視界が白く染まる。
一歩一歩、膝を上げ雪を踏みしめる。
吐いた息も白く、トリガーにとって色のついた存在は隣で自分を支えるバンドッグのみだった。
寒さはトリガーが着ているフライトジャケットなど容赦なく貫通してくる。川に浸かってしまった下半身は氷のようで、濡れたズボンが張り付いて歩きづらい身体をバンドッグが力を込めて引っ張っていく。足の指がもげそうに痛む。歯の根が合わない。ガチガチと音を立てながらもトリガーは前方を指さした。
「バ、バンドッグ……あれ……」
吹雪で白く霞む先に茶色い何かが見えた。
「山小屋か? 貴様が見たというのは確かだったようだな」
バンドッグの声にも安堵が滲んでいた。
二人で山小屋らしきものを目指す。
この雪山で生き残るために。
トリガーはバンドッグと共に輸送機に乗って雪山の上を航行していた。しかし機体トラブルが発生し、輸送機の高度が上がりきらず雪山に衝突する危険があった。墜落する前にパラシュートをつけて脱出した。トリガーたちは、そもそも雪山に相応しい服装をしているわけもなく、装備も輸送機から持ち出した非常用キットくらいしかない。おまけにトリガーはパラシュートでの着陸場所が運悪く川だった。雪がかぶっていたために上から川があるのが見えづらかったのだ。幸いそれほど深さはない川だったが下半身はびしょ濡れになった。薄着の上に水に濡れるなど雪山では命にかかわる。
トリガーは死を覚悟した。
だが、吹雪に紛れて誰かの声がする。気のせいかと思っていると、声はどんどん近づいてはっきりと形をなした。
「トリガー! どこだ!」
返事をしろ大馬鹿野郎と言われ、大声で怒鳴った。
「ここだ、バンドッグ!」
吹雪の先にあった小さな茶色い点のように見えたものが徐々に近づいて来る。トリガーも寒さに震える身体を何とか動かして少しでも近づいた。
「トリガー!」
バンドッグが膝くらいの高さの雪をかき分けて進んでくる。茶色のフライトジャケットを着た姿が見えた瞬間、トリガーは泣きたくなるほど安堵した。別にバンドッグが来たからといって状況が良くなったわけでもないのだが。
歯の根も合わぬほど震えているトリガーを見て、バンドッグは眉間にシワを寄せた。
「お前――」
「すまん……川に、落ちた」
バンドッグは顔を青ざめさせ、手のひらで額を押さえて怒鳴った。
「馬鹿か貴様、死にたいのか!」
「悪い……。すまない、俺のことは置いて行っていい」
バンドッグと再会できたのは嬉しかったが、よく考えれば自分がとんでもなく足手まといになると今更気づいた。ただでさえ装備もなく、救難信号を送ったとはいえ助けが来るのはいつになるかわからなかった。その間この雪山で生き延びなければならないのだ。川で水に濡れた自分は数分のうちに低体温症を起こして死ぬだろう。ならば少しでも助かる可能性のあるバンドッグに渡すべきだと、自分の持っていたサバイバルキットを渡そうとした。
しかし、バンドッグはそれを無視してトリガーの腕を掴み、自分の肩に回した。
「……行くぞ」
どこへ向かうのか、行く当てもないのにバンドッグはトリガーを引きずるようにして歩き出した。
そんなバンドッグにトリガーは恐る恐る上申した。パラシュートで降下中、山小屋を見た気がすると。ここからそう離れてはいない場所だった。
実際、見つけた山小屋はそんなに遠くない距離だった。しかし膝まである雪をかき分けながら進むのは土の上を進むのとはわけが違う。足を高く上げなければならず体力を通常の五倍くらい消耗する。数百メートルが永遠のようにも感じられた。
「まったく、貴様といるといつも碌なことにならん」
バンドッグがぼやく。
「輸送機の、機体トラブルは、俺のせいじゃない……だろ」
