バンドッグの家 一日目

 その家は、海の見える高台にあった。
 トリガーは門前でバイクを止めた。インターホンを鳴らすと「入れ」と低い声がスピーカーから聞こえた。同時に門扉が自動で開いていく。若干の躊躇いを感じつつも、門の中へバイクを押して入っていった。
 家は平屋の一軒家。家に面した庭には何もない。一面が芝生で覆われていた。ガレージにバイクを止めて、玄関にまわる。
 玄関の茶色い扉の前で生唾を飲み込んだ。
 とうとう来てしまった――。
 わがままを言ったのは自分だが、いざその時が来ると緊張した。扉に手をかけて開こうとしたとき、内側から扉が開いて驚く。
 扉を開けたのは、黒いTシャツを着たバンドッグだった。左腕に黒のアームホルダーをして首から下げていた。
「何をしている。さっさと入れ」
「あ、ああ……」
 見慣れないラフな格好をしたバンドッグに新鮮さと違和感を覚える。バンドッグの背に続いて中に入った。中はとてもシンプルな内装で、飾り気はひとつもなかった。木の幹を思わせる茶色で統一された内装。そこに煙草の匂いが染みついていて、彼のテリトリーに入ったのだと強く感じた。
 バンドッグは最初、トリガーの訪問には強く反対した。
 ことは数日前にさかのぼる。バンドッグの基地で暗殺者に狙われたが、その時バンドッグが撃たれて左腕を負傷してしまった。医師によると傷はかなり深く、骨にヒビが入っていた。しばらくは基地の病院で入院が必要なほどで仕事は当然できない。一カ月間の自宅休養を余儀なくされた。
 トリガー自身は暗殺未遂事件のせいで無断でバンドッグの基地に遊びに行っていたのがバレてしまい、ロングキャスターや基地司令にこっぴどく叱られた。そして数週間の謹慎を食らったのだった。
 一度だけ、基地司令に許可を貰い入院中のバンドッグの見舞いに行ったのだが、アームホルダーで固定され、左腕が全く使えなくなった姿が痛々しくてならなかった。バンドッグの傷はトリガーを庇ったせいだ。だから身の回りの手伝いを申し出たのだが、強く拒否された。バンドッグのことだからそう言うのはわかっていた。だからトリガーはバンドッグの上司である基地司令と自らの上司に掛け合った。謹慎期間中にバンドッグの身の回りの世話をしたいと。彼らから了承を貰い、上司らを使ってバンドッグを説得させたのだった。
 バンドッグは上からの命令には逆らえない。
 我ながら卑怯な手を使ったと思う。
 バンドッグに部屋を案内される。「お前はここを使え」と言われた部屋には、パワーラック、エアロバイクなどの本格的なマシンが置いてあった。トレーニングルームだ。
「適当に片付けて寝る場所を確保しろ。お前がトレーニングしたいなら器具は勝手に使えばいい。俺は、今は使えんからな」
 固定された左腕を見て言う。胸がずきりと痛んだ。
「バンドッグ……」
 何かを言おうと口を開いたとき、背後から何者かが近づく気配がして振り返った。バンドッグは独身の一人暮らしのはず。誰かがいるはずはない。
 振り返ったトリガーの胸に重たい衝撃。ずっしりと前足がかかっていた。ハッハッと息を切るような忙しない呼吸音。つぶらな瞳がこちらを見上げていた。
「うわ――犬!?」
 トリガーは驚きのあまり背を反らした姿勢で固まった。茶色と黒の毛並みに、知性を感じる瞳。ジャーマン・シェパードだ。 
「やめろサージ。伏せ!」
 バンドッグがそう言うと、犬はさっと言うことを聞いた。廊下にぺたりと伏せる。バンドッグは命令に従った犬の頭を右手で撫でてやっていた。
「え、バンドッグ、犬飼ってんの?」
 あまりにも意外すぎる。あの、囚人を容赦なく殺すバンドッグが犬を可愛がっているだと?
「俺の犬ではない。戦時中に死んだ部下の犬だ」
「え――」
「部下は身寄りのない奴で、飼っていた犬の引き取り手がなかった。一時は保護施設に預けたが、もう老犬で他人に懐かなかったらしいな。引き取り手が決まらなくて戦後から俺が預かっている」
「懐かなかった? そうは見えないな」
 トリガーに飛びついて来た姿は可愛かった。
「そうだ。俺にはすぐに懐いた。おそらく、俺が軍人だからだ」
「あ……」
 飼い主と同じ匂いがしたから。だからトリガーにも最初から友好的だった。身体に染みついた硝煙の匂い、オイルの匂い――そして命令と規律に縛られた人間の匂い。
「行くぞ」
 バンドッグが声をかけるとすぐに立ち上がり、その横をついていく。無駄のない、訓練された犬の動きだった。
「名前は、サージ?」
「フン、部下がつけていた名だ。“軍曹”」
「ああ、サージェントの略か」
 自分が呼ばれたと思ったのか、犬の耳がピクピク動く。
 リビングに入ると犬――サージは茶色の革張りのソファーに飛び乗った。居心地のいい場所を探るようにくるくる歩き回ってから伏せる。そこが彼の定位置らしかった。バンドッグはもうひとつのL字に置かれたソファーに座る。それが彼らの普段の距離感なのだろう。決して馴れ合わず、けれどつかず離れずの距離だ。
 トリガーはどこに座るべきか迷った。バンドッグの隣も、犬の隣もなんだか違う気がする。自分はここでは犬よりも新参者で、バンドッグにも歓迎されていない存在――そう思うと情けなかった。
「何をぼさっとしている。コーヒーでも淹れろ」
「あ、ああ……」
 バンドッグが右手のみで煙草を箱から取り出し、ライターで火をつけていた。
「……といっても場所がわからんか。面倒な」
 舌打ちをして席を立ったバンドッグはトリガーをキッチンへ案内した。「一度しか言わんから死ぬ気で覚えろ」と、物の場所と、バンドッグが好むコーヒーの淹れ方を叩き込まれた。
「そうだな……お前にサージの散歩もやってもらうか。朝晩の二回だ」
 トリガーの手伝いを拒んでいたわりに、色々な仕事を押しつけられる。いや、そのために来たのだから構わないのだが、なんだか釈然としない。
「夕飯はどうするんだ?」
「俺に右手のみで料理をしろと?」
「いや……ていうか、あんた料理できんの!?」
「当たり前だろう。料理くらいできんでどうする。――で、そういうお前は?」
「あ……カ、カレーくらいなら……?」
 笑って誤魔化すトリガーに、バンドッグは盛大なため息と胡乱な眼差しを向けた。
「貴様、その体たらくでよく俺の面倒を見るなどとほざいたな」
「はは……あ、買い出しと、犬の散歩だっけ。ついでに今から行ってくるよ」
 トリガーは追求から逃れようと慌てて出かける用意をした。玄関先で「待て」とバンドッグに声をかけられる。渡されたのは黒のサングラスだった。「外ではなるべく顔を隠せ」と厳命される。トリガーは未だ暗殺者に狙われているからだ。
「散歩は三十分程度できり上げろ。サージは老犬だ。そんなに長い距離は必要ない。道はサージが知っているだろう」
「了解。じゃ、行ってくる」
 リードを持ってサージと玄関を出る。門扉で後ろを振り返るとバンドッグが玄関から一人と一匹をじっと見送っていた。

