4.雷雲

「トリガーどうしたんだ、その頬!」
 朝の食堂で、タブロイドが目ざとく気づいた。右頬に紫色の内出血。昨夜、バンドッグの執務室で殴られた跡だ。
「誰にやられた? また喧嘩か?」
「いや――大丈夫だ」
 そっぽを向いて右頬を隠す。だが、タブロイドとの会話を耳ざとく聞いていた奴がいた。痩身の中年男、フルバンドだ。
「おいおい、トリガーお前、もしかして……」
 目を見開いて殴られた跡を凝視してくる。トリガーは跡をさりげなく拳で隠した。
 見られたくなかった。これはフルバンドに言われるがままにバンドッグの秘密を探ろうとし、無様にも失敗した証。バンドッグの信頼を裏切った証。自らの全てを投げうって赦しを請うた証だった。
「そうか、失敗したか……」
 フルバンドは誰にともなく呟いた。トリガーが何も言わなくても失敗を察したらしい。顎に手をやり何事かを考えている。トリガーの失敗をさほど気にしていないようで、最初から大して期待されていなかったのがわかった。腹立たしい。
 フルバンドが身を乗り出して聞く。
「でも、何か役に立たちそうなものはなかったのか?」
「……デスクも調べたが、何もなかったよ」
 ひとつだけトリガーに関わる情報があるにはあったが、恐らくあれはフルバンドが求める情報ではないだろうと言わなかった。
 タブロイドが目を剥いて驚く。
「おい、フルバンド。お前まさかトリガーを使ってバンドッグを探ろうとしたのか!?」
「しょうがねぇだろ。あの部屋に入れるのはヤツの部下かトリガーだけだ」
「そんな危険なことトリガーにさせるなよ! おい、フルバンド、聞いてるのか!?」
「……ふーむ。なら次はあそこから攻めて……いや、こっちか?」
 フルバンドはブツブツと独り言を呟いて自分の世界に入っている。
「まったく……しょうのないやつだな」
 タブロイドはやれやれとため息を吐いた。
「トリガー、殴られる程度で済んでよかったな。下手すりゃ殺されてたぞ。これに懲りたらもうバンドッグには関わらないことだ」
 諭すようにトリガーの肩に手を置いた。
 二人で食堂のテーブルにつく。
 タブロイドの心配は杞憂に終わった。なぜなら、あの夜を境にトリガーがバンドッグの執務室に呼ばれることはぱったりとなくなったからだ。
 バンドッグに縋りついて飛ばせてくれと願った。その代償に何でもする。這いつくばってバンドッグの犬になり靴を舐めるのも厭わないと。だから何をさせられるのだろうかと戦々恐々としていたのだが、実際には何もなかった。それがたまらなく恐ろしくもあり不安をかき立てられる。
 部屋に呼ばれないのはわかる。自分が不在の時に秘密を探るような男をバンドッグは信用しないだろう。危機管理として当然の判断だ。でも他に何も言ってこないのは何なんだ。もう自分に興味を失ったのか。あんな醜い姿を晒したんだ。呆れられて失望されて当然か――。
 バンドッグの冷めた瞳を思い出して胸が苦しくなる。時が経てば経つほど、あの時の自分の判断を後悔した。
「ようトリガー。最近バンドッグからお呼びがかからないじゃないか」
「毎晩ご執心だったのによ。もう飽きられたのか?」
 笑い声が響く。二人組の男が下卑た笑みを浮かべトリガーを囲んだ。くだらない噂を鵜呑みにしているカス共だと心中で相手を蔑むが、どうにもイライラした。
「寂しいなら俺たちが相手してやるぜ?」
 そう言って一人の男が手を伸ばしてくる。顔に触れられる前にその手を払った。
「なんだ、その態度は。可愛がってやろうって言って――」
 皆まで言わせなかった。顔面に拳を食らわせる。男は鼻血を噴いて醜い顔を歪ませた。怒鳴りながらトリガーに掴みかかってくる。そこからはまた大乱闘だ。何発かもらったが、バンドッグの裏拳に比べればその鋭さも痛みも何倍もマシだ。トリガーは抱えた胸苦しさを見ないふりをして拳を振り上げた。

