出会い

彼と初めて出会ったのは九月の空の上。
互いの顔など何もわからない機械的な音声の中で、彼に“メビウス1”という名を与えたのは俺だ。

アレンフォート飛行場へ向かっていた爆撃機編隊がレーダーから消失した。AWACSの内部、電子機器に占領された狭い機内では、詰めていた息を吐く気配があちこちからする。この敵爆撃機を見逃せば、今日で戦争が終わるところだった。戦争終結を先延ばしにしただけかもしれないが、勝利は勝利。ひとまず我々ISAFは延命できたのだ。
スカイアイは出撃した部隊に帰投を命じた。そこへ、アレンフォート飛行場から通信が入る。
《スカイアイへ、こちらアレンフォート。爆撃機の撃墜を確認。撃墜したエースは誰だ?礼を言っといてくれ》
軽く「了解」と返したスカイアイだったが、ふと、今日のエースに関して何も知らない自分に気づいた。
大陸の空を支配する巨砲から逃れて、東の果てまで追い詰められたISAF。部隊の再編もままならず、この現地で出撃できるものをかき集めたため、コールサインもバラバラだった。
今日のエースのコールサインはメビウス1といった。
初陣の彼には空いていた部隊名を名乗らせた。とても初陣のひよっ子とは思えない堂々とした飛びっぷりで、スカイアイはメビウス1の飛行ばかり目で追っていた。
一体どんな人物なのか。気になったスカイアイは、基地に戻った後のスケジュールを調整するべく頭を巡らせていた。

基地に戻ってデブリーフィングを終わらせた後、さっそくメビウス1を探すことにした。メビウス1を見なかったかと人に聞いて回ったが、「メビウス1って誰だ」と逆に聞かれる始末。メビウス1は新人パイロット。ゆえに存在を知られていないのも仕方がない。これは捜索が難航しそうだと自分の思いつきを後悔し始めたところだった。たまたまメビウス1を知る整備士に当たり、意外に早く彼の居場所を知ることができた。
彼は機体を収納したハンガーの外にいると言う。
ハンガーの大きく開いたシャッターの外、ぽつんと空を見上げた後ろ姿があった。ずいぶん背が小さい、小柄な男だ。
「君がメビウス1か?」
そう尋ねると、男はひと呼吸おいて振り返った。亜麻色の髪が風でふわっとなびいた。ガラス玉のような瞳は、晴れわたった九月の空をうつしてぼんやりしている。二十歳くらいのはずだが歳よりも幼く見えた。学生でも通りそうだ。
しかし、本当にメビウス1なのだろうか。さっきから心配なくらい反応が薄い。それに、あの戦場での力強い飛びかたと、彼の見た目の印象が重ならなかった。
「ええっと、聞こえなかったかな?君が、メビウス1で間違いないか」
「あ、はい……」
うなずくが、どこか“心ここにあらず”といった風情だ。小さな声が風の音にかき消される前に、かろうじてスカイアイの耳に届いた。
「どこかで……?」
「ああ、失礼。さすがに声だけではわからないだろうな。『こちらスカイアイ』――これでわかるかな?」
「あっ、AWACSの……。あなたが、スカイアイ?」
メビウス1はうつろな眼を開き、スカイアイの姿を映した。生気が宿った瞳はパッチリとして透明で美しく、吸い込まれそうな魅力がある。
スカイアイの襟元にある階級章を発見した彼は、遅まきながら敬礼をする。それを片手を上げて制した。
「気にするな。少し話したいだけなんだ」
「話……ですか?」
「今回の出撃、初陣だというのに素晴らしい活躍だった。飛びかたも新人とは思えない。堂々としていて驚いたよ」
「……ありがとう、ございます」
彼はペコリと頭を下げた。そういえばノースポイント出身だったか。事前に確認していた名簿に書いてあったのを思い出した。
メビウス1は褒められてもニコリともせず、うつ向いて居心地が悪そうにしている。たいていの人間は褒められればもう少し嬉しそうにするものだが。スカイアイは当てが外れて面白くない。
「ああ――それから、アレンフォート飛行場からも伝言を頼まれている。礼を言っておいてくれ、と」
これは彼に話しかけるためのただの口実にすぎなかったが。
「それはわざわざ……どうもありがとうございました」
先程と同じように几帳面に形式的な礼をする。真面目なのは悪くないが、どうもさっきから距離を感じる。
初めて会った人間なのだから、ある程度の距離感は仕方がないと思うが、彼の壁は普通の人間よりもかなり分厚そうだった。
自分がAWACSスカイアイだと気づいた時のあどけない表情。あれが彼の素の顔なのだとしたら……もっと見てみたい。そんな欲求にかられた。
「そうだ、俺からも礼を言っておくよ」
「え?」
「誕生日プレゼントをありがとう、とね」
片方の目をつぶっておどけてみせた。
今日は九月十九日。偶然の産物だがスカイアイは今日が誕生日だった。戦闘前、無線で皆に「誕生日プレゼントには勝利を頼む」などと景気づけに言ってしまい、いささかクサかったかと少し後悔している。けれど、自分が道化になることで皆の緊張がほぐれるなら、笑われる価値があった。彼に対して、どれほど効果的だったかはわからないが……。
メビウス1は少しポカンとした後、ふんわりと目を細めた。無線の言葉を思い出したのか、ほんの少し笑ってくれた。
彼の分厚く冷たいコンクリートの壁が、発泡スチロールに変化したような手応えを感じた。

