声が聞こえる。
恐怖に震える女性の声が耳元でトリガーに助けを求める。
「怖い……」
彼女のそんな弱々しい声を初めて聞いた。彼女はいつも強気で攻撃的で、同期であるトリガーに対して挑発的な態度だった。彼女が女性であるという侮りを決して許さなかった。
「メイジ2! 掩護を……!」
無線からの悲痛な叫びを聞いてトリガーは歯を食いしばった。目の前には守るべき対象があり、彼女との間には絶望的な距離があった。一秒でも早く目の前の敵を落として駆けつけようとした。
だが、「誰か掩護を」との叫びを最後に彼女の無線は途絶えた。
いや、砂が吹きすさぶようなザラザラとした無線から途切れ途切れに聞こえてくる。
「――どうして、助けてくれなかったの?」
助けたかった。動けなかったんだ。
「どうせ女のくせに生意気だとか、自分より弱いのにって思っていたんでしょう」
違う! そんなことは……。
助けたかった――助けたかったんだ。
「本当にそうか?」
別の声が、別の方向から聞こえる。理性的な男の声が憤りを滲ませている。
「君は守るべき対象を攻撃したじゃないか。私があれほどハーリング元大統領を敬愛していると知っていながら……」
俺じゃない! 俺は撃っていない……!
「嘘をつくな!」
周りから怒号が巻き起こる。お前が英雄を殺したんだと。恨み、蔑みの声が。
何を言っても無駄だった。
誰もトリガーを信じなかった。味方である隊の仲間たちでさえ、トリガーを「腕がいい」などと言って持ち上げておきながら肝心なときには庇ってもくれなかった。
トリガーは口を噤む。
自分がやったと言えば嘘になり、やっていないと言えば嘘つき呼ばわりをされた。
何度も何度も密室の中でお前がやったのだと言われ続ける。空腹と喉の渇き。ずっと同じ姿勢で座らされ身体の節々が痛む。眠ることも許されず、次第に本当に自分がやったのかもしれないと疑うようになった。自分でさえ自分が信じられなくなっていった。自分はUAVを狙ったつもりだったが、何かの間違いでハーリングの乗った輸送機を撃ち落としたのかもしれない。
だとしたら、俺は――。
いや、真実などどうでもいいのかもしれない。
俺は守れなかったんだ。ブラウニーも、ハーリングも。
それだけが真実だ――。
トリガーは目を覚ました。
ため息を吐いて額に手をやる。じっとりと汗をかいていた。手のひらで汗を拭う。喉がカラカラに干上がっていた。
見上げた先には灰色のコンクリートと錆びた鉄格子。薄っぺらいマットレスに身体を起こす。
視界の端をネズミが走っていった。
囚人たちの朝は早い。
早朝から走らされ、自分たちの居住区の清掃、洗濯。それがすめばようやく朝食。その後も爆撃で穴の開いた地面をならし、壊された施設の修繕。ダミー滑走路を描いたり整備したり――と一日は過ぎていく。
トリガーは地面をならすトンボを持って作業に勤しんでいた。そこへ共に作業に当たっていたフルバンドが近寄ってくる。
「なぁトリガー……お前がバンドッグの情夫ってのは本当か?」
トリガーは思わずむせた。
「バ……ッな――!」
「はっはっは! その反応は違うみたいだな」
フルバンドは真っ赤になったトリガーを見て「若いねぇ」とからかった。
「お前からそんな色っぽさを感じねぇから、その線はないと思ってたぜ。じゃあ、毎晩ナニやってんだ?」
「書類の整理……それだけだ」
憮然として返す。
「書類の整理? ふぅん、そりゃあいい」
フルバンドが目を光らせた。
嫌な予感がする。
がしりと肩を組まれ顔を寄せ、声を潜める。
「バンドッグの執務室を調べてぇが、やはりガードが固くてな。ヤツの端末は調べられてないんだ。……なぁ、トリガー、お前しかあの部屋に自由に入れる奴はいないんだ……わかるだろ?」
「む、無理だ!」
トリガーは真っ青になって首を振った。バンドッグの端末を調べろだと?――恐ろしすぎる。
「バレたら死ぬぞ。俺も……あんたも」
バレた時の、バンドッグから放たれる絶対零度の瞳を想像しただけで背筋が凍った。
「大丈夫だって! バンドッグがお前の腕を手放すわけねぇよ。だからお前しかいないんだ。お前だって、あの番犬野郎に一矢報いてやりたいと思うだろう?」
声を潜めたまま、組んだ肩をバシバシ叩かれる。「お前ならできる!」と発破をかける様はボクシングのセコンドじみていた。
「そこ! 喋ってないで仕事しろ!」
看守が手の止まっているフルバンドとトリガーを目ざとく見つけて怒鳴った。
「頼んだぜ」
フルバンドはそう言って離れていく。
重いため息を吐いた。
「……勝手なことばかり……」
やりたいなら自分でやってくれ、と誰も聞いていない恨み節をこぼす。
見上げた空は高く、澄んでいた。
夜、トリガーはいつも通りバンドッグの執務室に来ていた。
デスクの前でバンドッグは煙草を吹かして業務用端末に向かっている。相変わらずその打ち込みは早い。
