、こちらの身にもなってもらいたいものだ。
隣に座ってカクテルを注文する彼をよく見る。伏せた睫毛も小ぶりな鼻も何一つ愛おしさは変わらないけれど、記憶にあるメビウス1と何かが違う気がした。しかし理由はわからない。スカイアイは内心で首をひねった。
「今回はどこへ行っていたんだ?」
「えっと、……オーレリア」
「オーレリアだって? またずいぶん遠いな。あの辺りはレサスが内戦続きで治安が悪いんじゃないのか」
「オーレリアはそうでもないよ。さすがにレサスには近寄ってないし」
スカイアイはため息を吐いた。彼はなぜか危ない地域にばかり行きたがる。危険なことはやめてくれと口を酸っぱくして言っているのだが、彼に響いているのかどうか。
「オーレリアって寒冷地って聞いていたから寒いと思ってたんだけど、南半球にあるから今は夏でしょう。案外暑くて……見て、これ。日焼けしたんだ」
着ていた薄手のセーターを少しまくって腕を見せた。確かに全体的に普段の彼の肌よりは色が濃い。再会してすぐに感じた違和感の原因がわかった。オーレリアとは違ってこちらは今、雪のちらつく冬だ。どこか夏の気配を残した彼に、スカイアイは違和感を覚えたのだ。
じっと横顔を見つめていると、メビウス1はこちらを振り返ってにっこりと笑った。その笑みに、彼の自信が垣間見える。
旅から帰る度に彼は少し成長している。知らない国に行き、新しい価値観を得て一回り人間として大きくなる。そういう姿を見てしまえば再び旅に出る彼を止められはしない。

 

彼が「旅に出たい」と口にしたとき、スカイアイの心は受け入れることを瞬間的に拒否した。
「旅……? 何のために?」
「わからないけど……、ここでじっとしているのは、何か違う気がするんだ」
理性の入る隙間はなかった。どうしても無理だと思い、口には出さなかったが態度にはありありと出てしまっていた。スカイアイが快く思わなかったのをメビウス1は察知して説得しようとした。
「スカイアイのことは好きだし、一緒にいたいよ。でも、それとは別に、自分を試してみたいんだ。もっといろいろなことを知りたいんだ」
彼を愛しているのであれば認めるべきだという理性と、どこにもやりたくないという愛着が衝突してスカイアイの眉には深い皺が刻まれた。スカイアイの心はメビウス1が絡むとひどく狭くなってしまうのだった。大人げないとは思うが、どうしようもない。だが苦しくてもメビウス1に自分の葛藤をぶつけるような真似はしなかった。そのことだけは自分を褒めてやりたいと今になって思う。
スカイアイはメビウス1をおいて自分の部屋にこもって悩んだ。
彼が旅に出れば眠れなくなるくらい心配でたまらなくなるに決まっている。できれば側にいてほしい。
だが、彼の望みもわかる。メビウス1の性質を考えれば彼を閉じ込めておけないのはわかっていたはずだ。いつかこうなるような気がしていたんだ。
彼が自分の元を飛び立とうという気になったのは、逆説的だがスカイアイの愛情がメビウス1に深く浸透したことを表している。
離れても平気だと、二人の仲が壊れることはないと思えるくらい、スカイアイを信頼してくれた証だった。
理解はできるが、離れるのはやはりどうしようもなくつらかった。

