籠の鳥

校門を出て、桜並木をしばらく歩いた先にいたのは、黒い車と黒いスーツを着た人影。
自分と同じく下校途中の女子生徒たちの囁き声が聞こえてくる。
「何あれ……怖くない?」
「ヤクザ?」
「……でもあの人、ちょっとカッコよくない?」
女子高生には怖いものなんてないんじゃないか――常々そう思う。彼女たちにかかればヤクザだってこの通り。ヒソヒソと楽しい噂話のタネにしかならない。
“カッコいい”と女子に言わしめたのは車の前に立つすらっと背の高いスーツの男だ。黒いサングラスをかけていて、ただならぬ威圧感からカタギではないとすぐにわかる。素顔はわからないが均整のとれた体つきと隙のない雰囲気は確かに格好よく見える。
何にせよ、あの男が待つあそこへ行くのがひどく躊躇われた。行けば確実に女子生徒たちの噂話の的になるだろう。うんざりして深くため息を吐いた。だけど行かないと帰れない。
ノロノロと足を動かす。
男がこちらに気づいた。口元がにこりと弧を描くと張りつめた雰囲気が和らいで優しくなる。それを見た女子達がまた騒ぐ。
「お疲れ様です、坊っちゃん」
「……来なくていいって言ったのに」
「そうはいかない。あなたの身辺警護が俺の仕事です」
どうぞ、と車の後部座席の扉を開く。自分が乗ることに何の疑問も抱いていない様子に何故かこの時は無性に反抗的な気分になった。
男を無視して歩きだす。
「坊っちゃん……?」
(坊っちゃんって言うな!)
幼い頃から言われ続けてきた呼び方に今さら腹を立てても仕方がないのだが、女子たちのヒソヒソとした話声やたくさんの視線に苛立ってしまう。
この男――スカイアイは自分の世話役だ。送り迎えは当然のこと、常に俺の側に控えているのが彼の仕事。友人なんかできたことがない自分にとっては、話し相手は彼くらいしかいなかった。

どうしてこんな家に生まれてしまったのか。もう何度も考えてきたことを、性懲りもなくまた考える。
俺の家は、いわゆるヤクザだった。幼い頃は何とも思っていなかったが、ある程度大きくなって世間の常識がわかってくると周囲の目の冷たさに気づいた。遠巻きにされ恐れられ、影では好き勝手に噂された。
父は組長だが俺には優しかった。けれども裏でどんな汚いことをやっているのかと思うと尊敬はできなかった。
家を出たいと何度も思ったけど、生まれは変わらないし変えられない。運命を恨むしか能がない自分に腹が立った。
怒りに任せて歩く。
目の前には人混み。
駅だ。
今日は電車で帰ろうと唐突に思い立つ。それが今の自分に出来る小さくて最大の反抗に思えたから。

駅の構内に入って改札の前でふと立ち止まった。
皆は定期券やICカードでさっさと改札を通っているが自分は当然そんなものを持っていない。
切符を買わないといけない。
切符の販売機に向かう。しかし、俺は切符を買ったことがなかった。この歳になって恥ずかしいが電車というものに乗ったことがなかったのだ。移動は車でしか許されなかった。
券売機の前で上部に貼られた路線図を眺めた。線路が縦横無尽に交差していて、たくさんの駅名が書いてある。
(降りる駅は……えっと……どこだっけ)
高校生にもなって切符が買えないなんて恥ずかしすぎる。ここは絶対にミスるわけにはいかないと焦れば焦るほど、ますます混乱してわからなくなってくる。
学生カバンを握る手が汗ばんできた。すると後ろから黒い手がぬっと伸びてきて、券売機のボタンを押した。排出される切符。
「え……」
背後を振り返るとスカイアイが立っていた。
「電車に乗るんでしょう」
そう言って切符を手渡される。それを躊躇いながら受け取った。彼が後ろをついてきていたのは知っていた。だって、彼は自分の世話役なのだから片時も側を離れない。だけど電車に乗るのは許さないんじゃないかと思っていた。安全面の問題で。
戸惑いを含めて見上げると、サングラスの男は口元でだけ微笑んで俺を改札へと促した。
ホームはたくさんの生徒や人でごった返していた。初めての電車にドキドキする。電車がホームに到着し、どこ行きかもわからないまま前の人に続いて乗り込んだ。
しかし本当に人が多い。電車の中はすし詰め状態で、通路にまで人が立ち並んでいる。
これがいつものことなのか。電車通学をしたことがない自分には“普通”がわからない。
後ろからどんどん人が乗り込んできて押し込まれる。流れに逆らえない。他の人の身体にぶつかったり鞄が当たった。しかし、そんなのは当たり前だとでも言うように、みんな身体がぶつかっても文句も言わない。
他人とこんなに近くて身動きも取れないような状況は初めてだった。
俺は電車に乗ったことを早くも後悔しはじめていた。
電車がゆっくりと動き出した。急な動きについていけず足がふらつく。足を踏ん張ろうにも身動きできない中では踏ん張りようもなく、バランスを崩した。
「あ……っ!」
ぐらりと背中側に倒れそうになる。とっさに腕を伸ばした。誰に向けたわけでもなくて条件反射だ。
それを掴む手があった。
スカイアイが倒れそうな俺の腕を掴んで、自らの身体の方へと引っ張った。俺は軸のないカカシみたいにフラフラして彼の身体に正面からぶつかった。それを受け止める筋肉質な身体。
「……大丈夫ですか?」
最低限のボリュームでささやく声に耳元がゾクリとする。
「ん……」
「こちらへ」
彼がほんのわずかにできたスペースへ俺をねじ込んだ。電車の扉の前だ。無機質な扉に背中を預ければ目の前には背の高い世話役が立った。俺は身長が低いから、目の前に立たれたら彼の胸しか見えない。覆い被さるみたいに曲げた腕を俺の顔の横について、押してくる乗客から守るように――いや、比喩でなく俺は守られているんだろう。たくさんの乗客から。そして慣れない環境から。
シャンプーの匂い。香水の薫り。汗の臭い。たくさんの、ごちゃごちゃとした人間の放つ匂いに気分が悪くなる。そんな中で目の前にいるスカイアイから漂う香りにほっとする。何かつけているのだろうか。森の中にいるような清涼感のある香り。その香りに引き寄せられるように彼に身を寄せた。ほとんどしがみつくみたいに彼の胸に寄りかかった。彼はそんな俺を拒むでもなく受け入れて、片方の手で背中を撫でてくれた。
しかし、そんな彼の気づかいも虚しく、俺は限界をむかえつつあった。
――吐きそうだ。
頭がガンガンして、目眩もする。
「……次で降りましょう」
提案に異議はなかった。