 次の任務への出撃が決まったと聞いたとき、トリガーは安堵で膝から崩れ落ちそうになった。出撃する部隊要員はバンドッグが決めている。つまり、まだバンドッグは自分を戦力として認めているという証だった。もう二度と飛ばせてもらえないかもしれないと思い詰めていたトリガーは胸をなで下ろした。
 他の出撃メンバーは皆、口々に文句を言っていたがトリガーには理解できなかった。確かに懲罰部隊に下される任務は危険なものばかりで毎回、誰かが死んでいた。だが任務に危険は付き物だし、トリガーは何故か死ぬことよりも飛べなくなるほうがずっと恐ろしかった。
 オーシアの強行偵察部隊を守るのが今回の任務だった。
 場所はインシー渓谷。岩の柱がそこかしこに連なる針山のような複雑な地形だ。そこにあるレーダー施設や対空兵器を破壊し偵察部隊を安全に通過させる作戦だったが、地形の複雑さに加え、谷からの気流もあり、飛行するだけでも危険だった。
「下は切り立った山、上は雷雲! ……地獄だな、ここは」
 仲間が無線でぼやく。それでも動き回る敵が相手ではないからトリガーにとっては難しくない。レーダー施設と対空兵器を全て破壊して偵察部隊を迎えた。しかし、彼らは多数の無人機に追われていた。
 バンドッグが無線で吠える。
「444全機、絶対に彼らを帰還させろ。一機たりとも墜とさせてはならん!」
 戦闘機を駆るトリガーの目の前に紫の光が走った。雷雲が辺りに厚く渦巻いている。その中に多数のUAVがひらめく。
「誰だか知らんやつのためにあんな中を飛べっていうのか!」
 チャンプが叫ぶが、AWACSからの返答は無慈悲だ。
「雷雲を避けていては遠回りになる。臆病者ども。雷雲に飛び込むんだ」
 トリガーは迷わず雷雲に突っ込んだ。周囲が灰色に霞む。コックピットの表面に雨粒がつき、キラキラ稲光を反射する。目視での視認が困難になり、計器で周囲を把握するしかない。
 仲間たちは雷雲を恐れて飛び込めないでいるようだった。
 トリガーの機体すぐ横を雷光が横切る。構わず目の前にいるUAVを追う。そこに助けを求める味方機がいるから。味方を救わなければならない。それが任務だ。
 ――いや、違う。任務だからじゃない。もう二度と守れなかったと後悔したくない。
 そのために。
 その時、視界が真っ白に染まった。機体が揺れる。HUDにノイズが走った。雷にうたれたのだと気づく。目視もレーダーも効かない状況に全身から血の気が引く。雲でぼやけた目の前に急に岩肌が現れ激突しそうになった。
「く……っ」
 急減速。ほとんどストールする速度だったが谷からの吹き上げる風に乗り岩肌を回避した。けたたましく鳴り響くミサイルアラート。UAVはトリガーの隙を見逃さなかったらしい。まだHUDが回復していない。敵機の位置もミサイルが飛んでくる方向もわからない。そんな中でバンドッグの声が届く。
「トリガー、後ろだ! ミサイル!」
 ほとんど反射的に操縦桿を引いた。急激に身体にGがかかる。
 バンドッグが見ている――自分を。雷雲の闇に閉ざされ、誰も自分を助けてくれない中でもAWACSである彼だけは俺にその声を届けてくれる。回避行動を取る間、身体は悲鳴を上げてもどこか心強かった。
 HUDが回復し、自分を追い回すUAVをすぐさま撃破する。そして味方の偵察機を助けた。
「すまない、助かった」と偵察機が礼を告げて逃げていく。
 バンドッグからの無線が聞こえた。
「スペア15が雷雲を突破した。よくやった、この大馬鹿野郎」
 罵り声が不思議と温かく聞こえて、歯を食いしばった。そうしないと胸に渦巻く熱い何かがあふれそうだった。
「“よくやった”」