結局答えは見えず、閉じこもっていても仕方がないとあきらめて部屋を出た。
部屋の前でスカイアイを待っていたのはメビウス1の置いていかれた仔犬みたいな顔だった。眉を八の字に下げて、唇を噛みしめて。少し潤んだ瞳でスカイアイを見上げてきた。
自分の発言を後悔した顔だった。
スカイアイは思わず彼を抱きしめた。きつく抱いて、自分が間違っていたことを悟った。
違う。こんな顔をさせたかったんじゃないんだ。
彼を愛している自分が、彼を悲しませてどうする。このままでは長い時間をかけて築き上げた信頼さえも揺らぎかねない。
「スカイアイ……ごめん」
「いいや、謝るのは俺の方だ。君を愛してる……でも、それを盾に君を縛り付けるのは間違っているよな。君は自由なんだから」
自由な魂を持ったメビウス1だからこそスカイアイは惹かれた。自分には持ち得ないものだから。その輝きを何よりも愛しているスカイアイ自らが、曇らせるようなことをしてはいけない。
「俺が自由でいられるのは、あなたがいてくれるからだよ。帰る場所があるから、どこへでも行けるんだ。……必ず、帰ってくるから」
メビウス1はスカイアイを見上げて訴えた。
彼を過度に心配してしまうのは、もちろん愛しているからだが、スカイアイがメビウス1を信頼していない気持ちがどこかにあるからかもしれなかった。
メビウス1は普段はボーッとして凡庸に見えるが、いざという時には能力を発揮する男である。
自分自身こそもっと彼を信頼してやる必要があるのかもしれない。
――と、当時のスカイアイは思い、執着を手放して彼を旅立たせる決意をした。
その決断は間違っていなかったと思う。
手の中のグラスにたゆたう氷の輝きを見て、あの時の吸い込まれそうに美しかった彼の瞳を思い出した。

 

ツンツン、と二の腕をつつく刺激に我に返る。
つつかれた方を見やるとメビウス1が少し唇を尖らせていた。
「さっきから黙って、なに考えてるの? ……もう酔った?」
「いや、そうじゃない」
苦笑して首を振った。
構ってもらえなくて拗ねている姿がかわいい、なんて思っている場合ではなかった。久しぶりに会った恋人を放っておいて上の空では怒られて当然だ。スカイアイは素直に自分の非を認めてあやまった。
「すまん。ちょっと昔を思い出していた」
「ふぅん……?」
メビウス1が開いた口を閉じた。
彼がさらなる追求を止めて関心を示したのは、店内でピアノの演奏が始まったからだった。
女性の歌手がピアノを弾きながら歌い始めた。
静かなバラード。
演奏を邪魔しないようにか、メビウス1が顔を近づけてささやいた。
「この曲、聴いたことがあるよ。最近になってよく聴くけど、元は古い歌だよね」
「昔の曲をカバーして、売れているみたいだな」
スカイアイもメビウス1をならって声をひそめた。
どこまでも続く海原を感じさせるような、ゆったりとした雄大な歌だ。

“旅立ちは 私の心から始まる
私だけの答えを求める事から
止めどない想いを抱き 朝も夜も飛び続ける 私の心に問いかけながら
どこへ向かうのか いつ辿り着くのか この旅の終わりは きっと訪れると”

メビウス1は言葉もなく、手の中に満たされたグラスを見つめていた。
スカイアイは、まるで彼のことを歌ったような曲だと思った。
歴史すら変えかねない力を持ったメビウス1は、自らの意志でその力を振るうことを封じた。空を飛ぶこと以外に自分には何が出来るのか、彼は常に探し求めている。
その旅にはいつか終わりが来るのだろうか。
曲が終わり、店内が拍手で満たされる。
スカイアイは、いまだ呆として雲の彼方を飛んでいるようなメビウス1を驚かさないよう、静かに語りかけた。
「メビウス1、君の答えは見つかったのか?」
メビウス1はハッとして隣にいるスカイアイを振り返った。そして曖昧な笑みを浮かべる。
「ううん、わからない……。でも、いつか――」
そっと目を伏せた。
旅の目的も、答えも、もしかしたら彼自身にも何もわかっていないのかもしれない。
それでも行かずにはおれないのだろう。
衝動の赴くままに。
いつか彼が語ったように、メビウス1が帰ってくるのはスカイアイの元だけだ。
ならば待っていればいい。答えを見つける、その時まで。
「スカイアイ……」
メビウス1がスーツの袖を引いた。オレンジ色の光に照らされた瞳がじっとスカイアイを見つめる。その奥にゆらめく陽炎を見つけ、その炎がスカイアイにも伝播したように感じた。
氷が溶けて少し水っぽくなった酒を飲み干して、二人は店を出た。
スカイアイはメビウス1とひとときの逢瀬を楽しみ、後ろ髪を引かれながら勤務地へと戻った。
メビウス1が新たな戦いの場に呼び戻されるまで、そんな生活が続いた。