 スーパーで買い出しを終え、バンドッグの家に戻った。取り敢えず今日はトリガーでも問題なく作れるはずのカレーにすることにした。
 キッチンに立つトリガーをバンドッグが仁王立ちで監視していた。ちゃんとできるか不安なんだろうか?
 ――失礼な。カレーくらいさすがの俺でも作れるさ。
 そう胸のうちで毒づいた。
 だが玉ねぎを切り出したところからバンドッグは口を出してきた。
「なんだその切り方は。きちんと幅をそろえろ。根本を取れ!」
 人参の切り方からじゃがいもの皮の剥き方、玉ねぎの炒め方。全てにおいて駄目出しをされる。正直、トリガーには何が違うのかよくわからない。煮込めば同じだろうと思う。しかし、ここはバンドッグの家であり、彼の面倒を見ると言い出したのは自分だった。「うるせぇ、黙ってろ!」と何度も怒鳴り返したくなったが、ぐっと我慢した。
「玉ねぎを焦がすな、マヌケ!」
 こうしてバンドッグの「グズ、ノロマ、下手くそ」などの罵声を浴びていると懲罰部隊で彼の指揮で飛んでいた頃を思い出す。バンドッグはこれだけ口が悪いから囚人たちに嫌われていたかというと、そうでもなかった。怖がられてはいたが。本当に嫌われていたのはマッキンゼイの方だ。あの男は囚人たちを自分が出世するための道具としてしか見ていなかった。自分ひとりが良ければいいと。そういう奴はどこへ行っても嫌われる。
 バンドッグの罵声には不思議と嫌味がないように感じる。だからこそ、たまに褒められたときには妙に嬉しくて――。
「トリガー、ぼーっとするな!」
 頭を殴られた。
 バンドッグが戸棚から出してきたのは赤茶や黄土色の粉が入った小瓶だった。
「クミン、コリアンダー、ターメリック。お前は初心者だからな。取り敢えずこの三種類のスパイスで作る」
「スパイスから作るのかよ……」
 本格的すぎてドン引きした。カレールーを買ってきたが無用だったようだ。
「お前、辛いのは平気か?」
「まあ、カレーは辛いほうが好きかな」
「ならば……」
 バンドッグのカレー講座は続いた。
 リビングではソファーに伏せていたサージが黒い鼻をヒクヒクさせて、小さくクゥンと鳴いた。
 そうして出来上がったカレーは自分で作ったとは思えないほど美味かった。とろけるような肉の柔らかさに、スパイスの香り高さに感動した。バンドッグは「フン、まあまあだ」と言っていたが、バンドッグが自ら作るとどれだけ美味しいのか。トリガーはいつか食べてみたくて仕方なくなった。
 