「スペア15、仕事にかかれ」
バンドッグが顎で指す山と積まれた書類にくらくらする。
昨日、片付けたばかりなのに何故またこんなに書類が溜まっているんだ。この男の仕事量には他人事ながら感心する。
書類の分類をするには、ある程度の内容も見なければならない。任務の報告書やら、各部隊の編成。新しく入ってくる囚人の情報。それらをファイルに閉じていく。
任務の作戦立案書なんてのもある。もしかして、これまでやってきた任務の具体的な作戦立案は全てバンドッグがやっていたのだろうか。それで、あの基地司令は結果報告だけ聞いて手柄は全て自分のものだという顔をしている。バンドッグは虚しくならないのだろうか。
書類を睨みながら物思いに耽っていると、デスクから電子音が鳴った。内線電話だ。
「――ああ、わかった。すぐに行く」
バンドッグが受話器を置き、デスクから立ち上がった。
「しばらく席を外す。お前はそのまま仕事をしていろ」
それだけを告げて執務室を出ていった。
バンドッグの靴音が遠ざかる。
ただ部屋の壁に掛かった時計だけが規則的な音を奏でていた。主がいない部屋は妙に静かだった。バンドッグは黙っていても威圧的な存在感を放っていたから彼がいなくなっただけで空気が軽くなった気がする。
しんとした部屋の中、ふと昼間のフルバンドとの会話が蘇った。視線はデスクの上のバンドッグの端末に吸い寄せられた。
トリガーは誰も見ていないのに勢いよく首を振った。
駄目だ、何を考えているんだ。フルバンドに毒されたのか。バンドッグの秘密を知りたいだなんて。
他人の端末を勝手に見るなんてしてはいけない。ましてや相手はあの番犬だ。バレたら本当に何をされるかわからない。しかし何故か現状はトリガーを誘惑する。おあつらえ向きにバンドッグは姿を消した。まるで今がチャンスだぞと言わんばかりに。
さっきから心臓の音がうるさい。全身が冷たくなり、手のひらに汗が滲んだ。時計の音が妙に響いて聞こえてくる。
そうだ――時間。
ハッとした。
早くしなければ、バンドッグが帰ってくる。どうするか悠長に悩んでいる暇はない。
ほんの少しの逡巡が、トリガーには永遠にも等しく感じられた。
固まった関節を動かしてぎこちなく立ち上がる。
少しだけだ。そう心の中で言い訳をする。
バンドッグのことが知りたい。弱みでも信条でも何でもいい。自分を犬扱いする、何を考えているかわからないあの男の正体を掴みたかった。
バンドッグのデスクの前に回り込んだ。端末の画面は黒一色だった。ディスプレイがオフになっている。少しマウスを動かして画面を点灯させる。パスワードの入力を要求する画面になった。
――そうか、パスワードか。
トリガーは全身から力が抜けた。そこに思い至らなかった自分の愚かさに腹が立つ。あの情報管理にうるさいバンドッグが、ロックもせずに端末から離れるわけがなかったのだ。
試しに思いつく文字列を入れてみる。バンドッグ、444など。当たり前だが開かない。そんな誰でも思いつくパスワードにしているわけがない。
そういえば以前、任務中にフルバンドが無線で語っていた。パスワードのメモを机に貼る馬鹿はいくらでもいる。何てのは情報収集のための入り口にすぎない――と。
さすがにバンドッグはパスワードをどこかに貼り付ける馬鹿ではないだろう。だけど、何かヒントになるものはないだろうか。そう思ってデスクを調べた。
デスクの上には端末と、先ほどかかってきた電話機にメモ帳、処理した書類の山。煙草の吸い殻が入った灰皿にコーヒーの入った無地のマグカップ。その程度だ。全てが軍の支給品で私物がまったくない。普通、家族写真くらいは飾ったりするものだが。
一番上の引き出しを開けると、無造作に入っていたのは黒の制式拳銃だった。一瞬、全身が固まる。自分がしてはいけないことをしていると改めて認識させられる。
もし、こんなことをしていることがバレたら、この拳銃で今度こそ殺されるのかもしれない。バンドッグが自分に銃口を向けて引き金を引く。そんな予感めいた映像が浮かんだ。
そっと引き出しを閉じる。
後悔はある。だが、ここまで来ていまさら後には引けなかった。二段目の引き出しを開ける。事務用品が入っているだけで大したものはない。
三段目。他より深い引き出しになっているそこには黒いファイルが並んでいた。何気なくそのひとつを手に取った。
中に挟まれた書類をめくる。その一枚に自分の名前が書かれていて思わず手を止めた。
「これは……」
そのファイルには、トリガーが前にいた部隊の情報、引き受けた任務、成績にいたるまで全てが纏められていた。さらにファイルをめくる。
「“ハーリング元大統領撃墜事件・審理概要”……?」
何故、バンドッグが自分の受けた軍法会議のことを調べているんだ。彼はこの件に何か関わりがあるのか?