「いいや、わからんぞ。お前が乗ると知って何者かが機体トラブルを起こすよう細工したのかもしれん。雪山の上でというのはタイミングが良すぎる」
「暗殺か?」
「以前にも、命を狙われたんだろうお前は」
「その件は、片づいたはず、だけどなぁ……」
息を切らしながら会話をする。バンドッグが意識的に会話をしてくれているのがわかる。意識が朦朧としてくると、いよいよ危ないからだろう。
幸いにもトリガーが低体温症を起こす前に山小屋にたどり着いた。
小さな三角屋根の建物があった。半分くらい雪に埋もれていたが、中は風が入らず、それだけで暖かく感じた。小さな暖炉があったが灰や埃が溜まっている。最近は使われていないようだった。バンドッグが外に積まれていた薪に火がつくか試していたが湿っていてどれも駄目だった。
おもむろにバンドッグが言った。
「服を脱げ、トリガー」
「え……」
「早くしろ。死にたいのか」
もちろん濡れた服を着ているのが命にかかわることくらいトリガーにもわかっている。びしょびしょになったツナギのファスナーを下げようとするが、手がかじかんで上手くいかない。
もたもたしているとバンドッグが舌打ちをしてトリガーの服を脱がしにかかった。ファスナーを下げ、ブーツを脱がせて身体に張り付くズボンを引きずるようにして下ろす。アンダーシャツを両腕を上げさせて抜き去る。バンドッグの脱がせ方は力任せで乱暴で痛いくらいだった。
そしてトリガーに残されたのは下着一枚となった。
これも脱ぐのかと逡巡していると、バンドッグが自分のジャケットを脱ぎながら冷たく言い放った。
「まさか俺に下着まで脱がさせる気じゃないだろうな?」と。
やっぱり脱ぐのか――。
確かに下半身は下着までびしょ濡れで、こんな小さな布切れ一枚でも冷えれば体力が奪われていく。ない方がいいのはわかる。わかるが、バンドッグの前に裸を晒すのはどこか抵抗があった。
羞恥心を堪えて震える指で下着のゴムに指をかけ、引き下げた。何も身に着けずにいるのは何とも心もとない気持ちになって申し訳程度に前を両手で隠す。
バンドッグは自身が着ていたTシャツを脱いでトリガーに投げてよこした。
「それで濡れた身体を拭け」
言われた通りに身体についた水滴を拭う。すると肌を刺す冷たさが和らいだ。
バンドッグは山小屋にあった簡易的な木枠で作られたベッドの上に寝袋を敷き、山小屋にあった毛布を引き出し広げていた。叩いた毛布からはらはらと砂埃が舞う。
「汚いが、これで命が助かるなら贅沢は言ってられん。――来い、トリガー」
バンドッグがこちらに手を差し伸べる。その意味を察してトリガーは躊躇った。
「う……」
「何をしている、さっさとしろ!」
「う、うわ……っ」
強引に腕を引かれ、たたらを踏む。よろけた身体を捕まえてベッドの上に敷いた寝袋の上に座らされた。その背後にバンドッグが座る。まるでトリガーの座椅子にでもなったかのようにピッタリと身体を重ねる。そしてその周りをありったけの毛布や乾いた服などで幾重にも囲った。
背中にバンドッグの熱い胸板が触れ、思わず身体を離した。しかし、太い腕が伸びてきてトリガーの身体を引き戻した。
「……っ」
バンドッグの息を飲む音が聞こえた。トリガーの身体があまりにも冷たかったからだろう。全身が氷のように冷たいトリガーを裸で抱えるのはバンドッグにとっても辛いに違いない。それなのに隙間なくぴったりと肌を合わせて強く抱きしめられる。
背中一面にバンドッグの熱を感じ、トリガーの胸は早鐘を打った。トリガーにとってはバンドッグの肌がとてつもなく熱く感じられた。氷の中から急に熱湯に触れたようなものだ。冷たく血の気のなかった肌がじわじわと温められていく。どくどくと脈打つ血潮は自分のものか、背中で鳴るバンドッグのものか。わからない。それほど二人の距離が近く混ざり合っていた。
