探し物はなんですか

誰かに肩を揺すられている。
控えめなくらい、優しく。
ユラユラ揺れるゆりかごみたいで、逆に気持ちよくなってしまう。
「君……起きなさい。こんなところで寝ていたら風邪をひく」
春先の外気はまだひんやりと冷たいが、今日は日差しが暖かくて、うたた寝するにはちょうどいい。せっかく気持ちよく寝ていたのに。
「ん……。スカイ、ア……?」
無意識に口から出た音。
今、自分は何を言おうとしたのだろう。誰か、大切な人がいた気がするんだけど、意識が覚醒するにつれて誰かの面影はおぼろげになり、思い出そうとすればするほど、わからなくなっていった。まるで、夢のように。
目蓋を、うっすらと開ける。
黒い人影が目の前に被さって太陽を遮っていた。少し寒く感じて体をさする。俺がゆっくりと下草に手をついて起き上がると、人影は肩に置いた手を離した。間近で見た、その人の瞳に驚く。青い。まるで今日の晴れた空を映したかのように青い。なんて綺麗なんだろうと、吸い込まれるような心地で見つめた。
「どうかしたか?」
あまりにもじっと見つめてしまったようで、その人が首をかしげた。
「あ……」
「もうすぐ昼休みも終わる。早く教室に戻りなさい」
その人は屈めていた身を起こして、校舎の方へ歩きだした。背の高い後ろ姿をただ見送る。俺はまだ衝撃から立ち直れずにいた。

滑らかでよく通る低音から紡ぎ出される言葉。
静かな教室にその人の美しい声だけが響く。
俺にとっては至福の時間。
俺を起こした青い目の人は、臨時の英語教師だった。背が高くてカッコよくて優しいと女子には評判で、休み時間になれば人だかりが出来る。引っ込み思案な俺は、自分からあの人に接近するような勇気はなかった。楽しげな女子たちと話す先生を遠巻きに眺めながら、何故か胸が痛かった。
あの人が俺を一生徒として、他の生徒と変わらずに接する。当然のことなのに、俺は寂しくて寂しくて仕方がなかった。
この感情は何なんだろう。
俺の方を見てほしい。他の人を見ないでほしい。あなたが優しく笑いかけるのは、俺だけであってほしい……。
先生のことなんか何も知らないはずなのに、なぜかそんなことばかり考えてしまう。

昼休み、俺はいつもの場所に来ていた。中庭の林の中、そこだけあつらえたように、ぽっかりと空が見える。外からは木々に遮られてこちら側は見えない。誰にも邪魔されない、一人きりになれる、お気に入りの場所だった。
草の上に腰を下ろし、木々の合間から空を眺める。鳥たちが小枝にとまって忙しなく鳴いている。
その中に白と黒の翼――ツバメだ。春だから、きっと番で巣を作る場所を探しているんだろう。二匹で付かず離れず飛んでいく。
その光景に、何かがフラッシュバックする。
あんな風に誰かと飛んだ。
――誰と?
自分に問いかけてみる。
答えは「わからない」だ。
俺は飛べた。飛べたはずだ。
おかしな空想だった。ありえないのに、間違いはないと確信がある。俺は頭がおかしくなったのだろうか。あの青い目の人に出会ってから。

 

「またここで寝ているのか?」
急に声がして、目を開ける。いつの間に寝てしまったのだろうか。
「風邪を引くと言っただろう」
目の前に少し眉を寄せた先生が立っていて、驚いて凝視する。
「先生……」
「君は、……」
先生が何かを言おうと唇を開き、俺を見る。時間にしてほんの数秒間だろうけど、俺にはとても長い時間に感じ鼓動が早くなった。先生に聞こえないか心配になるほど。
先生が俺を見ている。俺だけを――あの青空に映している。幸福に頭がぼうっとする。
先生は息を吸い込み、何かを切り捨てるように吐き出し「いや、なんでもない」と首を振り、話題を変えた。
「それより、昼休みはいつもここに一人でいるのか?」
「……」
「お節介なことを言うようだが、君はもう少しクラスの子と話した方がいい」
俺がクラスの中に馴染めず、浮いた存在なのを先生にも知られていた。情けなさと恥ずかしさがこみ上げ、ぎゅっと両手を握った。
先生にとって俺は“独りぼっちで可哀想な子”でしかないのか……。
昼休みの終了を告げるチャイムが響き渡る。
「ああ……戻らなければな」
先生の靴が草を踏みしめる。顔を上げると、先生はもう後ろ姿で歩き出していた。
「あ……」
待って、と言いたかった。
その広い背中に向かって「いかないで」と言いたかった。なのに言葉が出てこない。口を開き声を出そうとするのに、張り付いたように舌が動かない。
クラスの人なんてどうでもいい。他人なんかいらないんだ。
あなたが。あなたさえいてくれたら満たされるのに。
背中はどんどん遠ざかる。辺りは日が陰ってうす暗くなる。影が伸びて、夕暮れになり、夜の闇。身体は凍える。闇のなか、うずくまった。
何もない背中を丸める。
この背中には、翼がない。だからあの人には届かないんだ、きっと。
翼は――どこへいってしまったんだろう?

俺の、銀色の翼は。

 

俺を揺さぶる手。

起きなさい、と優しい声がする。聞き覚えがある、その声。先生の。
はっと目を開けると、目の前に青い空。いや、青い空のような瞳。
「――スカイアイ」
そう、それがこの人を示す名前だ。全て、思い出した。
「大丈夫か?うなされてた」
頬をぬぐう指で、俺は泣いていたことを知った。
柔らかいオレンジのサイドランプの光がスカイアイの顔を照らす。二つの青い瞳が俺を映してる。
ああ、よかった。あれは夢だ。夢だったんだ。
なんて、恐ろしい夢。翼も、大切な人も取り上げられた。そんな世界に生きている意味なんてない。
「……変な夢を見たんだ」
「どんな夢?」
スカイアイに不思議な夢の一部始終を話した。俺は空も飛ばずに高校生をやっていて、スカイアイは教師だった。
「ユリシーズが落ちず、平和な世界線があれば、そういう出会いもあったかもしれないな」
スカイアイは、並行世界かもしれない、などと言う。でも、悲しかった。スカイアイは飛びもしない俺には、まるで興味がないみたいだった。現実のスカイアイには全く関係ないのに、つい恨みがましく言ってしまう。
「それは、どうだろうな」
スカイアイは俺をふわふわの毛布に包んだ。
「君の夢の中とはいえ、仮にも俺なら、君に興味がない、なんてことはないはずだ」
「でも……」
「昼休みに君がいたところは、外側からは見えなかったんだろう。なら夢の中の俺は、君がそこにいることをどうやって知った?」
「あ、そういえば……?」
「そういうことだ。今度、夢の中の俺に会ったら言ってやれ。……興味のないふりはもっと上手くやれ、と」