いつか憧れのあの人に

「ちょっとお前、手が空いてるならメビウス1を呼んできてくれないか」
メビウス1の機体の調整をしていた整備班長に突然声をかけられ、俺は整備道具を片付けていた手を止めた。緊急で彼の指示を仰がねばならないと言われ、急いでメビウス1を探しに兵舎へと向かった。

俺は整備士として、一年前この基地に配属されたばかりだ。本当は戦闘機のパイロットになりたかったのだけれど、俺にはパイロットの適性がなかった。せめて戦闘機に触れる仕事がしたくて整備士になった。
俺にとってメビウス1は、自分がなれなかった戦闘機パイロットということもあり、憧れの存在だった。一機で戦況をくつがえし、ISAFを勝利に導いた英雄。どんな人間なのか気になるのは当然だろう。
俺が配属されたときに彼はすでにこの基地にはおらず、噂しか聞けなかった。けれどこの夏、どういうわけか彼が突然帰ってきて、基地は喜びに沸いた。俺もメビウス1を出迎え、そのとき初めて彼の姿を見た。
髪や肌は白く、小柄で華奢……同年代の男に例える言葉ではないが、透明感のある不思議な雰囲気も相まって妖精のようだと思った。とても“死神”と敵に恐れられた人には見えなかった。
本物のメビウス1を見て感動し、一緒に仕事ができると喜んだのも束の間、俺のような一介の新人整備士がメビウス1に話しかける機会などない現実を知る。
そもそも今回の作戦において、メビウス1は単機で行動する。だから彼が接する人間は司令官、管制官、整備士の最低限がいればよい。人に注目されるのが好きではないタイプらしく、メビウス1が人の集まる場所に現れることは食堂以外ほぼなかった。
彼に憧れているのはもちろん俺だけではない。知り合いの新人パイロットが、メビウス1はいつも古参の部隊メンバーに囲まれ、同じパイロットでも話しかける隙はないと、悔しげに語っていたのを聞いたことがある。
そんなわけで、整備班長からメビウス1を呼んでこいと言われたときは、彼に接触できるのだと、思わず興奮してしまった。
――これはすごいチャンスなんだ。
メビウス1に話しかけられる大義名分を手に入れたのだから。

俺は弾む足取りで兵舎に向かった。
まずはメビウス1の私室を訪ねたが返事はなく、次いで休憩室や会議室などを見て回ったが、どこにも彼の姿はない。メビウス1のような有名人、いくら人前に現れるのが嫌といっても、こんなに気配を消せるものなのだろうか?
歩き回り、だんだん足が重くなってくる。
あまり期待はできないが、食堂も覗いてみる。もう昼はかなり過ぎていて食事をしている人間はまばらだった。入り口で辺りを見回す。
「おい、邪魔だ」
背後から威圧感のある声がして、驚いてふり返った。
ヴァイパー7だ。メビウス1のそば近くで終戦まで戦った古参メンバーの一人でメビウス1の次に強い――つまりメビウス1が帰ってくるまではこの人がトップエースだった。若く、精悍な顔つきで目付きは鋭く、性格も外見を裏切らず厳しかった。それも強さの証しだと皆には受け入れられていたが。
「すみません」と俺はあわてて扉から退いた。
「何してたんだ?」
気さくに話しかけてくれたのは、ヴァイパー7の隣にいた大柄で年嵩の男、オメガ1だった。オメガ隊の隊長を務めている。
彼らはエース部隊でもトップの実力者だ。彼らと話すことすら、普段の俺の立場ならありえなかっただろう。
「あ、あの、メビウス1を探しているんですけど……」
言外に、見ませんでしたかと含めて彼らを見た。
「メビウス1?さぁなあ。俺たちはさっきまでミーティングしてたからな」
オメガ1が首をかしげ、ヴァイパー7を見やる。
「……新兵があいつに、何の用だ」
じろりと睨み付けられ、心臓が縮んだ。
ヴァイパー7はメビウス1と親しいわけではなかったはずだ。どちらかと言えば対立しているという噂すらあった。メビウス1がいなければ、彼が最も強いエースでいられるのだから。そんなヴァイパー7から、なぜこんな詰問を受けるのだろう。俺は冷たい視線を浴びながらも、整備班長の命令を伝えた。
大丈夫だ。何を言われても、俺にはこの大義名分があるのだから、背筋を伸ばして堂々としていればいい。
「あいつの居場所に心当たりはないが、知ってそうなやつなら知っている」
「ああ、なるほど」
回りくどいヴァイパー7の言い方に、うなずいたのはオメガ1。何がおかしいのか一人で笑いをこらえて「メビウス1を探すときはまずスカイアイを、だったな」と、何かの標語をそらんずるように言う。
スカイアイならメビウス1の居場所を把握しているか、常に側にいるから。と、オメガ1が説明した。
アドバイスを受けて、今度はスカイアイを探し始めた。彼の足取りは案外簡単に見つかり、会議の後、自室に戻るところを見た人間がいた。やはり先人のアドバイスは聞くべきだなと、彼らに感謝する。
スカイアイの部屋に向かいながら、胸が高鳴るのを感じた。

