8.エピローグ

 煙草に火をつける。
 ひと息、肺に吸い込んで吐き出すと頭がすっとクリアになる。唇に煙草をくわえたまま、右手で換気扇のスイッチを入れた。この間、この執務室に入ってきた部下が言ったのだ。「煙草を吸われる時は換気扇を回してくださいね」と。
 ああ、まったく。
 換気扇を回さなければならないなどザップランドにいたときには思いもしなかった。自分もいつの間にかあの砂と埃にまみれた基地にずいぶんと毒されていたらしい。振り返ってみるとそう思う。
 デスクには部下の淹れてくれたコーヒーが湯気を立てていた。それと、置かれた各社の新聞。気の利いた部下だ。さすがは正規部隊といったところか。
 新聞のトップを飾っているのは戦闘機。F-22ラプター。いつの間にか最新鋭の戦闘機すら乗りこなすようになっているらしい。それだけ上層部からの期待も大きかったのだろう。尾翼には三本の爪痕が白く描かれていた。遠目からでもはっきりわかる派手なエンブレムだった。
 戦争の最中にもバンドッグの耳に噂は届いていた。
 “オーシアのふたつ頭”。
 “三本線についていけば生き残れる”。
 そういった声は次第に大きくなっていった。
 ミーハーの気のある部下が言った。
「この三本の線――爪痕にはどんな意味があるんでしょうね」と。
 これは罪線だと教えてやったら部下はどんな顔をするだろうか。
 三本線の英雄が元は犯罪者として懲罰部隊にいたことは秘匿されている。懲罰部隊という存在はオーシア軍にとっての暗部であり、ましてや英雄と奉られる奴が冤罪を被っていたなど決して公にはできなかった。バンドッグとかの英雄がかつて同じ基地にいた事実は、闇に葬られ二度と掘り起こされることはないだろう。
 バンドッグが息を吐くと、新聞の一面を飾るラプターが煙で白く霞んだ。
 誰かが執務室のドアをノックした。
「入れ」
「失礼します」と入室してきたのは、先ほどコーヒーを淹れた部下だった。困惑顔で首を傾けると顎のあたりで短く切りそろえられた髪がなびいた。
「お客様が面会に参られておりますが、いかがいたしましょうか」
「客だと? そんな予定はない」
「は、はい。アポイントメントはありませんが、どうしてもとおっしゃって。別の基地からいらっしゃったそうです」
 アポも取らずに訪ねてくるなど非常識な。バンドッグはそういう輩が嫌いだった。自分の知り合いにそんなことをする人間はいない。ならば追い返しても問題あるまい――と、部下に断らせようとした。
「“トリガー”と言えばわかるとおっしゃって……」
 目を見張る。
 肺に吸い込んだ煙をむせなかった自分を褒めてやりたい。眉間に盛大なシワが寄る。それを見た部下が慌てて言った。
「あっ、お、お断りですよね、そうですよね!」
 バンドッグの地雷を踏み抜いたと感づいたらしい部下は返事を聞く前に部屋の外へ下がろうとした。
「待て」
「――えっ」
「どこだ」
「えっ……あ、応接室にお通ししました……」
「わかった」
 煙草を灰皿に押しつけて消し、執務室を出る。バンドッグの早歩きに部下の小走りな足音がついてくる。
 なぜ自分のいる場所がわかったのか。何をしに来たのか。わからないが、あいつはいつも厄介事を連れてくる。
 バンドッグはため息を吐いた。
 応接室に着いたが、そこには飲みかけのコーヒーがあるだけで誰もいなかった。
「おい……あいつはどこへ行った」
 バンドッグの声が地の底から響くように低くなる。
「あ、あら? 確かにこちらにお通ししたのに……一体、どこへ」
 バンドッグはすぐさま応接室を出て部下と共にトリガーを探して回った。青筋を立てて歩き回るバンドッグに兵士たちは何事があったのかと恐れ慄き道を開ける。
 建物内は粗方探し回ったが見つからず、外へ出た。
 すると滑走路が見えるハンガーの手前、探し求めた背格好の男がどこか見覚えのある茶色のジャケットを羽織って立っていた。
 その背に向かって思わず怒鳴る。
「トリガー! 勝手に他部隊の基地をうろつくな! 独房にぶち込まれたいか!」
 つい昔の癖で「独房」と口にしてしまい舌打ちをする。ジャケットを羽織った背がピクリと震えてゆっくりと振り返った。
「……懐かしいな、あんたの罵り声」
 声はどこか面白がっている風だった。
 挑発的なダークブルーの瞳がキラリと輝く。
 久しぶりに見る奴は、背格好は変わらないが英雄と呼ばれた自負か? 一番機として皆を率いる立場になったからか。罪に怯えていた陰はもうどこにもない。強さに裏打ちされた自信を身体に漲らせていた。
「何をしに来た、トリガー」
「あんたに会いに」
「ふざけるな」
「別にふざけてなんかない。……ロングキャスターに調べてもらったんだ。あんたの今の居場所。同じAWACS同士ならわかるかと思って」
 同じオーシア軍に所属するAWACS管制官としてロングキャスターとは知らぬ仲でもなかった。あちらの方が年齢も経歴も上だが。ロングキャスターであれば他部隊の人事異動の記録を当たるのも容易かろう。――余計なことをしてくれたな。
 バンドッグは舌打ちをする。
「用がそれだけなら、もう済んだだろう。さっさと帰れ。そして二度と来るな」
 それだけ言って背を向ける。
 自分の執務室へ帰るために歩き出す。足元に敷かれた砂利が踏みつけられてぎしりと音を立てた。執務室で面会を断っておけばよかったのに、なぜ顔を見てしまったのだろうかと自分の選択を後悔した。
 その背に、何かが勢いよくぶつかる。
 がしりと腹にも腕が回された。
「――っ!?」
 トリガーが背中にへばりついていた。いや、抱きつくと言ったほうが正しいか。
「何を……っ、貴様、離せトリガー!」
 遠巻きに視線を感じる。基地の兵士や部下がありえない光景を見て目を見開いている。怒らせたら罵声、場合によっては拳が飛んでくるバンドッグに対して無礼な振る舞いをする勇気のある人間はいない。それはこの基地でも共通認識だった。
 バンドッグはトリガーがふざけているのだと思った。巻き付いたトリガーの腕を力ずくで引き剥がして殴りつける――そうしようと手首を掴んだのだが、その手首が小刻みに震えているのを感じた瞬間、何もできなくなってしまった。
 震えを悟られた腕は、更に抱きつく力を込めた。
 背中に顔を埋めたトリガーが呻くように言う。
「飼った犬の面倒は最後まで見ろよ。それが飼い主の責任だろうが」
 首だけを巡らせて背後を見る。ほとんど自分の肩で見えなかったが、トリガーが着ている茶色のフライトジャケットは何時ぞやに自分が貸し与えた物だった。この男は後生大事にずっと持っていたらしい。微かに嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。
 バンドッグはため息を吐く。
「……まったく。自由にしてやったのに自分から鎖に繋がれに来るとは。やはりお前は大馬鹿野郎だな」
 トリガーが視線を上げた。
 ゆっくりと腕が離れていく。
 互いに正面から向き合うと、トリガーはほっとした顔で微笑んだ。それはバンドッグが初めて見る、英雄でも犯罪者でもない、二十代の若者らしいトリガーの笑みだった。

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