幸福のヤマイ

メビウス1が自身の体調に異変を感じたのは、森林公園を三周したあたりだった。

スカイアイの家の近くの森林公園。
真ん中には大きな池があり、外周は市民がランニングできるように舗装されている。周囲には木々が繁り、走っていて気持ちがいい。
メビウス1はいつもそこで日課のランニングをしていた。軍を辞めた自分にはもう体力維持など必要ないのかもしれないが、身体を動かすのはもはや癖のようなものだった。
再び戦闘機に乗る機会が、もしもあったら。
そういう気持ちが全然なかったとは言えない。未練がましいが。
そうして外周を三周したあたりでメビウス1は妙に身体がだるいことに気づいた。普段の三周した時の疲れ方とはまったく違っていた。
身体が熱い。
息が苦しく、何度も息を吸う。
(おかしいな……どうしたんだろう)
自分の身体の異変をはっきりと自覚したメビウス1は、ランニングを途中で切り上げてスカイアイの家に帰ることにした。
家までは徒歩で数分の距離だ。走って帰る日もあるのに、今日はとてもそんな気にはなれなかった。とぼとぼと歩く。その間にもどんどん足は重くなり、頭が痛くなってきた。
(もしかして、風邪か?)
こんな状態になってもまだメビウス1は自分の身体症状が信じられなかった。過去、メビウス1は風邪をほとんど引いたことがなかったからだ。子供の頃は引いたこともあったが、成長してからはほぼなかった。自分は風邪なんか引かないのだと思い込んでいた。
そういえばスカイアイに朝の挨拶でハグされた時に「身体が熱くないか」と言われたのを思い出した。その時はなんとも思わなかったが、今にしてみれば、あれは兆候だったのか。
家に帰る道すがら、メビウス1はスカイアイにどう言えばいいのか――別に悪いことをしたわけでもないのに言い訳を考えていた。

