夢魔の誘惑

スカイアイの部屋で過ごす、静かな夜。
メビウス1は一日の終わりの、この時間を待ちわびていた。
目を閉じて、口づけに酔う。
一秒でも長く続いてほしい。
チュと鳴る小さな音は、まだ離れたくない、と唇が言っているようだった。
「明日は訓練の日だったな」
「うん……」
「がんばれよ」
スカイアイはメビウス1を抱きしめて頬にキスをした。それで、その日の触れ合いは終わった。

一年ぶりに基地に帰ってきてカティーナ作戦に身を投じることになり、メビウス1がまず心配したのは、一年たって自分の腕が衰えていないかどうかだった。さすがに操縦は忘れないし、ある程度は戦える自信がある。が、今回は単機での出撃で味方の掩護はないし、メビウス1に期待されているのは戦争当時の強さだった。その戦力が発揮できるか、自身の戦闘力を測りたくて、スカイアイに実戦形式の訓練ができるように頼んだ。それが明日に控えた戦闘訓練だ。
戦闘機での出撃がある前夜、スカイアイはメビウス1の体を気遣い、いつもキス以上のことはしなかった。スカイアイの優しさはありがたい。でも、正直、物足りない。
恋人の、肌の甘さを知ってしまった今では、知らなかった頃には戻れない。もっと触れたいし、触れられたい。そんな風に思うのは自分だけなのだろうか。スカイアイは欲に流されたりしないのだろうか。
メビウス1は心中でため息を吐いた。
いつもスカイアイにリードされっぱなしの自分が何を身勝手な、と思う。スカイアイに与えてもらうことばかり考えている。
いや、もしかしたら経験豊富なスカイアイは、受け身なメビウス1をつまらないと思っているのかもしれない。だとすれば、どうすればいい。欲しがるばかりで努力もしないでいては、いつか彼に飽きられるんじゃないか。
目の前が暗くなった気がした。嫌な想像を払うようにメビウス1は頭を振った。
「スカイアイ。お願いがあるんだけど……」
「ん、なんだい?」
「明日の訓練で、全員倒せたら、俺の頼みを聞いて欲しい」
「はは、そいつはずいぶんと俺に不利な条件だな。……いいよ。どんなお願いなんだ?」
「うん、その……明日、勝ったら言う」
メビウス1は口ごもった。

* * *

整備の仕事に一区切りがつき、俺は休憩所のコーヒーメーカーにカップを差し込んだ。
俺は新人の整備士で、メビウス1に憧れを抱いていた。そんな人間は俺だけじゃない。この基地にはごまんといる。
そろそろメビウス1の戦闘訓練が始まる。
バタバタと走る足音。
「おい、そろそろ始まるぜ」
「ああ、待ってくれ!」
若い兵士が連れだって走って行くのを、じっと眺める。本当は彼らと同じ、行きたくてたまらなかったのだが、仕事があるからと諦めていた。
「……お前は?行かないのか」
となりにいた整備班長が、ゆったりと俺に声をかけてきた。
「い、行って……いいんですか?」
思わず声が震えた。
整備班長は目尻にシワを刻んでニヤリと笑った。手で犬を追いやるようにシッシと振る。
「ちょっと長めの休憩、ということにしといてやる。生きた伝説を拝める機会なんざ、そうはないからな」
「あ、ありがとうございます……!」
俺は班長に敬礼して駆け出した。
今ならまだ間に合う。
新兵の多くはメビウス1の噂しか知らない。実際に見られるのは彼の残した戦果の記録だけ。1個飛行隊に相当する戦闘能力を持つとまで言われるメビウス1。その凄まじい記録を「水増しされている」とか「改ざんだ」と疑う者もいる。……気持ちはわからなくもない。普通の人間には不可能な数字だからだ。
けれど、今日、メビウス1が飛ぶ。
訓練とはいえ、実戦を模して味方のエースたちと戦う。彼の記録ではない実際の戦いを、この目で見られるのだ。
外に出ると、滑走路前に人だかりができていた。メビウス1や敵となるエースたちは、すでに空へ上がっている。肉眼では見えないが、互いに距離をとり、配置についているはずだ。接敵は、基地上空になる。
「よお、来たか」
手を上げて俺を呼ぶ体格のよい男。
「あれ、あなたは訓練に出なかったんですか?」
この、どこか人好きのする大柄な男――オメガ1は、古参のエースパイロットだ。メビウス1の相手は十分に務まるはずだが。
「辞退したよ。あんなもん、疲れるだけじゃないか。メビウス1に勝てるわけもなし」
「勝てないんですか?確か十二機もいましたよね?」
古参のエースばかり集めた十二対一だ。その十二機の中には当基地トップの撃墜数を誇るヴァイパー7もいる。
「まあ、見てな」
オメガ1の見上げた先には、少し雲がかかった秋の空があった。

