天使が迎えに来る日

誰かが手を握っている。
ほかほかと温かい。
真っ暗な闇と静けさの中、その手を少し力を込めて握った。すると、すぐ側で声がした。
――もうちょっと待って、スカイアイ。
「メビウス1?」
呼び掛けると応えが返る。
――まだ目を開けちゃダメだよ。
忍び笑いが聞こえる。まるでいたずらを企んでいるような。
手を引かれて歩く。
視界が暗闇に覆われているのは目を瞑っていたからだ。ここはどこで、なぜ手を引かれて歩いているのかわからない。けれど、不安や恐怖はなかった。案内しているのがメビウス1だからだ。
しばらく進んだところで彼が告げた。
――いいよ、スカイアイ。目を開けて。
胸がドキドキした。
楽しそうなメビウス1の気配。きっと何か素敵なことが待っているに違いない。
そんな予感を胸に、ゆっくり目を開ける。オレンジ色の光が視界に飛び込んできた。
柔らかな光が室内を照らしている。
目の前に見えるテーブルにはご馳走が並び、カトラリーが輝きを放った。中央には青い小さな花が花瓶に生けられている。あれは確か、メビウス1が育てている、庭に咲いていた花だ。オレンジの光の元はケーキに立てられたロウソクだった。中央に据えられたケーキは明らかにこの場の主役だ。苺とクリームの乗った定番のショートケーキ。上にはホワイトチョコレートの板に“HAPPY BIRTHDAY Skyeye!”と茶色でメッセージが書かれていた。少しいびつに歪んだ文字に胸が温かくなる。
「誕生日おめでとう、スカイアイ」
メビウス1は繋いでいた手を離して、どこからか取り出したクラッカーを鳴らした。
破裂音と舞い散る紙吹雪。
いたずらが成功した顔でメビウス1は珍しく満面の笑みを浮かべていた。
愛おしさと切なさで胸がいっぱいになる。
彼を抱きしめたい。今すぐ。
スカイアイはその衝動に抗わなかった。
メビウス1に近づき、両腕の中に包み込む。
「ありがとう、メビウス1」
頭頂部に口づけを落とし、額に、頬に。順番にキスをする。
こちらに身を任せるメビウス1。皮膚に感じる温かい体温と、彼の髪から香るシャンプーの匂い。
スカイアイの胸を占めたのは、――幸福。
ただその一言だった。

ふと、意識が浮上する感覚がした。
温かい布団の中で寝返りをうち、腕を伸ばしてシーツを撫でた。そこはひんやりと冷たく、滑らかな感触を指先に伝えた。
期待した感触がない。
落胆して、スカイアイの意識は完全に目覚めた。
目はしっかりと覚めている。それなのに、スカイアイは目覚めを拒むように目蓋を固く閉じたまま動かなかった。
目覚めたくない。せっかく、いい夢を見ていたのに。
メビウス1がいた。まだ元気だった頃の。
笑っていた。幸せそうに。そして、スカイアイも幸せだった。
あれは何度目の誕生日だったか。彼は毎年スカイアイの誕生日を忘れずに祝ってくれた。
もう一度、夢の中に戻りたい。あの幸福な世界に。目を閉じてもう一度寝れば再び幸福な夢の続きが見られるだろうかと過去に何度か試したことがあった。しかし、成功したことは一度もなかった。
スカイアイは夢の世界に戻るのを諦めて、ため息と共に起き上がった。
身体が重かった。
油をさしていない機械みたいに関節がきしむ。首を回すとゴリゴリと嫌な音がする。
目覚めが最高と感じた日なんて、今や遠い。
重たい身体をベッドから起こして着替える。
全身が疲れていた。
昔から、メビウス1の夢は心身が疲れているときに何故かよく見た。昔――メビウス1が死んでから、そんなに何十年も経っているわけでもないのに遥か昔に感じるのは、彼が死んでからの数年は、一分一秒過ぎ去るのが拷問のように感じていたからだろう。毎日がひどくつらかった。
この家にはメビウス1の気配が色濃く残っていて、彼が死んでからしばらくはここに帰ってくることも出来なかった。仕事にひたすら打ち込んだ。
着替えた後、キッチンに立つ。
スカイアイは料理をしなかったが、メビウス1が死んでからというもの、少しは料理をするようになった。彼の作ってくれた料理を再現したかったからだ。彼がどんな風に作っていたのか詳しく知らなかったから再現できたレシピは少なかった。
キッチンの食器棚には白いマグカップと青いマグカップが仲良く並んでいた。白い方を手に取り、コーヒーを淹れる。
朝食をとる前に玄関へ出て郵便受けを確認した。中には新聞と数通の手紙。ほとんどがスカイアイ宛のダイレクトメールだったが、その中に一通だけメビウス1宛のものが混じっていた。
もう彼が死んで何年も経つというのに、いまだに、ごく稀にだが彼宛の郵便が届くことがあった。はじめは彼宛の手紙が届く度に、差出人に対して彼の死を伝えていた。しかし、いつからかそれを止めた。
こうして彼宛の手紙が届き、彼の本名を見ると胸が痛くなる――と同時に、彼の存在の残り香のようなものを感じられて嬉しかったからだ。
彼宛の郵便もマグカップも。この家にある彼の私物はひとつも処分していない。処分できなかった、という方が正しい。だから、この家はまだ彼が生きていた頃のまま何も変わっていない。
彼が死んだ後の数年は、普通に生きるのも難しいかった。彼のいない後の人生をどうやって生きていけばいいのか。つらくて、つらくて、そのつらさから逃れたくて、一時は仕事に打ち込んで彼を忘れようともした。
心配した友人たちは色々なアドバイスをくれた。遺品整理をすることが死者への供養になるだとか、残された者の心境整理にもなるとも聞いた。
確かにいつまでも悲しんで、死者に囚われたままでは前を向いて生きていくことなどできない。
だが、自分が前を向いて生きるために、メビウス1を忘れたり切り捨てたりしなければならないのだとしたら――。
そんなものはくそ食らえだと思った。
喪失感を埋めるための新しい出会いも、生き甲斐もいらなかった。
前向きでなくていい。
そもそも無理な話だったのだ。
彼を忘れようなど。
メビウス1を想うと胸が痛む。この痛みはどこで誰と会おうと、何をしようとも決してなくならない。
それを悟った。
彼と過ごしたこの家で、彼の残した思い出と、穏やかに余生を過ごすのが自分の望みだった。
この、消えない痛みと共に。

