バンドッグの家 二日目

 潮騒が遠くに聞こえる。
 トリガーはくしゃみをした。床に薄いマットを敷いただけのベッドとも言えない代物で寝ていたせいか、身体が痛かった。固まった関節や筋肉を軽くストレッチして元に戻す。
 昨夜はよく寝られなかった。それはこの硬い床のせいだけではなかった。
 トリガーは起きて身支度を整えると、キッチンに向かった。
 キッチンのカウンターテーブルに人影があってぎくりとした。バンドッグがすでに起きてコーヒーを啜っていた。その足元に、サージが横たわっている。
「あ……バンドッグ、早いな。もう起きてたのか」
「お前が遅いんだ、マヌケ」
「そっか。悪い」
 なんとなくバンドッグの方を見れなくて、壁に掛けられた時計を見た。八時を過ぎている。居候の身でゆっくり寝過ぎてしまったか。
「朝飯、なんか作ろうか。何がいい?」
「食えれば何でもいい」
 そっけない答えが返ってくる。
 トリガーは細長いパンを手に取るとトースターへと突っ込んだ。少し焼いたパンの側面を切り裂き、そこへハム、チーズ、レタス、トマトを挟む。ただのサブ・サンドイッチだが、片手しか使えないバンドッグでも食べやすいように配慮したつもりだ。
 バンドッグは出されたそれを美味いとも不味いとも言わず、無言で咀嚼した。
 昨日のカレーの作り方を見る限り、バンドッグはもしかしたらかなり料理が上手く美食家なのかもしれない。だけど、トリガーが作った何の工夫もないサンドイッチを文句も言わず食べてくれる。そういう優しさが、トリガーの胸を苦しくさせる。
 朝食を取る二人の間には重苦しい沈黙があった。トリガーは何かを話しかけるべきか、バンドッグの顔色をうかがった。朝日が床に反射してバンドッグの顔を照らしている。その彫りの深い眉間には縦皺がくっきりと刻まれていた。どことなく顔も青白いような気がする。もしかしたら体調が良くないのかもしれない。
 バンドッグはたとえつらくても素直につらいとは決して言わないだろう。
 トリガーは急いで朝食を食べ終えて、サージのリードを持った。
「サージの散歩に行ってくる」
 そうひと声かけて家を出た。
 朝の爽やかな日差しが寝不足のトリガーの瞳に突き刺さった。隣を歩くサージの歩幅に合わせてゆったりと歩く。なるべく時間をかけた方がいいだろう。バンドッグにゆっくり休める時間を少しでも提供するには。
 ため息を吐くと、サージがこちらを見上げて首をかしげた。
 ――何をしているんだろうな、俺は。
 胸の中で呟く。
 バンドッグの助けになるためにこの家に押しかけて来たのに、助けになるどころか彼の負担にしかなっていない。料理だって左腕が使えなくても買ってきたりデリバリーを頼めば済むわけだし。
 そこまでわかっていて、けれどあの家を出ていく選択肢を自分は取れない。彼から決定的な言葉を言われるまではあの家にいたいと思ってしまう。
「この家を出ていけ」と、バンドッグが言わない限りは。
 腕時計を見ると三十分を過ぎていた。物思いにふけってゆっくり歩き過ぎていたらしい。
 通りかかった小さな公園に寄る。そこでサージに水をやった。
「サージ、疲れてるか? ……少しここで休んでいっていいか?」
 そう声をかけると、サージは言葉を解したかのようにひと声鳴いた。ベンチに腰掛ける。サージは足元に寄り添うように伏せた。
 帰ったら「散歩が長すぎる」と怒られるだろうか。だけど、少しでも長くバンドッグに休んでいてほしかった。

公園から家に戻ると、家の前に大きなトラックが止まっていた。作業着を着た人間が二人、門の前で途方に暮れたように立っていた。不審に思って尋ねる。
「あの……この家に何か用ですか」
「あ、このお家の方ですか? よかった、誰も出ないのでお留守なのかと」