上空に機影が見えた。
接敵した瞬間、二機がヘッドオンでやられた。メビウス1は十機となった敵エースたちとすれ違う。すぐに旋回。後ろをとる。また一機。早い。呻くようなざわめきが聞こえる。
その後もメビウス1は順調に敵を減らし、数の差はどんどんつめられていった。
猛攻を華麗にかわすメビウス1。その機動力がツバメだとしたら、他の戦闘機はイモムシ程度だ。一見、メビウス1の飛び方は優雅だが、パイロットにはどれだけの負荷がかかっていることか。それが想像できるだけに、周囲の観戦者は唖然として「すごいな……」「人間業じゃねぇ」などとこぼした。
十二機のうち半数以上を、ものの数分で狩りつくしたメビウス1の力量を疑う者は、もはやいない。
上空ではヴァイパー7と残った二機が連携してメビウス1を追いたてていた。新兵たちは、最初はメビウス1に肩入れして見ていたはずが、今や完全にヴァイパー7を応援する側に立っていた。人には、弱者や不利な側を応援したくなる不思議な心理があるらしい。
「そこだ、いけ!」「追い詰めろ!」との叫びの中に、「メビウス1なんかやっつけろ!」とうっかり叫んでしまい、慌てて両手で口を塞ぐやつもいた。
メビウス1はヴァイパー7を倒す瞬間、死神と呼ばれた力の片鱗を現した。
メビウス1がアフターバーナーを全開にして逃げるように距離をとった。それを好機とみて追いかけるヴァイパー7。追うヴァイパー7に追われるメビウス1という構図だった。それが瞬きの間に、メビウス1が反転して向きを変え、ヴァイパー7の目前に迫っていた。
一体、何がどうなった。
ヴァイパー7は、それでも最後まであがいて旋回しようとしていた。

結局、ヴァイパー7らは負けてしまったが、新兵たち――とりわけ戦闘機パイロットの新兵たちはヴァイパー7に憧れを持ったらしかった。メビウス1を追い詰めたヴァイパー7すげー、ってことだ。
「みんな訓練が始まる前は、あんなにメビウス1、メビウス1って言っていたのに、あっさりヴァイパー7に鞍替えするなんて、なんなんですかね!?」
食堂でオメガ1ら古参のパイロットに誘われて、一緒に夕食をとっていたとき、俺は抱えていたイライラを爆発させた。
みんなの心境が俺にはわからない。確かにヴァイパー7は頑張っていたが、俺の憧れはやはりメビウス1でしかありえない。今日の戦闘だって凄かった。みんな目にしたはずなのに。
「俺はわかる気がするかなぁ」
夕食のカレーのスプーンを咥えて、のんきに返すのはヴァイパー7と共にメビウス1に食らいついていたヘイロー2だ。
「どういうことですか?」
「だからぁ、メビウス1じゃどうやっても手が届かないって、みんな、わかったんじゃないか」
「そんなの、当たり前じゃないですか。英雄ですよ?」
俺が言い返すと、オメガ1が笑った。
「そりゃあ、お前は整備士だしな。パイロットのやつらとは立場が違う」
納得できない俺に、さらにオメガ1は付け加えた。
「凡人には天才を真似るなんて、できないからな」
「フン、俺は、凡人代表か」
ヴァイパー7が自嘲して笑い、投げたスプーンが皿の上でカラカラと音を立てた。彼はメビウス1に負けてからずっと機嫌が悪い。あまり刺激しない方がよさそうで、この話題を続けるのはやめにした。
しかし、俺の憧れはやはりメビウス1ただ一人だ。整備士の俺が、彼の強さを全て理解できたわけじゃないけれど、今日の戦いで彼の凄さを垣間見た。彼が敵に、あるいは味方にすら畏れられようと、俺だけは周囲に流されたりはしないと心に誓った。