 その言葉を自分がどれだけ必要としていたか思い知らされる。ブラウニーを守れなかった自分。そしてハーリングを殺した自分に無力さを痛感した。もう誰にも必要とされないのだと思っていた。そんな自分でも、まだ誰かを守る事ができるのだと……。
 その想いを胸に空を飛ぶ。雷雲の中を。
 トリガーはUAVを全機落とし偵察機を守りきった。
 任務終了を告げるバンドッグ。
 だが、突然現れた敵機のSu-30にチャンプが食われた。たやすくチャンプの背後に近づき射程に捉えながら、しかしミサイルを撃たずにいる不気味さ。それに黙っていられなかったチャンプはコブラ機動で後ろを取る。それができるチャンプはトリガーから見てもかなりの腕前だったが、Su-30はさらにその数段上をいっていた。
 ――奴だ。その獲物をいたぶってから殺す癖。あの戦場でブラウニーを落とした正体不明の機体。
 ぶるりと身体が震える。腹の底から頭の先まで熱が駆け上がった。操縦桿を握る指に力が入る。
 今、ここでアイツに出会えた奇跡は彼女からの導きだろうか。
 奴を、殺す――絶対に。
「怪物の相手をしろスペア15! お前がやらなければ味方の被害が止まらん!」
 バンドッグに言われるまでもなくトリガーはSu-30に襲いかかった。全身が黒い塗装に翼端のオレンジが映える機体。その飛び方は優雅でありながら力強い。自信に満ちあふれている。トリガーに簡単に背後を取らせたのも、まるでこちらの実力を測ろうとするようだ。
 こんな敵は見たことがない。
 充分に当たる距離まで詰めてミサイルを放ったのに躱された。信じられない機動だった。本当に人間が乗っているのかと疑うような。こんな相手に自分が勝てるのか。いや、勝てるのかではない。勝たなければならないんだと自分を奮い立たせる。
 敵は雲の中に入り、谷の岩山を壁にして逃げる。気流も地形すら利用している。経験の差を見せつけられ気迫にのまれそうになった。
 敵を追いかけ、脚に力を込めてGに耐える。視界が狭まり一瞬、意識が遠くなる。その隙をつかれた。敵機が最小の円を描き反転し、こちらに向かってきた。ヘッドオンでミサイルが飛んでくる。反射的にスティックを引いた。
 ミサイルを紙一重で躱していた。心臓が痛いほど鳴っている。チャンプがやられた動きだった。自分も同じ轍を踏むところだった。
 何をやっているんだ。こんなんじゃ勝てない――奴に。
 不甲斐なさに歯を食いしばる。
「スペア15、敵機には動きにクセのようなものがある。必ず隙がある。追いかけ続けろ!」
 ――クセ?
 バンドッグの声に、仇を討ちたいと頭に血が昇りすぎていた自分を自覚した。敵機の動きをよく見る。そんな基本的なことさえ忘れていたのだ。
 敵と追いつ追われつを繰り返す。
 確かに敵機の機動は凄まじい。それについていくのもやっとだ。だが、トリガーは精神力だけで食らいついた。肉体的には限界ギリギリの中で、不思議と周囲の音も背景もなくなる。ただ敵と自分だけがこの空間にいるような。時間にしてどのくらいなのかわからない。ほんの数分……数秒かもしれない。敵機が動く軌跡が見えた。空気の流れが目に見えるように。そしてふと気づく。ある瞬間、Su-30の機動が緩やかになる時間が存在することを。
 ――これが、こいつのクセか。
 トリガーはその隙を狙って引き金を引く。そのミサイルは敵機に命中した。
「やった! 当てたぞ」
 タブロイドの歓喜の声が聞こえた。
 だが、Su-30は少し動きを鈍らせただけで落ちなかった。すぐに次の一発を狙いに行くが、Su-30を守るように二機の敵機が立ちはだかる。Su-30との戦闘でトリガー自身も限界に近かった。その上、二機同時に来られては回避行動を取るしかない。
 そうこうしているうちに、Su-30との距離はどんどん開いていく。トリガーに絡んでいた二機も同時に退いていった。
「くそ……っ!」