 食後にバンドッグが好む淹れ方で淹れたコーヒーを飲み、洗い物を片付ける。そういえば、今まで洗い物はどうしていたのだろうか。片腕では皿洗いもままならないと思うのだが。
 「バンドッグ」
 リビングのソファーに座り煙草を美味そうに吸っているバンドッグに声をかけた。
 「何だ」
 「風呂に入るなら言えよ。手伝うから」
 「……いらん」
 苦虫を噛み潰したような低い声が返ってきた。
 「いや、いるだろ。ていうか、むしろそれがメインだろ? あんた一人じゃ服を脱ぐのも大変そうだし」
 「これまでも一人でやってきたし何も問題はない」
 トリガーは濡れた手をタオルで拭いて、リビングにいるバンドッグの側に移動した。
 「問題ないかもしれないけど、他人にやってもらった方が明らかに早いし効率はいいだろ。……包帯も変えないと」
 バンドッグの左横に座り、アームホルダーを外すように要求する。バンドッグはしばらくこちらを見ずに煙草を吹かしていた。トリガーは無言でじっとその横顔を見つめ続ける。バンドッグは諦めたようにため息を吐いた。黒のアームホルダーを首から外す。
 トリガーは上腕に巻かれた包帯を傷に触らないようにゆっくり解いた。傷口は前と後ろの二箇所。ガーゼを外すと弾が貫通した赤黒い跡がある。触れた肌は少し熱を持っていた。紫色に変色した皮膚を見ると腹の奥がキュッとなった。目をそらしたくなるような痛々しい傷跡だったが、眉間に力を込めて耐えた。縫合された傷口を見て膿んでいないかを確認する。感染症にかかると危険だ。今のところ大丈夫そうでホッとした。
 「その防水シートを貼れ」
 バンドッグに言われて傷口を保護する防水シートをガーゼの上から貼り付ける。傷口は絶対に濡らしてはいけないからだ。
 防水シートを貼り終わったら、バンドッグの着ていたTシャツに手をかけた。左腕は動かせないので、まずは右腕からだ。下からまくり上げて、布の伸縮を最大限使って右腕を通そうとする。
 「……っ」
 バンドッグが息を詰めた。
 「痛かった……?」
 「いちいち止まるな。一気にやれ」
 唸るように言う。確かに、こういうことはちまちまやると余計に痛みが長引くだけだ。バンドッグの言う通り、ひと息にやる方が彼のためだろう。覚悟を決めて、Tシャツを引っ張り右腕を通した。そして頭を抜き、最後にそっと左腕を通す。
 脱ぎ終わると二人してため息を吐いてしまった。ひと仕事終えた気分だ。
 バンドッグは上半身裸のまま「シャワーを浴びる」と言いリビングを出ていった。片腕ではやりにくいだろうから頭や身体を洗うのを手伝ってもよかったが、あの調子では絶対に許さないだろうという気がして言わなかった。
 シャワーから上がって来たバンドッグの左腕に新しい包帯を巻き、自分もシャワーを浴びてその夜は就寝することになった。
 寝室に向かうバンドッグに「何があろうと絶対に俺の寝室には入ってくるな」と厳命された。「入ったら撃ち殺す」とも。冗談を言っている目ではなかった。家には入れても、自分が最も無防備になる寝室には誰も入れたくないのだろう。それもバンドッグらしい――と思ったのだが。
 夜中、廊下に物音がしてトリガーは目覚めた。トリガーはトレーニングルームの一角にマットを敷き、ごろ寝していた。廊下に、チャッチャッという独特の足音がした。爪が床にこすれる音。サージが歩く音だった。音はトリガーの寝ているトレーニングルームの前を通り過ぎ、奥の部屋に向かった。止まったのはバンドッグの寝室の前だ。カリカリと扉をひっかく音がする。しばらくして、寝室の扉が開く音と、閉まる音がした。足音は中に入っていって聞こえなくなった。
 サージがバンドッグの寝室に入っていった。
 自分には絶対に入るな、入れば撃ち殺すとまで言っていたのに、犬は部屋に入れるのだ。
 その事実に打ちのめされる。
 わかっている。自分は新参者だし、バンドッグに無理やり言うことを聞かせてここにいるだけだから。彼を手伝いたいなんて言ったが実のところ手伝いなんていらなかった。バンドッグは一人でも全く問題なく生活できているのだから。それが今日、一緒にいてよくわかった。
 自分は罪悪感を盾にして、ただバンドッグの側にいられる口実が欲しかっただけだった。
 冷たいフローリングの床から守るように、トリガーは横たわった身体を丸くした。
 早く朝になれと願いながら。


