観覧車

「スカイアイ……本当に乗るの?」
「ああ、いけないか?」
「い、いけなくはないけど……」
メビウス1が見上げたそこには夜空にきらめく巨大な電飾の輪。

ここは湾岸にある水族館。今からメビウス1たちが乗ろうとしているのは、その横に併設された観覧車だ。昼間なら家族連れも多いだろうが夜に観覧車に乗ろうとするのはカップルがほとんどだった。自分達もカップルには違いないが、周りからはいったいどんな風に見えるのか。別に男二人で観覧車に乗ったところで誰も気にしないと思う。ビクビクしている自分が変で自意識過剰なだけ。スカイアイの様に堂々としていればいいのだと理性では考える。
だけど、やっぱり恥ずかしい。
メビウス1は先を行くスカイアイの背中に半ば隠れるようにしながら観覧車に乗った。乗ってしまえば二人だけの空間だ。メビウス1はほっとして、ようやく肩の力を抜くことができた。
ゆっくりとゴンドラは高度を上げる。

休日、スカイアイからの誘いで水族館を訪れた。水族館に来るのは子供の頃以来だったメビウス1は童心に返ってとても楽しんだ。十分に堪能した後、帰る前にスカイアイが観覧車を見て「ついでに乗っていこう」と提案したのだった。
観覧車に乗る――なんてデートの定番中の定番のようなイメージがあって、それを自分がするということに恥ずかしさを感じる。スカイアイは慣れているのかもしれないが自分にとっては初めての経験である。しかし人生の内で一度くらいは体験してみたかったのも事実だった。
二人きりの空間で、周りの音も聞こえなくて静かで。
向かい合って座ったスカイアイを見るとちょうど目が合って、にこりと微笑まれた。どぎまぎして目を反らす。
「ほら、メビウス1、もうあんなに人が小さいよ」
スカイアイに言われて外を覗くと、ゴンドラはかなりの高さにまで上っていた。
湾岸にある観覧車だから、右手は海で真っ暗だ。左手には小さくなったビルの灯りや湾にかかった大きな橋がきらめいていた。
美しい。それなのに、ぞわぞわとしたものが足元から這い上がり、全ての毛が逆立つ感覚がした。
(なに、これ……?)
目眩を感じて思わず手近にあった手すりを掴んだ。身体が小さく震え出す。
「メビウス1、どうした?」
メビウス1の異変を目敏く見抜いたスカイアイが声をかけた。
「わ、わからない……なんか……」
「まさか……怖いのか?」
スカイアイが信じられないものを見たように目を見開く。
初めはよくわからない怖じ気だった。地面が抜けるような感覚。すっと血の気が引く。目眩。これは、そう、高いところで感じる恐怖だ。
「君はいつもこれよりずっと高いところを飛んでいるじゃないか」
スカイアイが言うのも最もで、メビウス1はいつも戦闘機でもっとずっと高い高度を平気で飛んでいた。
だけど違う。
これは――。
こんなに“低く”飛ぶことはなかった。
戦闘機でここまで低い、地面に近い景色を見ることは離着陸のとき以外にはない。それこそ、墜落寸前くらいしか。
(……そうか。墜落しそうな感じがして……だから怖いのか)
実際に墜落したことはない。していたらメビウス1はここにはいない。だけど知っている。かつて悪夢にうなされていた時、墜落する夢は嫌というほど見たから。
メビウス1は自身の覚えた恐怖に得心した。得心したからといって、恐怖心は消えて無くなりはしなかったが。
「メビウス1、大丈夫か?」
「う、うん……あの……そっち行っていい?」
「ああ、おいで」
スカイアイが腕を広げる。一人で耐えられなかったメビウス1はスカイアイに助けを求めて立ち上がった。対面に座るスカイアイの方へメビウス1が移動すると、ゴンドラがぐらりと傾いた。
「わ……!」
「あぶない!」
重心が片側に寄ってしまったせいでゴンドラが傾き、それによってメビウス1はバランスを崩してスカイアイの胸へとダイブした。
スカイアイはメビウス1をしっかりと受け止めたが、ゴンドラはしばらくぐらぐらと揺れた。それも更にメビウス1の恐怖心を煽った。
このゴンドラとかいう頼りない乗り物。風が吹いただけでも揺れ、閉じ込められて自分の意思ではどうすることもできない。メビウス1は戦闘機を自分の手足、身体と同じ様に操れた。だから戦闘機に乗ると自分がとても強くなったように感じられて好きだった。どこまでも自由で、最強の自分。でも、ひとたび戦闘機から降りれば、ただの頼りない弱い自分。殻を剥かれたゆで卵みたいな剥き出しの、何の取り柄もない自分だ。
メビウス1はスカイアイの胸にすっぽりと顔を埋めて、ぎゅっとしがみついた。カタカタと震えが止まらない。
「大丈夫だ……メビウス1。大丈夫」
そうやってスカイアイは声をかけながらゆっくりと背中を撫でる。
言い聞かせるように、何度も、何度も。
すると、メビウス1の心拍数も次第に同調してゆっくりになっていく。
――不思議だ。スカイアイの腕の中は。
何も怖いものなんかないみたいに。全ての恐怖から守られているみたいに感じる。
いつもそうだった。あの戦争当時も。
つい握りこんでしまっていたスカイアイのシャツ。シワになるのに気がついて、ゆっくりと指の力をゆるめる。
震えが徐々に治まってきて、そろりと顔を上げた。さっきまで聞いていた優しい声と同じに、優しい瞳がメビウス1を見つめていた。包み込むみたいな青い瞳。それが、こんな弱い自分でもいいんだよと言ってくれている気がして――。
「スカイアイ……」
吸い寄せられるように顔を近づけた。スカイアイも顔を近づけたのを見てメビウス1はゆっくりと目を閉じる。
優しく重なる唇。
「ん……」
次第に深くなる。
温かくて柔らかい。
もはやここがどこかも、さっきまであった恐怖も忘れた。

そっと遠ざかる唇にメビウス1は思わず不満を漏らしそうになった。スカイアイが「そろそろ終わりだな」と外を見て独り言のように呟くのを聞いて、観覧車が地上に戻りつつあるのを知った。
全然気づかなかった。
それほどスカイアイとの口づけに夢中だった自分に恥ずかしくなる。
まだどこかふわふわと夢心地で、観覧車から降りるときも足元が覚束ず、スカイアイに手を引かれる始末だった。スカイアイはその手をいつまでも離そうとしない。メビウス1も「暗いから、まぁいいか」と、そのままにした。
観覧車に乗ることはもしかしたらもうないかもしれないが、存外悪い経験ではなかったなと、メビウス1は今日の思い出を胸に刻んだ。