ファイルを持つ手が震えた。息苦しい。辺りは薄暗く、闇が迫ってくる。木霊のように反射した声が聞こえる。
「お前がやったんだろう!」と、トリガーを呪う声が。
その声をかき消すように、革靴が廊下を踏み鳴らす音が近づいてきた。
ハッとして、ファイルを急いで引き出しに戻した。端末をロック画面にし、音を立てないように元いた場所へ戻る。
書類を手に取って、さっきまで仕事をしていた風を装った。
バンドッグが扉を開けて入ってくる。ちらりとこちらに視線だけ寄こしトリガーの横を通り過ぎる。息を詰めた。
何も……何もおかしくないよな?
端末はロック画面に戻したし、ファイルも元に戻した。自分が探った形跡は全て消した。大丈夫、バレるはずがない。そう思い込まなければ、不安で居てもたってもいられなかった。口内がカラカラに渇く。
バンドッグがデスクに座り、端末を覗いた。
トリガーは書類を一枚取り落とし、慌てて拾った。
目が滑って書類の内容など一切頭に入ってこない。持つ手が震えないようにするのが精一杯だ。やっぱり自分にはこんなこと向かなかった。スパイの真似事などは。
「……トリガー」
声を掛けられる。思わず叫びそうになった。
バンドッグの視線がこちらを射抜く。
ダメだ――やはりバレた――。
何も言われていないのに、何故かわかった。ひどく怒鳴られるわけでもなく、問い詰められるわけでもなく。ただその漆黒の瞳には深い失望があった。怒鳴られるよりも、その視線はトリガーの胸を抉った。
バンドッグが席を立ち、無言でこちらへ歩いてくる。殴られるのだと察して歯を食いしばった。逃げたりはしなかった。報いを受けなければならないと自分でも思ったからだ。バンドッグの裏拳が右頬に炸裂し、脳が揺れた。平衡感覚を失くして踏ん張りきれずトリガーは硬い床に音を立てて倒れた。伏せた頭を髪を掴んで持ち上げられる。髪が数本、引きちぎられた。
バンドッグの冷めた瞳が見下ろす。
「トリガー、貴様はいつから情報をあさる狐になった。貴様は誇り高い猟犬だったはずだ」
「な、なんで……」
「何故わかったか、か? フン……端末のマウスカーソルの位置が、俺が最後に置いた位置とずれていた。それだけだ」
そんなわずかな違いで、と鳥肌が立った。それがAWACSとしての、バンドッグの嗅覚なのか。
「どうせ端末の中身までは見られなかったのだろう。貴様では無理だ。だが問題はそこではない。貴様が俺を裏切ったことだ。……おいたが過ぎたなトリガー」
幼児に語るように言われてカッとなった。あるいは内心の後悔や罪悪感から目をそらしたかったのかもしれない。
「殺したければ殺せばいい。俺はあんたの犬でも何でもない」
眼に力を込める。喧嘩は気迫だ。弱みを見せればやられる。
「……確かに貴様は死を恐れてはいないようだな。死を恐れていては、あの飛び方はできまい。ならば、“飛べなくなる”のはどうだ?」
どくりと心臓が強く打った。
「お前を独房へ閉じ込めよう。貴様はあの狭い壁の中で、小さな灯り取りの窓から空を眺めて暮らすんだ……一生な」
トリガーの目は信じられないことを聞いたように見開かれた。そんなことが可能なのか? ――馬鹿な。人権は――と考えて、自分はただの犯罪者で、こいつは任務に支障が出るなら人を殺すことも厭わない人間だったと思い出す。
身体がカタカタと震えだした。
「やめて、くれ……」
トリガーは銃口を突きつけられたように怯えた。
バンドッグは声を荒げなかった。慈しみすら感じる静かな口調で語りかける。
「俺にはその権限があるんだ、トリガー。貴様を塀の中で一生飼い殺しにしてやる」
これは脅しじゃない。バンドッグがその気になれば、いつでもトリガーから空を奪うことができるのだ。この男の監視下でただの肉塊となりはてる自身が脳裏に浮かぶ。
トリガーの腕がバンドッグの襟元をつかんだ。溺れかけた人間が助けを求めるように、指先が白くなるほど、強く。
「頼む……それだけは……っ、俺から空を取り上げないでくれ……!」
ほとんど涙声だった。犯罪者と蔑まれ牢に入れられても、それでも自分を見失わないでいられたのは空を飛べたからだ。
バンドッグの胸元を掴んでいた手が力を失くしてズルズルと床に落ちる。トリガーは冷たい床に顔を伏せ懇願した。
「何でもする……何でもするから」
頼む――と。
バンドッグの前で犬のように背中を丸めてうずくまった。
肺を引き絞るような短い呼吸が空気を震わせ、コンクリートの床にこぼれた雫が黒い染みとなって広がっていく。
「まったく、救いがたいほど愚かな男だ……お前は」
バンドッグのため息が降ってくる。
頬を伝う涙。それを拭う指は、温かかった。

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