大切な人

仕事が終わり、自室に戻ったスカイアイはネクタイを外した。すると、朝からの張りつめていた糸が弛んだように肺からため息が漏れ出る。
デスクにあるパソコンの電源を入れた。立ち上がるまでの時間に湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
やがてパソコンの画面に映し出される光点。
コーヒーを飲みながらリボンのような軌跡を描いているそれを見ると、心が癒された。

就寝までのわずかな自由時間。自室のパソコンにメビウス1の戦闘データ――飛行記録を持ち帰り、研究をするのがここ最近の日課だった。
最近のというのは、メビウス1と出会ったのが数ヵ月前の出来事だからだ。スカイアイの日常を変えるほどの出会いだったにもかかわらず、思い返せばメビウス1との出会いはドラマチックさも何もなかった。日々の出会いと別れ、その中のひとつに過ぎなかったそれ。なのに、今でも細部まで忘れずにはっきりと覚えている。
今やメビウス1はスカイアイの中で欠かすことのできないパーツのひとつだった。
戦闘で死んでほしくない。もっと彼をサポートしたいとの想いがつのって、彼の戦闘データを持ち帰り、個人的に研究しだしたのが、この趣味の始まりだった。
パソコンの画面に映し出されるメビウス1の軌跡。敵機とメビウス1の機体がくるくると円を描き、離れてはまた絡まり。まるでダンスでも踊っているようだ。
彼の飛び方は効率重視で無駄がなく、だからこそ洗練された美しさがある。
メビウス1がいつも何を考えて飛んでいるのか知りたかった。彼の全てが、知りたかった。