 聞くと、業者は注文された家具を運んできたらしい。家具とは何かと聞くと、ベッド一式だった。バンドッグから聞かされてはいないが、おそらくトリガーのものだろうと察した。
 胸のうちが温かくなった。昨夜は冷たい床の上で寝させられたことが、なんだか彼からの無言の拒絶のように感じられてつらかった。だけど彼はちゃんとトリガーのことを考えていてくれた。急だったからベッドが間に合わなかっただけで、トリガーを受け入れるつもりでいてくれた。それが今は胸に染み入るように嬉しかった。
 業者にベッドを家の中に運んでもらう。トレーニングルームのマシンを端に寄せ、ベッドを設置した。これで今日は冷たい床に寝なくてよくなったと安堵した。
 業者が帰って行った後、家にしんとした静けさが戻る。
 違和感に気づいた。
 バンドッグはどこへ行った? 家にいるはずじゃないのか。
 そもそも普通なら家主の彼が出て業者を指図するはずだ。それなのに彼の姿をまったく見ていない。ベッドを運び込むのにあれだけ騒がしくしていて気づかないわけがない。
 トリガーは胸騒ぎがした。
 ふと気づくと、さっきまでいたはずのサージもいなくなっていた。
「サージ? サージ、どこだ」
 辺りを見回しながらリビングで声をかけると遠くで小さくクゥンと鳴く声がする。
 廊下に出て声のした方に進む。一番奥の茶色の扉。トリガーにとって不可侵の、バンドッグの寝室の前。サージが扉を前足で引っかいていた。バンドッグがそこにいるとサージが教えてくれている。
 トリガーは生唾を飲み込み、寝室の扉をノックした。だが返答は何もない。耳を澄ますが、部屋からは物音ひとつ聞こえない。トリガーの身体から血の気が引いた。
「バンドッグ、大丈夫か!?」
 煩いくらいに扉を強く叩く。その後、息を殺して返答を待つ。それを何度か繰り返した。
 何も……何も聞こえない。この中に確かにいるはずなのに。
 中で倒れているのか? だとしたらどうする。トリガーの心臓は早鐘を打った。嫌な汗が滲み出て手のひらをじっとりと濡らす。
 バンドッグは「寝室には絶対に入るな」と厳命した。「入れば撃ち殺す」と。それは冗談じゃなかった。バンドッグの命令は絶対だ。ならばトリガーにできることは何もない。ここで彼が自分から出てくるのを待つしか――。
 トリガーは扉に頭を押しつけた。足元にはサージが座り、時折悲しげに鳴きながら扉を引っかいている。
 まるで同じだった。
 扉の前で、何もできずにいる自分と。
 自分の腕ではこの目の前の大きな扉は開かない。犬は飼い主に忠実だ。ここで待てと言われたならば、死ぬまで動けない。動いてはいけない。 飼い主の命に危険が迫っていても、ただ帰りを待つしかできないんだ。
 それが犬の忠節だ。バンドッグがトリガーに望んでいる犬の姿だ。
 トリガーは固く目をつぶった。歯を食いしばる。
 ――だったら、俺は犬にはなれない。
 ゆっくりと目を開き、扉を睨みつけた。
 バンドッグになら、撃ち殺されたとしても構うものか。
 寝室の扉のドアノブに手をかけた。
「バンドッグ、入るぞ!」
 そう怒鳴って扉を開ける。
 寝室は薄暗かった。分厚いカーテンに遮られ、朝の光はほとんど入っていない。几帳面なバンドッグらしく綺麗に片付けられた寝室の中で、中央に置かれた大きなベッドのシーツの乱れようだけが彼の苦しみを物語っていた。
 バンドッグはベッドに仰向けに横たわっていた。サージと共に近くへ寄る。
「バンドッグ、大丈夫か!?」
 荒い呼吸音が聞こえる。首筋をさわり脈を確認する。指先にしっとり濡れた熱い肌が触れた。
「救急車、呼ぶか?」
「……やめろ」
 必要ない、とバンドッグが荒い息の下からしゃがれた声で言う。意識はあるようで安堵した。