* * *

「今日の訓練はどうだった?」
スカイアイの自室で、日課のように二人で過ごす。
ソファーに二人で並んで座り、何か飲みながら話をする。今日はコーヒーだが、紅茶だったり、酒だったりもする。
「一年のブランクがあったわりには動けたよ。やっぱり少し、鈍ってたけど……」
「あれで鈍ってたと言われたら、うちのエースたちも立つ瀬がない」
言葉の響きよりもずいぶん和やかに笑って、スカイアイは言った。
「それで、メビウス1。君のお願いって?」
メビウス1は、スカイアイの言葉でピシッと固まった。本当はずっと緊張していたのだ。スカイアイにしようと思っていたお願いは、メビウス1にとって、とてつもない覚悟がいった。本当は“勝ったら”なんて言う必要はどこにもない。ただ、宣言することで自分を追い込まないと、逃げ出してしまいそうだったからだ。
「メビウス1?」
スカイアイが固まったメビウス1を心配そうに覗き込む。
「あ、う、その……」
「うん?」
「ス、スカイアイ、あの……ね」
「うん」
メビウス1は両手を強く握りしめ、目を固く閉じた。
「俺……俺にスカイアイを、……好きにさせてほしい」
今度はスカイアイが固まる番だった。
「…………え?」
「い、嫌だったら断って。ただ、俺、スカイアイに触りたいんだ」
だんだん声が小さくなった。恥ずかしくて顔が上げられない。
「触るって――触るだけ?」
スカイアイの疑問にこくこくとうなずきを返す。
「ああ、なんだ、そういうことか……」
スカイアイの深いため息が聞こえた。やっぱり、嫌なんだろうか。
しょんぼりしていると、スカイアイの「いいよ」と言う優しい声が聞こえて顔を上げた。
「そんなことなら、いくらでも」
スカイアイは目を細めてメビウス1を見つめた。視線はそのままで、きっちり絞めたネクタイに指を差し込み、弛め、シュッと音を出してシャツから引き抜いた。
メビウス1は、一連の仕草から目を離せずにいた。
左手首にはめた腕時計を外し、テーブルの上に置く。重い音が耳に残る。ドクドクと、脈がうるさい。
スカイアイの長い指が、シャツのボタンをひとつひとつ外していく。現れる肌。首筋から鎖骨、なだらかに盛り上がった胸板。腹筋。
スカイアイがぎゅっと握りしめたままだったメビウス1の湿った右手を取り、自らのシャツの隙間に差し入れ、胸の上に誘導した。冷たい指先に触れる、あたたかい体。感じる脈は自分のものか、スカイアイのものか。
「君の好きにしていいよ。許可なんかいらない。もとより、君のものだ」
囁きに、頭がぼうっとする。スカイアイの、どこまでも高く澄んでいる秋の空のような瞳。青の深みに潜り込むように顔を近づけ、口づけをした。スカイアイがするように舌を口内に差し込むことにためらい、合わせるだけのキスになった。
いつも触れてみたいと思って見ていた首筋に顔を寄せた。彼の体臭と混ざった香水が強く香る。そのセクシャルな匂いに酔いながら、肌を優しくついばんだ。
唇から小刻みの震えが伝わる。何事かと顔を上げると、笑いをこらえるスカイアイがいた。
「くすぐったい」
顔を片手で覆い、クスクス笑う。さっきまで二人の間に満ちていた甘い雰囲気が消し飛んだ。
メビウス1は恋人の態度に、さすがに気分を害して口を尖らせ「笑うなんてひどい」とスカイアイをなじった。これでもメビウス1なりに一生懸命だった。
「すまん、すまん。笑って悪かった」
「もういい。……どうせ、下手だから」
「そう言うな。君が積極的で嬉しかったよ。下手ってことはそう悪いことでもない。これから上手くなる余地があるってことだろ?」
そして、上手くなる過程を一緒に体験するということでもある。楽しみじゃないか、と。スカイアイはメビウス1の手を取り、指先に口づけた。
青い瞳が妖しく輝く。
これから俺のいい場所を教えてあげるから――。
それは夢魔の誘惑に思えた。