基地の廊下を歩いていると鼻先にスパイシーな香りが漂ってきた。減った腹が、さらにへこんで鳴る匂いだ。
今日の晩飯、献立はカレーのようだとスカイアイは見当をつけた。
食堂へ入ると匂いはよりいっそう強く香る。出来上がったカレーが乗ったトレーを列に並んで順番に受け取っていくのだが、腹をすかせた兵士たちは皆、心なしか嬉しそうな顔をしている。
ここノースポイントの基地では、たまに食事にカレーが出てくる。
スカイアイは初めてカレーを見たとき驚いた。茶色でドロドロとしていて……。言っては何だがあまり美味そうには見えなかったのだ。しかし、ひと口食べてみて世界が変わった。
野菜の甘さとスパイスの辛さの絶妙なバランス。濃厚でいろいろな味が混ざりあった旨味。ノースポイントの人たちが皆カレーが好きなのもうなずける美味さだった。
スカイアイも食堂の列に並びトレーを受け取る。適当に空いている席に座って食べ始める。
今日は普通のカレーだが、日によってはカツが乗っていたり玉子が乗っていたりと、様々なアレンジがされて飽きない。ノースポイント人の食に対するこだわりには感心するばかりだ。
今日のカレーも当然うまい。
だが、一番のカレーはこれじゃない。
スカイアイにとって一番美味しくて好きなカレーは、メビウス1の作るカレーだった。
カレーは作る人によって味が変わる。メビウス1の作るカレーは甘いのが特徴だった。
軍を辞めたメビウス1と、スカイアイの自宅で一緒に住み始めたとき、料理はメビウス1が作ってくれることになった。
ある時、メビウス1がキッチンで料理をしていたのを何気なくのぞいたら、滂沱の涙を流していて驚いた。
「どうした!? 指でも切ったか?」
メビウス1は首を振った。
「違う。玉ねぎが目に染みて……っ、前が見えない……」
メビウス1の前には、まな板の上に乗った玉ねぎ。右手には包丁。作業台にカレールーが置いてあるから、どうやらカレーを作るつもりだったらしい。玉ねぎはみじん切りにしている途中だ。
メビウス1のカレーは甘いと思っていたが、その理由は玉ねぎをみじん切りにして入れているからのようだ。
メビウス1は何度もまばたきをした。その度に透明な眼が溶けていくみたいに大粒の滴がポタポタとこぼれた。
「そんなに染みるものなのか」
メビウス1はコクリとうなずいた。「いつものことだけど」と言って玉ねぎを再び切り始める。
涙を流すメビウス1を見ていると、スカイアイは何とかしてやりたくなった。別に悲しいわけでも苦しいわけでもないのはわかっているが、泣いている彼を放っておけない。
「俺が切るよ」
「えっ、スカイアイが!?」
「そんな視界が悪い状態じゃ、手元が狂って、いつか自分の指を切るかもしれない。危ないから」
「でも、スカイアイ、できるの?」
「まあ、なんとかなるだろう。細かくすればいいだけだろう?」
メビウス1から包丁を借りて、指示通りに玉ねぎをみじん切りにする。メビウス1は隣でパチパチと拍手をした。
「すごい! 初めてにしてはうまいね」
見よう見まねで玉ねぎをみじん切りにしただけでそんなにすごいことをしたわけではないが、大袈裟に褒められればなんだかんだで嬉しいものである。
メビウス1は目を真っ赤にしながら鼻をスンスンいわせている。
「スカイアイは目が痛くならないの?」
「少しね。……君ほどじゃないみたいだ」
「いいなぁ……」
ティッシュペーパーで涙と鼻水をぬぐうメビウス1に、スカイアイは提案した。
「今度から玉ねぎのみじん切りは俺がするよ」と。
カレーを見ていると、そのときのやり取りを思い出す。
彼は今、何をしているだろう。また玉ねぎを切って泣いていないだろうか。玉ねぎを切るのは自分の仕事だと約束をしたはずなのに。
メビウス1は今もスカイアイの自宅に住んでいる。スカイアイには仕事があるから、いつも一緒にいられるわけじゃない。まとまった休暇が取れなければメビウス1には会えなかった。
もうひと月にもなる。
スカイアイは深くため息を吐いた。
一日の仕事が終わり、眠りにつくとき。
ようやくスカイアイが一人きりになれる時間。
仕事をするのは嫌いじゃない。好きな仕事だしやりがいもある。仕事をしている間はそちらに集中しているから、メビウス1のことを思い出すことはほぼない。
だが、こうして思考が自由になると駄目だった。
誰の息づかいも、体温も感じないベッドが空虚でたまらなくなる。
起き抜けの眠そうな顔や、素肌が触れあう心地よさ。
夜にさんざん睦み合ったのに、じゃれあいの延長で済まずに朝から求めたこともあった。
二人で映画のDVDを見ていたときだ。あまりにも内容がつまらなくて、大人しく映画を見ていたメビウス1の身体をまさぐるというセクハラじみた暴挙にでたときも、彼は嫌がらずにスカイアイの求めに応じてくれた。
彼が欲しそうだったから、お揃いのマグカップを買った。
彼のために部屋をしつらえたが結局ほとんど使われなかった。朝起きてから、夜寝るときまでずっと側にいたから。
彼と一緒に過ごしていたのはほんのひと月ばかりなのに、そのひと月があまりにも濃密に自分を満たしていた。
しっとりと汗ばんだ肌の感触。
ひそかに漏れる声。
唇の柔らかさ。
彼の潤んだ瞳の中に、とろけるような黄色い満月。
彼が泣くのは自分の腕の中だけでいい。
スカイアイは記憶の中のメビウス1を鮮明に思い浮かべた後、その幻影が消え去らぬうちに夢の淵へ潜っていった。