「入ったら……殺すと、言ったはずだ……」
 バンドッグがこちらを睨む。だがトリガーにはそれがまったく恐ろしく感じなかった。
「ああ、殺せばいい。あんたが元気になった後でな」
 バンドッグは顔を歪めて短く笑った。
「貴様は“命知らず”、だったな。だったらこんな命令……何の意味もないか……」
 自嘲するように言う。
「違う、バンドッグ。俺は、死ぬのが怖くないわけじゃない」
 バンドッグの痛めていない右腕に触れる。熱があって熱いそこへ額を押し当てた。バンドッグの汗と煙草の混ざり合った匂いが強くする。
「あんたの役に立てないこと……いや、必要とされなくなることの方がよっぽど怖いんだ……だから」
 目頭が熱くなり、鼻の奥がつんとする。バンドッグに悟られたくないのに、声が震えてしまう。
「つらいなら、休んでくれよ。俺のことは……気にしないで」
 みっともなくグズグズと鼻をすすり泣いた。バンドッグが休めない原因は自分なのに、まるで彼が悪いみたいに言ってしまった。どこまでも利己的な自分が嫌になる。
「……薬を」
 バンドッグの声にハッと頭を上げ、こぼれた涙を拭った。ベッドサイドに置かれたテーブルから鎮痛剤を取り出す。薬を飲むために上半身を支えて起こす。バンドッグは痛みのためか、歯を食いしばって呻いた。
「あんまり薬が効いてないのか?」
 サイドテーブルに薬のシートが散らばっている。
「……そうだな。効くのは、飲んだ最初の数時間……だけだ」
 薬に対して耐性もできて、飲み始めた頃よりも効きが悪くなっているのかもしれない。トリガーは痛みや熱を耐えるしかないバンドッグの苦しみを想像した。弾が当たったのが自分だったらよかったのに。彼の苦しみを半分でも引き受けられたらよかったのに――と。
 薬を飲んだバンドッグはまたベッドに横になった。目を閉じた彼はトリガーに向かって犬を払うように手を動かした。
「出ていけ。……少し眠る」
「……わかった」
 トリガーは何度も振り返りながらサージと共に寝室を出た。
 その日は、夕方近くになるまでバンドッグが寝室から出てくることはなかった。トリガーは永遠にも感じる長い時間をリビングのソファーから動かずに過ごした。
 命令を破って寝室に入ってしまった。彼が起きたら今度こそ「命令を聞かない犬はいらん」と言われるのかもしれない。この家を出ていかなければならないのかもしれない。今はその時をただ待っているだけの時間に思えた。
 トリガーは時折浮かんでくる涙を拭った。慰めるように頬を舐めるサージを、ただ抱きしめた。

夕方、日が陰ってきたリビングは薄暗かった。ずっとサージを抱きしめていたが、いつしかうたた寝をしてしまっていたらしい。瞼を手でこする。膝の上ではサージが顎を乗せて寝ていた。サージの耳がピクリと動く。目を覚ました――いや、そもそも寝ていなかったのか? サージはリビングの扉を見て小さく鳴いた。その扉を開けてバンドッグが現れた。
「何をしてる。電気くらいつけろ」
 バンドッグが照明のスイッチを入れると暗かったリビングがパッと照らされた。まぶしくて目を細める。
「バンドッグ……もう起きて平気なのか?」
「ああ。久しぶりによく寝られたせいか、体調はかなり良くなった」
 本当なのか。そんな数時間寝た程度で回復するのかと疑った。起き上がれないほど弱った彼をさっきこの目で見たのだから。またバンドッグが強がっているのではないかとじっと見つめた。
 青ざめて脂汗をかいていた顔は、頬に血色が戻っている。呼吸も一定で無理をしている感じはしない。こちらに歩いてくる身体の動きもスムーズで、痛みを堪えている様子もなかった。嘘をついているわけではなさそうでホッとした。
「あ……腹減ってるよな。何食べたい?」
「昨日のカレーが残っているだろう。それでいい」