バンドッグが後ろから腕を回してトリガーのかじかんだ両手を取った。両手で挟むように包まれるとその大きさや厚みがわかる。煙草や拳銃を握っている方がよく似合う無骨な指が、トリガーの指のシワまで伸ばすかのように執拗に擦る。バンドッグの指も冷たかったが擦ったり揉まれているうちに二人の指はゆっくりと温かくなっていった。
温まった手のひらでバンドッグはトリガーの身体を撫でた。まだ冷たさを残す肩や腕、太ももを撫でさする。
「ちょっ、バ、バンドッグ……」
さすがに裸の身体を撫でられるのは恥ずかしくて、やんわりと抗議する。しかしバンドッグが自分のためにやってくれているのがわかるから強く拒否もできない。
「お前もやれ。足の指先とか。凍傷になっても知らんぞ」
そう言われ、毛布の中でもそもそと足を動かして指を揉む。確かに足の指先はもっとも冷え切っていた。川で濡れて、雪の中を歩いて、一番酷使された部分だ。もはや冷たいという感覚もないほど。それを足首から足先まで何度もさする。そうしていないと自分の身体を撫でるバンドッグの手の感覚に全てを持っていかれそうになる。肩や腕、胸から脇腹を辿り、太ももから膝まで。女性にだってこんなに隅々まで触れられたことはない。腕が届く範囲は全て手のひらが這いつくしていく。時折、指のささくれが柔い肌を引っ掛け、その度にトリガーは身体を震わした。
――なんの拷問なんだ、これは!
血が沸騰する。
トリガーの身体は寒さを通り越して熱くて汗ばむほどになっていた。
「バンドッグ、も、もういい。もう大丈夫だから」
振り返ってそう告げた。
バンドッグの手が身体を這うのを止め、頬を覆った。それがあまりに温かくて驚いた。
「……確かに、顔色は良くなったな」
低く囁かれてぞくりとする。
すぐそばにバンドッグの黒い瞳がある。頬を包む手のひらはそのままに、親指が唇の温度を確かめるように動いた。キスをする直前のようなその動きに恥ずかしくなり、トリガーは身体をわずかに反らす。しかしバンドッグの腕が伸びてきて頭を引き寄せられる。「隙間を作るな、寒い」と言って彼の首すじに顔を埋めさせられた。薄く漂う体臭と染みついた煙草の匂いがトリガーを包んだ。
背後から抱きしめられていたさっきまでと違って正面から向き合う形になった。腕の持っていき場に迷い、仕方なくバンドッグの背に回す。完全にお互いに抱きしめ合う形になったが不本意にもそれが妙にしっくりくる。身体と身体が無駄なくくっついて、温かくて、こんな時なのに守られている安心感に満たされていく。
バンドッグはなぜこんなに世話を焼き、自分を助けてくれるのだろうか。雪山で自分を見捨てなかったのはなぜなのか。トリガーがオーシア軍のトップエースで、英雄と呼ばれ、彼にとって駒として利用価値があるからだろうか。
――どうせ聞いても答えてはくれないんだろうな。
トリガーは深く息を吸い込んで吐き出した。
時間が経ち、山小屋の中はほとんど闇に支配され、近くにいる互いの顔すら見えなかった。バンドッグが近くに置いたジャケットを手で探る。ライターを取り出し、火をつけた。ほんのわずかな光でも闇に慣れた目には焼きつくほど眩しく見えた。それをバンドッグは手で覆い煙草に火をつける。闇の中にぽっと小さく煙草の赤い火が灯る。確かに、闇を照らすのはそのくらいの灯りが丁度いいと思った。
バンドッグに身体を預けていると程よい温かさと雪の中を歩いた疲労もあり、眠気を強く感じた。だが眠ってしまっていいものか。バンドッグに、自分をベッド代わりにするなと怒られるんじゃないだろうか。仮にも彼は自分より上官だ。