フラフラしながらなんとか家に戻ると、スカイアイはリビングでコーヒーを飲んでいたところだった。
「お帰りメビウス1。どうした? 今日は早かったんだな」
「あ、うん……あの……シャワー浴びてくる」
結局、上手い言い方が見つからなかったメビウス1は深く突っ込まれる前にそそくさとスカイアイの前から姿を消した。
バスルームに入る。
汗で張り付いたシャツを脱ぎ、裸になって熱いシャワーを頭から浴びた。汗が冷えてくると、寒気がしてきたからだ。
しかし、メビウス1が覚えていたのはそこまでだった。
次に気づいたとき、メビウス1の目の前にあったのはスカイアイの少し焦ったような心配した顔だった。
「大丈夫か? 大きな音がしたから様子を見に来たら、君が床に倒れていたから驚いたよ」
メビウス1はスカイアイの腕の中に裸で抱きかかえられていた。バスルームのライトが目にまぶしい。
「身体が熱いな。風邪か?」
「ごめん……そうみたい」
メビウス1がそう言うと、スカイアイは慌ててバスタオルを持ってきてメビウス1の身体の水滴を拭きとり、バスタオルで包んだまま抱き上げた。そのまま寝室に移動して、ベッドにメビウス1を寝かせた。
下着とパジャマを持ってきてメビウス1に着させようとする。
「ス、スカイアイ、自分で着る……から」
裸を見られるのはまだしも、幼子のように下着を足に通されるのはさすがに恥ずかしかった。しかしスカイアイは「早くしないと身体が冷えるだろう」と、熱でふらついているメビウス1の抵抗などあっさりと無視して素早く着替えさせた。
スカイアイはメビウス1を布団の中に押し込んで頭だけ出した状態にし、濡れた髪をドライヤーで乾かし始めた。背中には沢山のクッションをしいてくれている。身を起こしていてもかなり楽だった。
「こんな状態なのに、なぜシャワーなんか浴びたんだ」
スカイアイに少しきつめの口調で叱られた。
「そういえば朝から少し体温が高かったな。もしかして、ずっと体調が悪かったのか?」
「ええっと……」
「体調が悪いなら、ランニングはやめておけばよかっただろ」
矢継ぎ早に言われる。
確かに少しだるかったかもしれないが、朝の時点では体調が悪い自覚がなかった。だいたい自分が風邪を引くなんて思いもよらなくて、思考から抜け落ちていたのだ――と、頭の中に言いたいことが渦巻く。言ってしまえばよかったのだが、スカイアイにぐうの音も出ないほど正論で詰め寄られると何もかもが言い逃れのように思える。そして、言いたいことが長文になればなるほど面倒になってしまうのがメビウス1の悪い癖だった。
黙り込んだメビウス1をどう思ったのか、スカイアイは深いため息を吐いた。
こんなバカな自分に対する呆れだろうか。それとも迷惑をかけてしまった怒りだろうか。
何も言わない自分に対する諦念だろうか。
それら全てのような気もして、メビウス1は胸が痛かった。
スカイアイは髪を乾かしていたドライヤーを止めた。
うつ向いていたメビウス1の頭を両手で支えて向かい合わせ、乾かしてボサボサになった前髪をかきあげた。コツンと額と額が合わさる。
真っ正面、ゼロ距離から見つめてくる青い瞳にドキドキしてしまう。これはもう条件反射のようなものだ。メビウス1の心臓はスカイアイによって傷ついたりときめいたりと、まったく忙しない。二人で暮らす生活には慣れてきても、こういった接触にはまだ慣れない。ずっと慣れないんじゃないかと思う。
「かなり熱いな……」
メビウス1には、スカイアイの額は生ぬるく感じた。
「この家には体温計がないんだ。正確な体温がわからないから後で買ってこよう。……メビウス1、食べたいものがあるか?」
先ほど矢継ぎ早に責められた時とはうってかわって――というよりは普段通りに優しい言い方に戻ったスカイアイが尋ねた。
「食べたいもの……?」
さっきから頭がボーッとしてどうも働かない。思考力が落ちている。戦闘機に乗って酸欠になった時みたいに。
「ああ、何か食べられるか? 何でもいい、言ってごらん」
「えっと……」
スカイアイはメビウス1をベッドに横たえさせながら答えを辛抱強く待ってくれていた。
「……お粥」
「『おかゆ』、とは?」
「お米を……どろどろに炊いたもの」
「ふむ」
メビウス1は言ってしまってから後悔した。スカイアイは「お粥」を知らない。きっと食べたこともない。だからスカイアイに用意させるのは難しいんじゃないかと後から気づいた。しかし、スカイアイは「わかった、待っていろ」と言ってメビウス1の髪を撫でると、さっさと買い出しにいってしまった。訂正する暇もなかった。

 