コンコンと二回、控えめに扉を叩く音がした。
パソコンの画面もそのままに、デスクから立ち上がって部屋の扉を開けに行った。ノックの仕方で誰かは見なくてもわかっている。
扉を開くと頭に思い描いていた姿があった。
「あ……」
彼は扉を開いた時、いつも驚いた顔をする。暗い廊下に慣れた目を眩しさに細めて、それでも限界まで見開くみたいに。
スカイアイを訪ねて来ていて、スカイアイがいるのもわかっているくせに、毎度扉が開かれることに驚くのだ。自分なんかにその扉を開いていいのかと問いかけるようだった。
「やぁ。いらっしゃい」
メビウス1を怯えさせないように精一杯にこやかな笑顔を浮かべて彼を部屋に招き入れた。
もちろん歓迎だ。
本当は、ずっと待っていた。
メビウス1の飛行データを見ながら、今日は彼が訪れるのではないかと期待していた。願っていた通りに彼が来てくれて嬉しい。しかし、彼の顔は不健康そうに青ざめて目の下にはくっきりとくまがある。それを改めて発見すると、嬉しい気持ちもしぼんでいった。
メビウス1は眠れなくて部屋を訪ねて来る。そんな苦しい彼の状況を知っていながら自分は彼の訪れを待ち望んでいて、そして実際に彼が来れば、会えて嬉しいと沸き上がる気持ちをどうしようもできなかった。そんな自分が最低に思えて自己嫌悪に陥る。
「何か飲むかい?」
「あ……うん。ありがとう」
ポットで再び湯を沸かす。
メビウス1は自分から何が飲みたいとか、具体的な望みを言わない。だからいつも適当に見繕う。コーヒーもいいが今日は少し寒いからブランデー入りの紅茶にするか。スカイアイ自身はコーヒーが好きで紅茶はあまり飲まない。だから紅茶の茶葉を用意しているのは完全にメビウス1だけのためだった。彼が気にするから絶対に打ち明けたりはしないが。
紅茶を用意している間、メビウス1は所在無げに辺りを見回していた。立ち上げたままのパソコンのモニターに目を止める。
「あ、もしかして仕事中だった? 邪魔してごめん」
「いいや、仕事ではないよ」
「でもこれって、この間の戦闘データでしょう」
メビウス1はモニターを覗き込んだ。そこには相変わらず、くるくると円を描くリボンの様な光の筋が浮かんでいる。メビウス1はそれが自分の飛行データだと気づいたらしい。
「ああ、そうだよ。仕事ではなく、個人的に研究したくてデータを持ち帰っているんだ」
最近は研究と称してただの鑑賞会になっている気がするが。
「……スカイアイは、すごいね」
「え?」
「だってプライベートでまで戦闘の研究をしているなんて、すごいよ。さすがだな……」
感心したようなメビウス1のため息が聞こえた。彼は心からそう思っているようだった。
――ひどく居心地が悪い。
誤解が生じている。
「それは違うんだ」と言いたかった。
別に、皆のためにとか、軍のためにしていたわけじゃない。完全に自分のため、強いて言えばメビウス1のためだ。しかし、ここで「いや、俺は君の飛び方を研究するのが趣味なんだ」などと言ったら、気持ち悪い奴だと引かれるのではないか? その裏に、彼を慕う気持ちを隠しているから余計に言えない。彼の勘違いを訂正できなかった。
「そ、そんなことはないよ」
そう言うのが精一杯だ。
こちらを見る尊敬の眼差しが胸に刺さる。
「今日も眠れなかったのかい?」
スカイアイは話題を変えた。
「う、うん……一度は寝たんだけど」
「けど?」
「怖い夢を見て……」
メビウス1は言いづらそうに打ち明けた。怖い夢で飛び起きて、眠れなくなった自分を子供っぽいと恥じているらしい。
「どんな夢? ……ああ、言いにくければ言わなくてもいいんだが。怖い夢は人に話すとよいと聞くし」
尋ねてからすぐに言い訳じみた言葉を連ねる。
また悪い癖が出た。
彼のことなら何でも知りたがる癖が。
すると、メビウス1からとんでもない発言が飛び出す。
「あの、あな――いや……た、大切な人が、死ぬ夢を……」
(大切な人――!?)
誰だそれは、俺の知っている奴かとメビウス1の肩を揺らす勢いで尋ねそうになった。まさか恋愛ごとに疎いメビウス1に「大切な人」がいるなんて全くの想定外……いや、「大切な人」が何も恋愛的な意味とは限らない。家族かもしれない。だが彼の家族は皆もう天国に旅立っているはずだ。だから「大切な人」イコール「家族」という線はない――そこまで考えてスカイアイは絶望的な気分になった。
「大切な人」が恋愛的な意味であってもなくても、メビウス1に大切に思われている人間がいるということがショックだった。
湯が沸いた音がして、紅茶を淹れるためにスカイアイはメビウス1に背を向けた。彼の爆弾発言から数秒の間に脳内では様々な葛藤が怒涛のように起こり、内心の動揺を隠したかったからだ。
「そうか、『大切な人』が……ね。それは大変だったな。だけど大丈夫だよ、夢なんだから。君の『大切な人』は今も生きているんだろう?」
なんてそらぞらしい慰めだろう。「大切な人」と口に出す度に、小さなトゲがチクチクと胸を刺してくる。
スカイアイは苦々しく思いながらティーバッグを入れたカップに湯を注いだ。
メビウス1は無言で、何の返事もかえってこない。様子がおかしいと気づいたスカイアイが振り返ろうとすると、背中に温かい何かが触れた。
脇腹の辺りのシャツのたわみをきゅっと掴み、誰かが背中に、ごく近くに寄り添っていた。いや、誰かなどと考えるまでもなかった。この部屋にはスカイアイ以外にはメビウス1、彼しかいないのだから。
だが、メビウス1が自分から身体をくっつけて来るなんて今までになかったことで、にわかには信じられなかった。挨拶でハグをするのさえ恥ずかしがって許してくれなかったメビウス1が。
――いったい何が起こった?
スカイアイは手にポットを持ったまま硬直した。
「……ごめん……少しだけ、このまま……」
メビウス1の囁きが空気を震わせた。
そんな声を聞いてしまったらスカイアイには何もできない。彼の望むがまま、棒か柱になるしかない。しかしスカイアイは棒でも柱でもなく、エゴにまみれた人間の男だった。背中にそっと押し付けられる頭の丸みに五感が全て集中する。スカイアイは振り向きたくなる自分と戦っていた。
抱きしめたかった。
大切な人のために悲しんで落ち込んでいる彼を「大丈夫だよ」と言って腕の中に囲いこんで、自分の全てでもって彼を慰めたい。
そうできたら、どんなにいいだろうか。
動けないスカイアイは、手元の紅茶をただ見つめるしかなかった。紅茶は褐色をどんどん濃くしていく。湯は冷め、色ばかりが抽出された紅茶。飲まなくてもスカイアイの口の中にその渋さが広がっていくような気がした。
彼の全てが知りたかったけど、大切な人がいるなんて知りたくはなかった。

(君の『大切な人』って誰――?)

その問いかけは、喉の奥に潰されて消えた。