虹の向こうに

メビウス1は鼻先に湿った風を感じた。おそらく数分もすれば雨が降ってくるはずだ。
折り畳みの傘は持っていたが、はじめから喫茶店に寄るつもりだったから丁度よかった。雨宿りついでにメビウス1は喫茶店の木の扉を開いた。カランと古風なドアベルが鳴る。
店内には静かなジャズが流れていた。窓際の奥まった席に座る。
この店はうるさくなくて、一人でいても誰もこちらを気にしない。居心地が良くて気に入りの店だった。元はスカイアイが通っていた店で、何度か一緒に訪れたことがある。
初めてここに来た時にチーズケーキが美味しいのだと彼が教えてくれた。食べてみれば、濃厚で、チーズの味がしっかりと舌に感じられて、確かに美味かった。その時はまだスカイアイとはただの友人関係だった。スカイアイに対して好意はあっても、それが何を含んでいるのかまでは気づいていなかった。その時から考えればずいぶん遠くへ来たような気がするし、今が奇跡のようにも感じる。
窓を見ると、わずかに水滴がついていた。どうやら降りだしてきたらしい。
鈍色に包まれた午後の街は、どこか気だるい気配をまとっている。
注文したコーヒーが運ばれ、メビウス1はボディバッグから文庫本を取り出した。読みかけの推理小説だ。今日はこれを喫茶店で読もうと思って持ってきた。
メビウス1は読書を趣味としたことがない。本は読んだ方がいいと聞くけれど、とにかく時間がなかった。戦闘機パイロットになるためには覚えなければならないことが山積みで、とても趣味に時間を割く暇がなかったのだ。
色々な意味で余裕ができたのは、戦争が終わってスカイアイの家に居着くようになってからだった。
この本も実はスカイアイの蔵書のひとつだ。彼の家には、大きな本棚にたくさんの本が並んでいる部屋があった。いわゆる書斎というのだろうか。物珍しげに眺めていると、スカイアイが「ここにある本は自由に読んでいいよ」と言ってくれた。スカイアイは本を読むのが好きなようで本棚に並ぶ本も、推理小説からSF、歴史ものやノンフィクション、旅行記など、様々なジャンルがあった。
「気になったら買ってしまうんだよ。ただ、読む時間があまり取れていなくて……買っても結局、読んでいない本もあるな」と、苦笑を浮かべたスカイアイの顔を覚えている。
あまり難しい本はわからないから、この推理小説を本棚から選んだ。疎い自分でも聞き覚えのある有名タイトルだった。特別推理小説を好んでいるわけではなかったけれど、スカイアイが好んで読んだ本だったら読んでみたい。そして、読み終わったら感想を語り合えたらいいと思う。
メビウス1は、その時を想像しながら文庫本を開いた。

明るい光が文字を照らした。
窓の外に目をやると、雲の切れ間から太陽の光が注いでいた。雨が止んだらしい。
メビウス1はひとつ息を吐いた。そうすると、物語の余韻が現実の世界に溶けて混じっていく気がした。
本を閉じ、店を出た。
湿った風に雨の匂い。メビウス1は雨上がりの景色が好きだった。
アスファルトは黒く濡れ、所々に水溜まりができている。街路樹からは雫が思い出したように落ちて、下を歩く人々を驚かせる。ビルの間から見える空は、まだ黒い雲がまだらにあり、隙間からはみずみずしい青空が覗いていた。
歩いているうちに、辺りはどんどん明るくなっていった。
大きな歩道橋を渡ろうとした時だった。キラキラと天から差し込む光で空に虹がかかった。世界の端と端をつなぐような大きな虹だった。七色がハッキリと現れ、輝いていた。
あの虹の根元には何があるのだろう?――思わず、そんな想像を掻き立てる。
メビウス1は鞄からスマホを取り出した。この美しい虹を写真に撮りたかった。そしてあの人に、こんなに美しい虹が見えたよと教えたい。そんな気持ちになったのは初めてだった。今まで些細な何かに感動することもなかったし、たとえ感動したとしても、それを共有できる相手もいなかった。今にして思えば、なんて空虚だったのだろう。
メビウス1は慣れないスマホのカメラ機能を、ああでもない、こうでもないと、いじくった。少しでもこのパノラマの景色を美しく撮りたかったからだ。しかし何故だろう。スマホの画面になると、視界一杯に広がる美しさと迫力の三分の一も伝えられていない気がする。
そうやって格闘すること数分。ほどほどの出来で妥協した画像をスカイアイに送ろうとスマホの画面を見ていた時だった。
メールの通知が入る。
まさかのスカイアイからだった。メールを開くと、そこには「綺麗だったから」という素っ気ないくらいに短い本文と、添付された虹の写真。
「あ……!」
メビウス1は食い入るようにその虹の写真を見た。おそらく仕事中に基地から撮ったのだろう。広々とした滑走路の先、遠くの街の上空に大きな虹が写っていた。
スカイアイのいる場所からも虹が見えたのだ。
「先を越されちゃったな……」
それが少し悔しい。けれども、笑ってメビウス1は自分の撮った虹の画像をスカイアイに送った。
(同じものを見ていたね)
そんな気持ちをこめて。