 
✶ ✶ ✶
 
 


 バンドッグはズキンズキンと脳髄まで響くような痛みで目が覚めた。心臓が脈打つのに合わせて左腕の傷が痛む。痛み止めがきれてきている。
「く……っ」
 うめき声を微かに漏らした。全身が汗でしっとり濡れている。熱が上がっているようだった。
 傷を負ってから微熱は常にあったが、トリガーには弱みを見せたくなくて昼間は気を張っていた。その反動か。寝室で一人になり気が緩んだせいか、痛みや熱がどっとバンドッグを襲った。半身をベッドに起こすのさえ辛かった。身体を少し動かすだけで痛みが身体を突き抜ける。
 扉をカリカリと引っ掻く音がして身体を強張らせた。一瞬、トリガーかと思ったからだ。だが、この爪で引っ掻くような音は違う。
 痛みを堪えて起き上がる。バンドッグは寝室の扉を開けてやった。そこにいたのはやはり、犬のサージだった。
 サージは口に白い袋を咥えていた。バンドッグがいつも飲んでいる痛み止めの薬だ。痛みに呻いている微かな気配をリビングにいたはずのサージは感じ取ったのだろうか。
 薬を受け取る。ベッドサイドに置いていた生ぬるいペットボトルの水と共に薬を飲み下す。
「……お前は賢いな。爪の垢を、あの駄犬に飲ませてやりたいくらいだ」
 そう呟いて頭を撫でてやると、サージは嬉しそうに尻尾を振った。

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