ベールの向こうはオレンジの香り

腕時計を何度も見る。
まだ前に見てから五分も経っていないのに。
そしてカウンター席からバーの入り口を見てため息を吐く。
そんなことをしていたらバーのマスターから「待ち合わせですか」なんて声をかけられたのは当然だったのかもしれない。
「ああ、まぁね」
「女性の方で?」
「……だったらよかったんだがね。残念ながら男だよ」
苦笑を混ぜて言う。
このバーは自分が若い頃から何年も通っている行きつけだった。バーのマスターとも同じ年数だけの付き合いだ。髪に白いものが混じったマスターは、よく喋るタイプではないが、こうしてカウンターに座っていると気詰まりにならない程度には話しかけてくれる。
マスターはコップを片付けながら「失礼しました」と笑った。
「ずいぶん時間を気になさっているようだったので、てっきり」
「いや、まぁ……久しぶりの友人と会うんだがね。少し気が重くてなぁ……」
言いながら頭をかく。それを見たマスターは「何か飲まれますか」と聞いた。
このマスターは「友人と会うのに気が重いんですか」などと余計なことは聞かない。そんなところが気に入っていた。
酒は歳のせいもあり最近はひかえていたが、ここは景気づけに一杯飲んでおくべきかもしれない。
「そうだな。さっぱりするヤツを頼むよ」
「かしこまりました」
マスターは酒を作り始めた。待っている間、手持ちぶさたになって、また時計を見てしまう。
何度目かの重い息を吐く。
それを合図にしたかのように、入り口の古い木の扉が開いた。
入ってきたのはトレンチコートに身を包んだ背の高い男だった。背が高いと猫背になる者も多いが、その男は背筋をすっと伸ばし、長い足で颯爽と近寄ってくる。身に付けているものはベーシックなものばかりだ。派手な出で立ちをしているわけでもないのに、昔から妙に人目をさらうのがこの男だった。
「久しぶりだな。待たせたかな」
そう言って爽やかな笑みを浮かべた友人は腹が立つほど男前だ。
「いいや。スカイアイ、元気だったか?」
「ああ。……言っておくが俺はもう“スカイアイ”ではないぞ。今はただの地上勤務だ」
「知ってるさ。昇進したんだってな、おめでとう。だが俺にとってお前は“スカイアイ”だよ。今さら変えられるかよ」
軽口を交わし、自分の右側に座る男を観察する。
シワはあるが張りのある肌。目の下には隈もなく、よく眠れているようだ。身体は細身だが、一時期よりは格段に肉も増えて健康的に見える。
メビウス1を亡くしてからのスカイアイは、こちらが見ていて痛ましくなるほどのやつれようだったから、少し安堵した。
「お待たせいたしました」
そう言って、マスターが酒の入ったグラスを置いた。深い琥珀色をした液体をひとくち飲むと、爽やかな柑橘の味がした。
「お連れのお客様は何にいたしましょう」
「そうだな……君は何を飲んでいるんだ?」
こちらの手元を指して言う。
「マスターのオススメだよ。なんか、オレンジの味がするやつ」
「じゃあ、俺も同じもので」
用意できていたのか、すぐに出された酒をスカイアイもひとくち飲んだ。「うまいな」と言って、琥珀色の液体を注視する。まるでその中に誰かの面影でも探すように。
その誰かを見つけられたのか、スカイアイは小さく笑った。
「どうした、思い出し笑いか?」
「いや、不思議な偶然だなと思って」
「偶然?」
「実は今朝、久しぶりにメビウス1の夢を見てね」
胸がドクンと強く脈打った。スカイアイの方から彼の名が出てくるとは思わなかった。
内心の動揺は押し隠し、スカイアイに話の続きを促した。
「……夢の中の彼は若かった。たぶん二十代の、一緒に暮らしていた頃の彼だった」
スカイアイの目は、夢に浸るように虚空をさまよった。

――メビウス1が日課のランニングから帰ってくると、両手に抱えきれないほどのオレンジを持っていた。
「どうしたんだい、そのオレンジ」とスカイアイが尋ねると、「となりの家のおじさんがね」と白い頬を薄いピンクに染めて蕩けるように微笑む。
スカイアイの家の隣には老夫婦が住んでいた。メビウス1がランニングからの帰りに前を通ると、おじさんが庭にうずくまっていた。メビウス1はどうしたのだろうと心配になって立ち止まったらしい。
おじさんはメビウス1に気付いて、「庭のオレンジの実を収穫したいのだが腰が痛くて高いところが切れんのだ」と言った。