熱くて熱くて寝苦しかった。
布団を蹴飛ばして上半身を出した。すると寝苦しさが多少はマシになる。
ひんやりと冷たい何かが額に乗せられた。
「んん……?」
「起きたか」
オレンジのランプがひとつ灯った薄暗い寝室。
カーテンが閉まっているから今が何時なのか、どれだけ寝ていたのかわからない。
買い出しから帰ってきたらしいスカイアイが、水に濡らしたタオルで顔を拭いてくれた。冷たいタオルが熱を持った肌に心地よかった。
「ずいぶん汗をかいているようだから、一度着替えた方がいいな」
そう言ってメビウス1の汗で湿ったパジャマを脱がし始めた。熱いのに、外気に晒された身体は寒気を感じて震え出す。
濡れタオルで首筋から脇の下、胸や脇腹など、丁寧に拭かれる。それが下半身にまで及んだときは、さすがに恥ずかしくなってメビウス1は声をかけた。
「あの……スカイアイ、いいよ、そんな……。風邪なんて寝てれば治るから」
本当にそうだった。
これまで体調が悪いと感じた時はひたすら寝て、たいてい次の日には回復していた。もしかしたらあれが風邪というものだったのかもしれない。しかし家事や勉強など、やるべきことは沢山あった。しんどいからと休んではいられなかった。病は気からという言葉もある。風邪じゃないと思えば風邪なんか引かないのだ。体調を悪くしたところで誰かが看病してくれるわけでもない。自分を見返りなく心配して面倒を見てくれた両親は、すでにいないのだから。
メビウス1はたった独りの日々をそうやって乗り越えてきた。だからこんなに甲斐甲斐しくされると、逆に戸惑ってしまう。
「メビウス1……」
スカイアイがまたため息を吐いた。
変なことを言ってスカイアイを怒らせてしまったのだろうかとメビウス1は怯えた。だがしかし、次にスカイアイが告げたのは予想もしない言葉だった。
「俺には君を心配することも許されないのか」
「え……」
「一緒に暮らしている大切なパートナーが、具合が悪そうにしているのにそれを放っておくなんて俺には無理だ。今は休暇中で時間もたっぷりある。君だけを見ていたいし、遠慮なく俺に甘えて欲しいよ。……そう思うのは俺のわがままか?」
スカイアイはメビウス1の片手を取り、手の甲に優しく口づけた。
ドキドキと胸が早鐘を打つ。クラクラとした目眩がメビウス1を襲った。熱が数度上がったような気さえする。
スカイアイはなぜこんなセリフを照れもなくストレートに言えるのだろう。与えることに躊躇がない。その真っ直ぐさにおののいてしまう。
「スカイアイ……」
「風邪を引いたのも慣れない生活に疲れが出たせいじゃないか? 君は気をつかいすぎだ」
「う、……うん……」
身体を拭き終わったスカイアイはメビウス1に新しく出してきた清潔なパジャマを着させた。ベッドに寝るように促され横になる。スカイアイは布団の胸の上のあたりをポンポンと軽く叩いた。
「心配するあまり、口うるさく言ってしまってすまないな。君のこととなると、つい余裕がなくなる」
スカイアイは自嘲したように笑った。
違うのに。スカイアイは何も悪くないのに。
「あ……」
メビウス1の開きかけた口の中に体温計が滑り込んできた。
「いい子にしてるんだよ。すぐに『おかゆ』を持ってくるからな」
スカイアイはメビウス1の額に軽くキスをすると、寝室を出ていった。
スカイアイに謝らせてしまったことを体温計を咥えながら苦々しく思う。
自分が口下手なのが全ての元凶のような気がする。スカイアイの愛情はいつも感じているし、疑ったことはない。スカイアイは甘えて欲しいと言ったが、もう十分彼には甘えていると思う。お粥を頼んだことがそうだ。本当は食欲なんてないのだから、口に入るものならなんだってよかった。お粥ととっさに言ってしまったのは、昔、子供の頃に風邪を引いた時、母に作ってもらった記憶がかすかに残っていたからだ。こんなにも心配してもらえるのがあの時以来で。
だから――。
口に咥えた体温計が電子音を鳴らした。
ほぼ同時にスカイアイが戻ってきて、ベッドの横にあるサイドテーブルの上にお粥の乗ったトレーを置いた。
口に咥えた体温計を抜き取って確認する。
「……三十八度八分か。やっぱり高いな」
そんなにあったのか。認識すると余計にしんどさが増した気がする。
「食べられるかな」
スカイアイは身体を起こしたメビウス1の背中に再び沢山のクッションを詰めた。そしてトレーを膝の上辺りに置く。
トレーの上には深めのスープ皿があり、中にはお粥が入っていた。スープ皿にお粥は、なんだかミスマッチでおかしい。多分これしか容器がなかったのだろう。お粥はいい具合にトロトロで、上には溶き卵がかかっていた。
「どうだろうメビウス1。『おかゆ』とはこんな感じでよかったのか? 何しろ初めて作ったからこれで合っているのかわからなくて……」
「え……スカイアイが、作ったの……?」
「ああ」
メビウス1は驚いた。レトルトか何かを買ってきたのだと思っていた。スカイアイは料理をしない主義だと聞いていたからだ。だから二人で暮らすことになった時、メビウス1が料理を担当した経緯がある。
その疑問をぶつけると、スカイアイははにかんで笑った。
「これまで料理をしなかったのは、ひとり分の材料を買ったり作ったりするのに、あらゆる面で効率が悪いと考えていたからだよ。俺は基本ずっと基地にいるし、料理が必要な場面がなかったんだ」
スカイアイはお粥をスプーンに一匙すくう。ふーふーと息を吹きかけて湯気の立ったお粥を冷ました。
「はい、食べてみて」
口元にスプーンを差し出される。食欲はなかったが、スカイアイが作ってくれたのだと思うと自然と口が開いた。
舌の上に出汁の味が広がる。少しの塩気とまろやかな卵。お米の自然な甘み。トロトロと喉の奥を流れていく。身体が内側から温められる。
スカイアイが初めて作ったお粥は、かすかな記憶にある母のものとは違うけれど、優しい味がした。
「おいしい……」
そう呟くと、スカイアイはあからさまにホッとした表情を浮かべた。
「そうか、よかった……。ネットで調べてレシピ通りに作ったけど、『おかゆ』というものを食べたことがないから本当にこれで合っているのか不安だったんだ」
スカイアイがまたスプーンでお粥をすくって差し出す。
「あ、あの、自分で……」
「ん……?」
スカイアイの青い瞳に見つめられて、メビウス1は「自分で食べる」という言葉を引っ込めた。
さっき言われたばかりだった。
甘えて欲しいと。
だから、ここはきっと甘えていい場面なんだ。そう自分に言い聞かせた。そして多分、それは合っていた。
スカイアイはニコニコしながらスプーンを運ぶ。
だるくて食欲はないけれど、彼がそうしてくれると不思議と食べられるのだった。
雛鳥のようにお粥を口に運ばれ、咀嚼を続けていると、スカイアイがくすぐったそうに笑った。
「誰かが自分の作ったものを食べてくれるというのは、いいものだな。色々、初めてのことで大変だったけど、君の為になら料理をするのも悪くないと思ったよ」
スカイアイがもし料理を覚えたら、きっと自分の出る幕はなくなってしまうだろう。初めてでこんなに上手に作れてしまうのだから。
少し複雑な気分だった。
けれど、スカイアイの気持ちはわかる。メビウス1がスカイアイに料理を作っていて、いつも感じる気持ちだったからだ。
大切な人が「おいしいよ」と言ってくれるだけで全てが報われて幸せな気持ちになれる。スカイアイも今、そんな気持ちになっているのだろうか。
メビウス1はお粥を全て平らげた。スカイアイが空になった皿を下げている間に解熱剤を飲み、ひどく満たされた気持ちで眠りについた。

