そいつは湿った風の気配をまとって現れた。
トリガーはヘルメットで押しつぶされた髪をがしがしとかき上げながら執務室に入ってきた。いつも着ている茶色のフライトジャケットに黒の細身のパンツにブーツという出で立ちで、当然のような面をして。
バンドッグは殴りつけてやりたくなったが、拳が痛くなるだけだと思い直した。殴っても聞かない犬に言葉を尽くしても仕方がない。
トリガーは任務が休みになる度にバンドッグのいるこの基地に来るようになった。奴の基地からバイクで片道二時間かけてだ。もちろんバンドッグには仕事があるからトリガーの相手をする暇はない。「ツーリングが趣味なんだ」とは奴の言だが馬鹿馬鹿しいにも程がある。
なぜこんなに懐かれてしまったのかわからない。初対面から遠慮なしに殴ったり脅したりしてきたはずで、そこに好意など生まれてきそうもない。心当たりはハーリング殺しの冤罪を晴らしてやったことくらいだが、たったそれだけでこうも懐くものかと疑問だ。
奴は執務室にある黒い長椅子に身体を横たえた。フライトジャケットを脱ぎ、顔の鼻先まで覆い隠して寝る体勢に入る。こうして二時間のツーリングで疲れた身体を癒して帰るのが常だった。
バンドッグはため息を吐いて目の前のモニターに集中した。静かな執務室にはタイピング音だけが響いた。
不思議な静寂だった。バンドッグは他人が側にいることを好まない。だからこうして一人で仕事ができるように執務室に籠っているのだが、トリガーの気配は集中の妨げにはならなかった。空の上ではあれだけ傍若無人に振る舞っているのに、地上ではその気になれば物言わぬ犬にもなれるらしい。
ノックの音が静寂を破る。
「失礼します」と入ってきたのは部下の事務官だった。事務官は入室してすぐ、長椅子に寝転んだトリガーに気づく。
「申し訳ありません」とすまなそうに頭を下げた。部下がすまなく思う必要はない。部外者はトリガーの方だ。
「こいつは気にするな。――何だ?」
「は、はい。本日の夕刻から清掃業者が定期清掃に入ると基地管理部から通達がありました」
「定期清掃は来週の予定だったはずだが」
「はい。業者の方から予定を変更してほしいと依頼があったそうです」
「……そうか、了解した」
長椅子のトリガーがもぞもぞと寝返りを打つ。かぶっていたフライトジャケットが身体から滑り落ち、目を覚ましたらしい。大きな欠伸をして、腕を伸ばす。
それを見た部下がくすりと笑った。
「コーヒーをお持ちしますね」
そう言って出ていく。
バンドッグは胸ポケットから煙草を取り出す。換気扇を回すために立ち上がった。もう夕刻に近いが、窓の外は薄暗かった。雨粒が窓ガラスについている。
指の背で窓ガラスをコツ、と叩いた。
「トリガー、雨が降ってきたぞ」
「え、マジで?」
ずり落ちていたジャケットを羽織りながらトリガーが焦ったように答えた。
「やばい、早く帰らないと……。じゃあ、またな。あ、あの人にせっかく淹れてくれたコーヒー飲めなくてごめんって言っといて」
そう言ってトリガーは慌ただしく部屋を出ていった。
バンドッグはため息を吐いて窓の外を眺める。空には鼠色の厚い雲が重くのしかかっている。雨はすぐには止まないだろう。バイクで二時間、びしょ濡れになるのは確実だった。
「……馬鹿な男だ」
窓から基地の駐車場が見える。黒のバイクがある。あれがおそらくトリガーのバイクだ。その隣に清掃業者のトラックが止まっているのが見えた。
バンドッグは眉をひそめた。
――考えすぎか?
清掃業者の急な日時変更。バイクの隣に止められたトラック。ひとつひとつは大した意味を持たないように見える。だが――いや……危機管理において考え“すぎる”ということはない。
バンドッグはデスクの一番上の引き出しを開けた。そこに無造作に入っている黒の制式拳銃を取り出し、腹側のベルトに差し込む。壁にかけていたフライトジャケットを羽織り拳銃を隠すと執務室を出た。
早歩きで先に向かったトリガーを追う。
建物の外へ出ると雨はすでに本降りになっていた。夕刻にもかかわらず夜のように暗い。外灯の明かりが濡れたアスファルトを照らした。
駐車場のバイクの前にトリガーはいた。ヘルメットを被ろうとしていたところだった。
「トリガー、待て!」
「え、バンドッグ? なんで、あんた……」
トリガーが目を丸くする。その向こう側に清掃業者のトラックが止まっていた。荷台から清掃用のカートを押して男が二人現れた。清掃業者のグレーの制服を身にまとった男達は、キャップを深くかぶり表情は見えない。
バンドッグは走った。
男達がカートの中に手を忍ばせる。現れた銃は銃口が長い。サプレッサーつきの銃だ。バンドッグは走ってきた勢いのままトリガーを突き飛ばした。パシュッと乾いた音がしてバンドッグの左腕に焼け付くような衝撃が走った。それを無視してベルトに差した銃を抜き、男の一人を撃つ。男はのけぞるように血を吹き倒れた。すぐさまもう一人を狙う――が、突き飛ばされたトリガーが黒いバイクの陰から猛然と走り出していた。
暗殺者の男はトリガーに銃口を向けた。元より奴らはトリガーが狙いだ。トリガーは身体を低くして左右に蛇行しながら射線をずらし距離をつめた。しなやかで俊敏。その動きは獲物を追いつめる猟犬そのもの。下から暗殺者の銃口を腕で跳ね上げた瞬間、弾が空を切る。トリガーは走ってきた勢いのまま男に体当たりをした。二人は地面にもつれ合うように倒れたが、どうやらトリガーの方が上手だったようだ。
暗殺者の腕を取り、首を絞め上げている。
バンドッグはひとつ息を吐いて緊張をほぐした。
「トリガー。殺すなよ」
念のために言っておいた。捕らえたところで何も吐きはしないだろうが。
闇にきらめくダークブルーの瞳がこちらを見つめる。
「殺さないよ。……あんたじゃあるまいし」
トリガーは隣で仰向けに倒れた男をちらりと見やった。暗殺者は眉間に穴を空けて濡れたアスファルトに血を流している。
「恐ろしい腕だな……あんた」
「フン。命を狙われたんだ。手加減などできるか」
トリガーは絞め上げた男を気絶させ、銃を奪った。
「こいつはどうする……って、もしかして撃たれたのか?」
トリガーがこちらに駆け寄った。
バンドッグの左腕から血が滲んで雨に溶け出していた。それをまるで自分の痛みかのように見つめる。
「情けないツラをするな。かすり傷だ」
「でも……」
傷の痛みより何より、雨が激しく服を濡らして身体に張り付くのが気持ち悪かった。さっさと後処理を終わらせてシャワーを浴びたい。
そんなことを考えていると、様子がおかしいと見に来た部下が駐車場に響き渡るほどの悲鳴をあげて、基地内は騒然となったのだった。

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