メビウス1の最期は、病死だった。
だんだん痩せて衰えていく彼を見ているのは、とてもつらかった。だが、彼自身の方がもっとつらくて苦しくて、不安だったろう。代わってやれたらと何度も思った。しかし、その一方で彼を――メビウス1を空に奪われなくてよかったと、心のどこかで自分は安堵していた。
メビウス1自身は空で死にたかったに違いない。
戦闘機が好きで、戦うことを求めていた。強敵と戦い、墜とされる。それが彼の中の理想的な死の形だった。何よりも空を愛していた。
彼の好きなものを順番に並べたら、自分はいったい何番目だったのだろう。
空戦で死ねば、痛みも苦しみも一瞬ですんだだろうに。死への恐怖も不安も感じずにすんだだろうに。
彼を空に奪われたくなかったんだ。
地面の下には何も埋まっていない空っぽの墓に祈りを捧げるのは嫌だった。自分の腕の中で死んでほしかった。
彼が死にゆくのを間近で見る苦しみと。
それでも死ぬまでそばにいられる喜びと。
彼には口が裂けても言えない、自己中心的な感情を抱えていた。
メビウス1は、こんな自分をどう思うだろうか。
こんなエゴにまみれた自分を――。

 

夕方、暑さもましになってきた頃、庭に出て、生えていた雑草を抜く。
そう、昨日も雑草抜きをして、だから身体がこんなに疲れていたのだ。除草剤をまけば簡単だが、周囲の木や草花に悪影響を与えたくない。
庭のすみに生えていた青い花に目がいく。
今朝の夢で見た、自分の誕生日の席でテーブルに飾られていた青い花だ。生前のメビウス1が育てていた。
小さな青い花が縦に連なって、すっと立っている。
何とはなしに気になって、風に揺れるその花の名前を調べてみた。スマホからネット検索をすれば、すぐにそれらしき花の画像が出てくる。
花の名は、ブルーサルビア。
九月十九日の誕生花。
花言葉は、“永遠にあなたのもの”。
呼吸が止まりそうになる。スマホを持つ手が震えた。
彼はこれを知っていたのか?
知っていて飾ったのか。育てていたのか。
わからない――わからないが。
頬を涙が伝う。
見上げた空は高く、ピンク色の雲はまるで階段のように連なり、天上へとスカイアイを誘っているかのようだった。

「メビウス1……」

いつの日か――そう遠くない未来、君のもとへ召されるとき、その答えを尋ねよう。