「……それで、高いところを切るのを手伝ったんだ」
「なるほど、そのお礼か」
メビウス1は少し恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに相好を崩した。
スカイアイにはわかった。
メビウス1はオレンジを貰ったことが嬉しかったわけじゃない。
となりのおじさんを助けられたこと、自分が誰かの役に立ったことが嬉しかったのだと。
彼はそういう謙虚さを常に持っていた。
メビウス1はオレンジをひとつ手に取り、ナイフで半分にカットした。
「はい、スカイアイ。半分食べる?」
メビウス1から差し出されたオレンジの断面は瑞々しく、ツブのひとつひとつが輝いていた。

夢はそこで終わった。
たったそれだけの夢だった。
「……だけど、久しぶりに彼を夢に見たから嬉しくてね。今日はとても気分がいい」
「ふぅん。メビウス1はあまり夢には出てくれんのか」
「そうなんだ。彼はシャイだからね」
スカイアイがこちらを見てウインクする。まったくキザな仕草だが、彼がすると不思議と嫌みがない。
だが機嫌がいいのは本当のようだ。
これはチャンスだ。
スカイアイの方からメビウス1の話を振ってくれたのも大きい。話題を変えずにスムーズに本題に入れそうだった。
俺は琥珀色の酒を口に含んで飲み下した。
「実はな、スカイアイ。今日、頼みたいことはそのメビウス1のことなんだ」
「うん?」
「メビウス1に関するインタビューを受けてくれないか」
そう言うと、スカイアイはあからさまに眉をしかめて「またその話か」とゆるく首を振った。
実は、もう何度かスカイアイにメビウス1に関するインタビューを受けて欲しいと頼んでいた。その度にスカイアイには断られている。
スカイアイはメビウス1の死後、喪失感に苦しんでいた。眠れず、痩せ細り、仕事も出来なくなって休職した時期もあった。いつかメビウス1の後を追うんじゃないかとまで心配した。
それでも最近はかなり立ち直ってきているように見える。
だがしかし、人の心は難しい。他人には、その人の内側に抱えているものを容易に推し量ることはできない。だからスカイアイにメビウス1の話を振るのはとても恐ろしいことだった。
自分も、なにも好きこのんでこんなことを頼んでいるわけじゃない。これも仕事だったからだ。
軍の広報部に勤めている俺はジャーナリスト達の窓口だった。
戦争の当時から彼らはメビウス1に関して取材をしたいだの、インタビューをさせてくれだのと、ひっきりなしに求めてくる。当時は軍の方針もあり、メビウス1に関する情報は何一つ漏らすことはできなかったために全て断ってきた。
戦争が終わった後の一時期はメビウス1を軍の広告塔として利用する案もあったが、メビウス1自身がそういった人前に出ることに向かない性格だったために立ち消えた。スカイアイと知り合ったのもこの頃で、メビウス1に連絡を取るのも意見を聞くのも、必ずスカイアイを通してやり取りをしていたからだった。それくらいメビウス1はシャイな人物だった。
今回、久々に「メビウス1のことを取材したい」とコンタクトを取ってきたジャーナリストがいた。いい機会だと思った。メビウス1はすでに死に、彼の暗殺を警戒する必要もない。死者の取材には家族の同意が必要だがメビウス1には親族がいない。一番彼に近しかったのがスカイアイだ。
「スカイアイ、このままじゃメビウス1は人々から忘れ去られていく。いいのか、それで」
「何度も話したが、彼は大っぴらに語られるのを望まない。消えていくならそれでいいと言うだろう」
「そうだな、メビウス1はそうかもしれない。でも、お前は?」
「俺……?」
スカイアイは自分を持ち出されたことが意外だったようで、目を見開いた。
俺はその目を見つめながら、カウンターに置かれたスカイアイの腕を握った。
「メビウス1ではない、お前自身はどう思うんだ。メビウス1のことを、この世界に残したいとは思わないのか」
「…………」
スカイアイは固く唇を閉ざした。
腕を自分の身に引き寄せて指を組んだ。掴んでいた俺の手をそっと離すように。
――やはり無理か。
俺は説得に失敗した落胆を、酒を飲むことで誤魔化した。カランとグラスの中で氷が虚しげな音をたてる。
メビウス1のことを何よりも大切に考えていたスカイアイだ。メビウス1の望まないことはしたくないだろう。そんなことは重々わかっていた。