 トリガーは任務中に初めて暴言を吐いた。抑えることがどうしてもできなかった。
 奴を逃がした。
 ブラウニーの仇をとれなかった。そして自分との力量の差を見せつけられた。それがどうしようもなく悔しかった。
 基地へ帰るトリガーの身体には極度の疲労と、敗北の苦みだけが残っていた。




 バンドッグが基地へ戻ると、タブロイドがフラフラと疲れた顔をして近寄ってきた。
「ああ……バンドッグ、その……トリガーが基地に戻ってくるなり倒れたんだ」
「なんだと?」
「あれだけの戦闘をしたんだから無理もない。かろうじて基地には辿り着いたけど、コックピットからも自力で出られない有様で……皆で引きずり出した」
「そうか……。それで、奴は医務室か?」
「ああ。点滴を受けてる」
「了解した。タブロイド、お前も疲れているだろう。今は休め。正体不明機と戦闘したお前とトリガーの二名は独房行きを免除するように司令には話しておく」
 ぽかんとした顔のタブロイドを置いて基地の兵舎に向かった。行く先は医務室だ。
 バンドッグ自身もずっとAWACS内でレーダーを監視していたため目は重く頭痛もするが、それ以上に精神の高揚を感じていた。
 あのSu-30とやり合ったトリガーの動き。これまでの任務でも奴の腕は良かったが、“腕が良い”止まりだった。教えられた戦闘機動と訓練された動きを巧みに組み合わせた、言わば優等生の動きだった。それがSu-30との戦闘であいつは型を破った。これまでの自分の動きでは勝てないと、戦いながら自身を成長させた。自前の戦闘センスと負けん気でSu-30に一撃を食らわしたのだ。
 あのSu-30はどこぞのエースパイロットだろう。それも伝説級の。明らかに次元が違った。トリガーはエースパイロットの動きを見て学習していた。一段、上の世界へ行ったのだ。
 バンドッグは低く笑った。
「なら、あのSu-30には感謝しておくか……」
 自らを倒すエースパイロットを育ててくれて、ありがとうと。
 バンドッグは消毒液の匂いが充満する部屋の扉を開けた。白い壁に簡素なデスク。医官の男が一人、緑色のカーテンで遮られたベッドの前にいた。
「トリガー……スペア15が運び込まれたと報告を受けたが」
「ええ、そこのベッドに寝ています」
「容体は?」
「命に別状はありませんが激しい脱水を起こしていました。今は点滴を……」
 医官のセリフをカーテンが開く音が中断させた。トリガーがうつろな目でふらふらと上半身を起こしていた。カーテンを掴み、縋るようにして身体を支えている。
 トリガーは腕に刺さった点滴の針を自ら抜きさり、熱にうかされたように独り言を呟いた。
「俺は……まだ、飛べる……」
「何をしているんだ、スペア15!」
 医官がベッドへ戻るように怒鳴ったが、バンドッグはそれを片手で制した。
 トリガーの目がバンドッグを捉えた。うつろな瞳が意志を持ってダークブルーに輝く。
「次は、必ず……奴を倒す。倒してみせる、から……」
 力の入らない足でベッドから降りようとして身体が前方へぐらりと傾いた。バンドッグは素早く歩を進め、床に頭が激突する寸前で身体を支えた。ずっしりとした重みを両腕に感じる。その身体がひどく熱く湿っていてバンドッグの眉は皺を刻んだ。
 だらりと力の抜けた身体を抱え、白いシーツへ横たえさせる。
「トリガー、次の任務にはお前を出撃させる。だから今は身体を休めろ」
 トリガーは再びうつろな瞳を彷徨わせた。バンドッグの姿を探すように。
 熱を持った額に触れる。身体を屈めてトリガーの視界に入るように顔を近づけ囁いた。
「今は休め。……命令だ」
 前髪をかきあげて頭を撫でてやると、トリガーはどこか安心したように目を閉じた。

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