電車の扉が開いて、押し出されるみたいに飛び出た。
風を頬に感じる。
あの車両から出ただけで、こんなにも解放感を味わえるのかと感動した。
男に支えられながらフラフラとホームのベンチに座る。
「……はぁ……」
深呼吸すると吐き気は少しマシになった。
「大丈夫ですか?」
スカイアイは心配しながら、しかしどこか面白いものを見るような雰囲気を醸し出していた。口元が、少しゆるんでいる。
仕方がないなぁとでも思っているに違いない。
送迎の車を無視して意気揚々と電車に乗ったくせに、たった一駅分で根をあげたのだからそう思われるのも無理はない。
俺だって自分自身に呆れている。だけど馬鹿にされるのはやっぱり腹が立つ。
「……サングラス、取って」
スカイアイの表情が見たくて命令した。
彼は不服を見せずに従った。ゆっくりとサングラスを外す。
現れる、青空みたいな瞳。
それは柔らかく微笑んでいて俺を包み込んだ。
初めて会った時から大好きな瞳。この優しい色に魅了されない人はいないと思った。だから彼に普段はサングラスをかけるよう命じた。彼の瞳を見るのは――その色に見つめられるのは自分だけにしたかったから。
子供じみた独占欲だった。
だけど彼はそんな自分の小さな命令を、どういうわけか忠実にずっと守り続けている。
「気分は?」
「少し……良くなった。人混みに酔ったみたいだ」
「そうですか」
彼が携帯電話を取り出す。
「――駅まで車をまわせ」
それだけを言って電話を切る。
結局、車で帰ることになるのか。短い反抗だったな――と、呆れとも諦念とも言えないような気持ちが沸きおこる。
「行きましょう」
そう言って手を差し出されれば取らないわけにはいかない。結局、スカイアイも父の部下には変わりない。俺のお目付け役なのだ。スカイアイにはこうなる結果がわかっていたのかもしれない。しょせん俺は世間知らずの籠の鳥だ。逃げ場などないし、反抗したところで全てはこの男の手のひらの上――だったのかもしれなかった。
まだふらつく身体を支えられながら駅のホームを歩く。密着した身体から森の香りがして、俺は思わず聞いた。
「いい香りだね……。何かつけてる?」
「ええ、まあ」
男はしばし言葉を濁してためらった後、告げた。
「――昔、あなたが言ったんですよ。この匂いが好きだって。……覚えてませんか」
「え……」
そんなこと言っただろうか。いつの話だろう。
記憶をさらったのだが、まったく思い出せない。
しかし自分ですら忘れていたような些細な言葉を彼は覚えていて、命令した覚えもないのにその香りをつけ続けている。
それは、まるで――。
まるで自ら俺の色に染まるみたいな行為じゃないか。
俺はなんだか無性に恥ずかしくなって、身体が熱くなった。
繋いだままの手が温かかった。

俺も、この男も。逃げ場などない。
籠の鳥でも優しくされ続ければ情もわく。
俺たちはお互いに優しさの鎖で縛りあって生きていくしかないのかもしれない。
この、閉じられた世界で。