だがそれでもスカイアイの利になると思ったのだ。仕事だからというだけではなく、友人として、彼のためになるのではないかと。
「日々、薄らいでいくんだ――」
スカイアイがぼそりと呟いた。
となりを見ると、スカイアイが組んだ指をまるで祈るように額に当てて目を閉じていた。
「彼の、顔はどんなだったか」
それはスカイアイらしくない弱々しい声だった。
「彼のことは何だって知っているはずだった。身体にあるほくろの位置さえも……」
彼を忘れていくのが怖い、と消え入りそうに呟いた。
空を見れば彼を思い出し、布団に入れば彼の温もりを思い出す。彼を思うたびに失くしたものの大きさを思い知る。
何を見ても彼を思い出してしまうから、思い出さないですむように仕事に没頭したのだという。
愛している者を欠片も忘れたくはない。しかし月日は残酷だ。薄いベールをまとうように、人の記憶を曖昧にしてゆく。
「あの夢……あれも本当にあった出来事だったのか、それとも夢が作り出した幻か、俺にはわからないんだ」
「オレンジの?」
「当時、となりに老夫婦は住んでいたし、確かにオレンジの木もあったが……」
スカイアイはグラスをあおった。オレンジの香りのする琥珀色の酒を。
「爽やかなオレンジの香りが、夢なのに妙に鮮明で、リアルで……。彼が本当に側にいるような存在感だった」
だが、その顔にはベールがかけられているのだった。
「彼を忘れるのが怖いんだ」
「インタビューを受けろ、スカイアイ」
俺の言葉にスカイアイは顔を上げた。その青い瞳は揺らめいて戸惑いをあらわにしていた。
俺は強く語りかけた。
「何でもいいからメビウス1のことを世に残すんだ。そうすればこの世界がメビウス1を覚えている。彼は人々の記憶に生き続ける」
スカイアイは目を反らし、うつ向いた。長いため息を吐いて両手に顔を埋める。
スカイアイの葛藤もわかる。だがしかし、俺は今だからこそと思うのだ。あの戦争ももはや過去のことになりつつある。次々と世界では新しい戦争が起こり、新たな英雄が生まれてくる。
かつては持て囃された“メビウス1”の名前。
人々はメビウス1の姿を知らない。名前も過去も、どんな人物だったのかすら。そんな空っぽの、虚構のような英雄は忘れ去られていくだけだった。
メビウス1が死んだ今だからこそ、冷静に過去を振り返り、記憶に残していかなければならないと思う。
俺はただ黙ってスカイアイの返答を待った。
バーにいた先客が出ていき、また新しい客が数名入ってきた。マスターは注文を聞いている。
酒を注ぐ音。少し潜めた話し声。
店のざわめきの中で、スカイアイの呟きは消え去りそうに小さかったが俺の耳は確かにその呟きを拾った。
「……メビウス1に叱られるな」
俺は思わず口の端を上げた。勝利を確信したからだ。
メビウス1には悪いが、俺にとってはやはり今現在生きて、そして苦しんでいる友人の方が大切なのだった。
「天国で存分に叱られればいい」
「いいや。彼はよく『俺は天国には行けない』と話していた。……まぁ、俺もじきに彼と同じ場所へ行くことになるだろうが」
スカイアイはグラスをこちらに掲げて不敵に笑った。
よかった。いつものヤツの調子に戻ったみたいだ。
「それは俺もだ。一緒に叱られてやるよ」
掲げられたグラスに俺もグラスを持ち上げて軽く当てる。カチンと鈍い音をさせるグラス。
「“メビウス1”という文字列に、命を吹き込むのはお前だよ――スカイアイ」
世界はメビウス1を知るべきだ。
彼がどんな想いをもって飛んだのか。その命と魂を削って戦ったのか。そして彼を支えた人間のことを。
みんな、誰に守られていたのかを知るべきなんだ。
いつかは俺たちも、メビウス1の待つベールの向こう側へ行くのだから。

考えに浸っていると、スカイアイが何気なく聞いてきた。
「ところでインタビューをする記者は誰になるんだ? ……嫌いな記者なら受けないぞ」
「ええっと確か――くそ、思い出せん」
頭をかきむしった。
歳は取りたくないものだ。最近は人の名前がスッキリと思い出せないことが多くなった。
こうして人は日々、忘れていくようにできている。
胸の内ポケットから手帳を出して確認する。
「ああ、そうだそうだ」
手帳に書かれていた文字を見てようやく思い出す。
その名は、アルベール・ジュネットといった。