「なぁ、眠いんだけど」と問うと「寝ろ」と短く返される。あまりにも簡潔で笑ってしまった。
「吹雪がおさまるまで救難ヘリは来られない。吹雪がいつ止むのかはわからん。それまで体力はできるだけ温存しておくに越したことはない」
「救難ヘリ……来るかな」
「来る」
バンドッグは即答した。
「お前はオーシアのトップエースだぞ。そんな人材を軍が放置するわけがない。必ず助けは来る」
「そうか……そうだな」
トリガーは少し悲しくなった。
バンドッグの言うことに間違いはない。この男は常に生き延びるための最善策を叩き出す。そこに感情論は一切含まれない。その冷徹さが時に周囲を傷つけ、トリガーを傷つけることもあるけれど。
トリガーは遠慮なくバンドッグに体重を預けて眠ることにした。
目を閉じると温かくて、安心できる。
聞こえるのは吹雪の唸り声と、山小屋の扉がカタカタ揺れる音。そしてバンドッグの胸の鼓動。トリガーは無意識にバンドッグの首すじに鼻先をこすりつけていた。まるで犬が甘えるように。
バンドッグが抱きしめる腕を強くする。
雪山で遭難して明日をもしれぬ状況だというのにトリガーはバンドッグの腕の中で夢も見ないほどの眠りに落ちていた。
「起きろ、トリガー」
身体を揺すられる。
あまりにも深く眠っていたためか、ここがどこで今がどういう状況なのか一瞬わからなかった。目の前にある程よい弾力と温かい何かにしがみついて鼻面を埋めた。
気持ちいい。まだ寝ていたい。
「いい加減にしろ! さっさと起きて服を着ないか!」
耳元で怒鳴られて飛び起きる。
温かい何かから頭を引き剥がすと、目の前には憤怒の顔をしたバンドッグがいた。自分が何にしがみついていたのかを理解し、青くなった。
肩から毛布がずり落ちると冷気が舞い込み身体を震わせた。その身体が素っ裸だったのにも衝撃を受ける。そして眠る前のやり取りや、二人で山小屋まで歩いてきた状況を思い出した。
冷静になると恥ずかしすぎるやり取りを――。
「貴様がそのみっともない姿で救助を受けたいと言うなら止めはしないが」
「うわっ、ごめん……!」
急いで身体を離し、寒さに震えながら脱ぎ捨てた服を再び身に着ける。服はまだ完全には乾いていなかった。湿っていて冷たいが仕方がない。バンドッグが言った「救助」という言葉から外の音に耳をそばだてると、もう吹雪の音は聞こえなかった。かわりに微かに響くヘリコプターの羽根の音。
「助けが来たのか……」
「トリガー、発煙筒を出せ」
サバイバルキットの中から発煙筒を取り出す。山小屋の外へ出ると、あの吹雪が嘘のように静かに晴れ渡っていた。雪が太陽の光を反射してキラキラしている。
風もなく、空は雲ひとつない。そこへ発煙筒の煙が真っすぐに立ち昇る。
「これだけ良い天気だと、発煙筒がなくても目視できそうだ」
「そうだな」
トリガーの隣でバンドッグも空を見上げていた。その横顔を見て思う。バンドッグにとっての自分はオーシアのトップエースだから価値があるのかもしれない。だったらそれを全うするしかない。
犬は飼い主に忠節を尽くす――たとえ飼い主に愛されていなくとも。
「……ありがとう、バンドッグ」
まだこの身体にはあの夜の温かさが残っている。その空気が残っている内に言っておきたかった。
バンドッグはトリガーを無言で見つめ返し、慣れた仕草でフライトジャケットの内ポケットから煙草を出した。ひと口、うまそうに吸って言う。
「お前といると、命がいくつあっても足らんな」と。

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