 

次の日の朝、メビウス1はすっきりと目覚めた。
解熱剤が効いて熱が下がったのかもしれない。まるで生まれたての朝のように身体が軽かった。
隣にはスカイアイが寝ている。まだ起きるには早い時間だから眠りは深いみたいだった。
スカイアイの懐に潜り込む。眠っているはずなのに、スカイアイはメビウス1の身体を引き寄せるように背中に腕を回してきた。
無意識に存在を受け入れられている。それが嬉しくてたまらない。
スカイアイの腕の中は、世界一温かくて安心できる場所だ。他人の体温がこんなに気持ちよくて安心できるものだと、スカイアイと共に寝るようになって初めて知った。
寝顔を見ようと思ったが、抱きしめられたままでは彼の顎しか見えない。
仕方なく、少し首を伸ばしてスカイアイの顎にキスをする。彼が眠っている今しかこんなことはできない。少し伸びた顎髭のチクチクとした感触が唇に伝わってきた。
その瞬間、ぎゅっと強く身体を抱きしめられた。
もしかして気づかれたかと心臓が止まる程びっくりした。
「ん……」
少しかすれた、悩ましげなため息をついてスカイアイが身じろいだ。
スカイアイは腕の中にいるメビウス1に気づくと、メビウス1の前髪をかきあげて自らの額を合わせた。
目をつぶったまま、じっと体温を計る。
「……熱、下がったな」
まだ眠いのか、今にも下がりそうなまぶたでこちらを見つめる。かすかに微笑まれて、メビウス1の心臓は朝から暴走気味だ。
「もう少し……寝ていてもいいか」
「う、うん」
スカイアイはそれだけ言ってメビウス1を抱え込み、再び寝る体制に入った。
メビウス1は、とりあえずさっきのアレが気付かれていないようでホッとした。彼に付き合って自分ももう一度寝ようと思い、目をつぶる。
こうして二人で惰眠を貪るのは、なんと贅沢で幸福な時間なのだろう。
誰にも、何にも邪魔されることのない、二人だけの――。
「メビウス1……キスをするなら唇に」
眠そうなハスキーボイスがぼそりと呟いた。