それからというもの、スカイアイはメビウス1の様子をそれとなく観察した。彼には親しい者もいないようで、いつもひとりで行動していた。それをつらいと思っている節はなく、自ら進んでそうしているようだった。
彼はひとりでよく空を眺めていた。ぼうっとしているように見えて、その背からは他人の干渉を拒む透明な壁が、確かにある。
なぜ他人と関わろうとしないのか。
何を考えているのか。
薄い曇り空のような瞳が、晴れわたる時があるのだろうか。
スカイアイは自分でももて余す衝動を抱え、毎日基地内を歩き回った。メビウス1が一人きりでポツンといれば積極的に話しかけ、当たり障りのない天候の話や任務の話でジャブを打ち、徐々に彼自身の話を引き出していった。時に彼から若干の警戒を含んだ胡乱な眼差しを受けながら。
確かに、あからさまだったと思う。だが、彼が何を考えているのかを知りたかった。なぜ他人を遠ざけるのか、分厚い壁で守るものは何か、隠されれば気になるのが人の性だ。
その日も仕事が終わった夜、誰もいないミーティングルームに一人で残っているメビウス1を見つけて、いつものように話しかけた。またか、と言いたげなメビウス1の視線。しかし拒絶は感じられない。彼もだんだんスカイアイの存在に慣れつつあるようだった。
その話題が出たのはたまたまだった。
「えっ、君はあのユリシーズの災厄で、家族を亡くしているのか」
「はい。だから軍人になりました」
「そうか……すまない。つらいことを思い出させてしまって」
「いいえ。あなたが謝ることじゃありません。もう、過去のことなので」
いやにキッパリと話す彼に違和感があった。
普段のメビウス1は、しゃべる速度もゆっくりで、ひと言ひと言を吟味して話す話し方だった。気の短い人間ならイライラしたかもしれない。それがどうしたことか、両親については妙に突き放したような言い方をする。つまり、彼らしくない。
「……しかし、過去のことといっても、ユリシーズが落ちたのはまだ五年前だ。大変だったな……」
想像もできない程、苦しくつらい目にあってきたに違いない。彼に何と言って慰めるべきか迷う。メビウス1とはそれほど親しい仲とは言えない。適当に相槌を打って世間話の体で終わらせるべきなのかもしれなかった。プライベートに深く踏み込む話は慎重にすべきだ。
メビウス1は暗い窓を眺めた。外は夜の闇。部屋の光で、窓にメビウス1の姿が鏡のようにうつっている。
「いえ、俺は、別に……。ユリシーズで家族を亡くした人は大勢いますし。この軍にもたくさんいるはずです」
「それは、そうだが……」
「俺よりつらい目にあっている人は山ほどいます。子供を亡くした人とか、いまだに難民生活の人も。そんな人たちと比べたら俺なんて」
「メビウス1」
彼の言葉を遮った。聞いていられなかった。
「君は、大切な人をなくしたんだよ。その悲しみは、誰かと比べられるものじゃないはずだ」
「あ……」
メビウス1がはっとスカイアイを見上げる。その瞳が不安げに揺れた。
さっき聞き流すべきだと思ったばかりなのに、正反対のことをしている。やめておけ、と理性は忠告するのに、言わずにはいられなかった。月並みな慰めなどで流したくなかったのだ。彼の内に抱えるものの一端を、ようやく掴んだのだから。
彼はこれまで自分に言い聞かせてきたのだろう。自分よりつらい思いをしている人間がいる。だから自分の悲しみは大したことじゃない。
それが何のためかなんて――決まっている。
「悲しんで、いいんだよ。つらいって言っていいんだ」
彼はきっと、自分が悲しむことを封じてきたのだ。独りで生きていかなければならなくなって、悲しんでいては前に進めない。だって、彼の悲しみを受け止めてくれる人は、誰一人としていなくなってしまったのだから。
「そん、な……なんで…………」
メビウス1はふるふると首をふった。恐ろしいことを聞かされたように白い顔は青ざめ、指先はかたかたと震えだしている。
「もう解放してやってもいいんじゃないか、……自分を」
大きく見開いた目。身体から押し出されるように瞳の水の膜が盛り上がり、じわ、と下まつげが濡れた。
「――っ!」
メビウス1はバッと両手で口を覆った。衝撃で一粒の涙がこぼれ落ちる。彼は口をふさいだまま、踵を返して走りだそうとした。それを腕をつかんで阻止する。
「うぅ……っ」
振り向きざま、潤んだ目で睨まれた。口を塞いでいるせいで、抗議の声もくぐもったうめき声にしかならない。そんな彼を腕のなかに抱きしめた。小さな身体は簡単に拘束できる。それが妙に胸を突いた。
「君の傷をえぐるようなことを言った。すまない……」
彼は悲しみを永遠に閉じ込めておきたかったのだろうに、スカイアイがその封印を解き、こじ開けた。だからこそ今は彼を独りにするわけにはいかなかった。
腕の中の身体は寒さに凍えるように震える。
「ぅ……っく……」
圧し殺した声が、彼の矜持を示しているようだった。シャツが濡れて冷たくなっていく。彼の身体がこれ以上冷えないように、スカイアイは小さな背中をさすった。
彼の涙が乾くまで、そうしてやった。