「え、大丈夫か? 熱があっただろ。もうちょっと身体に優しいものとかの方が……」
 カレーにはスパイスがたっぷり入っている。熱や痛みを刺激しないか不安になった。
「食えれば何でもいい」
 そう言い張るバンドッグに苦笑する。几帳面なくせに変なところで大雑把だ。そういえば彼は朝食の時もそう言っていた。
 トリガーは昨日のカレーが入った鍋を火にかけて温めた。
 夕食を食べてしばらくした後、バンドッグが包帯を外せと言ってきた。シャワーを浴びるのだなと察してトリガーは昨日と同じように丁寧に包帯を解いた。
 上半身を裸にして、防水シートを貼り終えた後にバンドッグが言った。
「来い」と。
 何のことかわからず戸惑うトリガーの腕をバンドッグが掴んで引っ張っていく。
 そこはバスルームだった。
 そして脱衣所で「服を脱げ」と言われる。トリガーはそこでようやく風呂の介助をしてほしいということだと察した。だが、どうして急に? バンドッグが急に態度を軟化させた理由がわからないし、心構えができていなかった。
 風呂の介助は、別に俺も脱ぐ必要はないんじゃないかと思ったが、バンドッグが脱げというなら脱ぐしかないのである。
 羞恥を堪えて服を脱ぎ去る。バンドッグも片腕しか使えないなかで自分のズボンを下げていた。本当はトリガーが手伝うべきなのに恥ずかしくてできそうになかった。情けないことだが。
 なるべくバンドッグの方を見ないように視線を反らす。
 二人で裸になり、バスルームに入った。バンドッグはトリガーの腕を掴んでバスタブの中に先に押し込んだ。壁にかかっていたシャワーヘッドを外すと湯の出る方の蛇口をひねった。その湯をトリガーの顔面に向かって勢いよく射出する。
「ぶ……ッ、わ、ちょ……っ!」
 自分にかけられるとはまったく想像もしていなくて、鼻の中にお湯が入ってしまった。つんとして痛い。目が開けられない。うつむいて顔をシャワーの直撃から守るしかなかった。湯が頭からかけられて、髪の毛に浸透していく。
「フン、貴様があまりにも情けないツラをしているからだ」
 ハッとする。バンドッグに捨てられるのかもしれないと怯えて泣いていたのがバレている。羞恥で顔が熱くなった。
 バンドッグはトリガーの頭にシャンプーの液を乗せて片手でがしがしと擦りだした。
「ちょ、ちょっと、あんたが俺を洗うのかよ」
 普通は逆だろうと心の中でつっこんだ。バンドッグの手つきは、大型犬を洗うときのそれだ。力任せで容赦がない。痛いくらいだが、それに愛情を感じるのは自分がおかしいのだろうか。ひとしきり洗われた後、シャワーで泡を流される。爽やかな石鹸の香りが辺りに満ちた。
 ふるふると濡れた頭を振って水気を飛ばす。それを見たバンドッグが「本当にお前は犬のようだな」と小さく笑った。
 バンドッグが嘲笑ではなく笑ったのを初めて見た。その笑顔はトリガーの胸の奥に小さな炎を灯した。
 今度は自分がバンドッグを洗う番だった。シャンプーを手に取って泡立てる。バンドッグの短く切りそろえられた髪に触れた。少し硬くてチクチクする。まさかバンドッグの髪を洗うなんて――とおっかなびっくり触っていたら「もっと力を入れろ」と怒られる。
 バンドッグの方が十センチくらい背が高いから両手を上げて洗わなくてはならなくて腕がだるい。屈んでくれないかな、と思っていると、バンドッグがボディソープを手のひらに取りトリガーの身体に撫でつけた。ぬるついた手が身体を滑る感触がこそばゆい。
「……っ、だから、俺はいいんだって」
 なんで俺の方が洗われてるんだよ、と照れ隠しにバンドッグをなじる。すると、彼は息を吐くようにして笑った。

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