スカイアイの部屋の扉をノックする。
廊下には静寂が満ちて、反応もない。誰もいないのかと不安になりかけた頃、静かに応答があり、扉が開いた。
姿を見せたスカイアイは、いつもきちんとしている彼にしては珍しく、Yシャツのボタンが上から二つばかり外されて、どこか気だるげな雰囲気をまとっていた。スカイアイから香水のいい匂いと、はだけた肌色の胸板からフェロモンのようなものが漂ってくる。俺はなにか見てはいけないものを見たような気がして、ぎこちなく目をそらした。
寝ていたところを起こしてしまったのかもしれない。申し訳なく思いながら用件を話した。
「あの、メビウス1を探しているのですが……」
「メビウス1を?」
そう言うと、彼の視線は室内をふり返る。部屋の様子はスカイアイの体で遮られてよく見えなかったが、その視線の意味はまさか。
「彼ならここにいる」
俺は歓喜した。とうとう、メビウス1に会えるときがきたのだ。
「だが、今は遠慮してくれ。眠っているんだ」
「えっ、あの、でも……」
まさかの言葉に喜びがみるみるしぼんだ。
メビウス1がスカイアイの部屋で寝ているとはどういうことなのか、疑問に思いながらも必死に班長からの命令を伝えた。
どうしても彼に会いたい。諦めるな。この扉の向こうにメビウス1がいる。すぐ側に。
この機会を逃したら、次はない。
「整備班長が、か。……了解した。班長の用件は俺が聞いておこう。後はこちらでやるから、君は戻ってよろしい。伝言ご苦労だった」
無情な言葉に希望は打ち砕かれ、呆然と立ち尽くす俺にスカイアイは、「どうした」といぶかしげに聞くが、俺は何も言えない。スカイアイは人当たりがよくて下級兵士にもフランクに接してくれるため忘れがちだが、俺よりもはるかに上級の佐官だ。逆らえるはずもない。

メビウス1に会って話せると思っていたのに、まさかスカイアイに阻まれるとは思わなかった。
トボトボと兵舎の廊下をあてもなく歩いた。
「あ、お前、さっきの」
聞いた声に顔を上げると正面に二人の男がいた。食堂で会ったヴァイパー7とオメガ1だ。
「メビウス1に会えたのか?」と聞かれ、うなだれる。さっきあったことを一部始終話した。
「あ~そいつは……、間が悪いというかなんというか」
オメガ1の歯切れが悪い。頭をかいてあさっての方を向いている。ヴァイパー7は眉間にシワを寄せて「ったく、昼間っから」とかなんとかぶつぶつ言ってる。
あまりにも俺がしょんぼりして情けない顔をしてたからだろうか、察したオメガ1が肩を叩いて励ましてくれた。
「まあ、スカイアイを許してやってくれよ。なんせ二年かけてようやく成就したんだからなあ」
感慨深げに言われた内容は、俺にはさっぱり意味がわからなかった。

* * *

携帯端末で電話をかける。相手は整備班長だ。
「……スカイアイだ。伝言を聞いてな。メビウス1は今、所用があって連絡できないから俺が変わりに用件を聞いておくよ。どのくらい、急を要する案件なんだ?」
電話で話しながらメビウス1の寝顔を眺める。
先ほど来た若い整備士は、メビウス1に会いたかったのだろう。俺が断ったとき、とてもガッカリしているのが伝わってきた。新兵にはメビウス1に憧れを持つ者も多い。悪いことをしたという気持ちはあったが、今のメビウス1を誰かに会わせるつもりはなかった。
「――了解。伝えよう」
電話を切ったちょうどそのとき、メビウス1がベッドからモゾモゾと這い出してきた。亜麻色の髪があちこちに跳ねて、まだ眠そうに目をこすっている。上半身には何もまとっておらず、白い肌に銀のドッグタグと、俺のほどこした赤いしるしがポツリと映える。
会議が終わり、自室に戻ればメビウス1が待っていてくれて、感動した俺はそのまま彼をベッドに押し倒した。二年間、頑丈な檻に閉じこめていた欲を解き放ってからというもの、俺の自制心は彼の前で容易く崩れさり、味を知ったその滑らかな肌に触れずにはいられない。ただ、兵舎の薄い壁に防音は期待できないから、それが理性を繋ぎ止め、未だ互いに触れ合うのみにとどまっていた。それでも十分幸せだったし、気持ちがいい。
他人の手に慣れぬメビウス1は、達した後、疲れてしまうらしい。すぐに寝てしまう。
「すまん、起こしたか」
ベッドのふちに腰掛け、跳ねた毛先をなでつけると、まだ覚醒しきっていない彼は頭を俺の体にもたれさせてきた。
「んん……なんのはなし、だったの……?」
眠気と戦い、ぐりぐりと俺の首筋に頭をこすりつけてくる彼が可愛くて仕方ない。寝起きのメビウス1は無防備で、いつもより素直に甘えてくれた。
この時を永遠に過ごせたらいいのに。現実は無慈悲だ。
「君、機体の調整を整備班長としていただろう?そのことで、意見がほしいと班長が言ってきたんだ」
単語が、彼の頭の中でパズルのピースのようにはめられていっているのがわかった。機体、調整、班長。全てのピースがはまり、彼の目がぱっちりと覚醒した。
残念ながら彼の頭の中は戦闘機でいっぱいになり、俺が入り込む隙間はなくなってしまっただろう。甘い雰囲気は消え、さっと上半身にTシャツを着てベッドから抜け出してゆく彼を見送る。こうなれば、俺も、あの若い整備士も、大して変わらない気がするのだ。ただメビウス1に憧れ、焦がれるという意味においては――。
「メビウス1」
彼が扉の前でふり返る。
「夕食を、一緒に」
悪あがきを口にする。彼は目を細めてわずかに口角を上げ、うなずいた。