「バンドッグ大変だ!」
叫び声と共に執務室の扉が乱暴に明け放たれた。
そこらに積もった砂混じりの埃が舞ったような気がしてバンドッグの眉間に縦皺が刻まれる。
「騒々しいぞタブロイド」
手に持った書類から目線は外さずに告げる。
「大変なんだよ、トリガーが襲われて……!」
「またか……」
ため息をつく。
タブロイドがやって来た時点で奴に何事かあったのだとは推測できた。
囚人番号スペア15。
TACネーム、トリガー。
“ハーリング殺し”などという華々しい罪状を引っさげてトリガーがこのザップランドにやって来てから、まだ数日しか経っていない。それなのに奴の名を聞かない日はないほど連日、何某かの騒動を起こしてくれる。
始まりは何だったか――確か、目つきが気に入らないと因縁をつけられたんだったか。確かに奴は目つきがすこぶる悪いが。
トリガーはここへ来て早々、欺瞞邀撃に出撃し戦果を上げた。それが古参の囚人どもの気に食わなかったのだろう。因縁をつけ、新人にどちらが上か示したかったに違いない。古参といっても大した暦ではない。ここの囚人は入れ替わりも激しい。こんな檻の中で上だの下だのとやってもしょせん猿山のボス。何の意味もない。
さらに愚かなのは、奴らは逆にトリガーに返り討ちにされたということだ。今回はさしずめその報復といったところか。
「頼むよバンドッグ、トリガーを助けてやってくれ!」
「やかましい、 騒ぐなタブロイド。基地内の治安維持は俺の仕事ではない。看守に頼むんだな」
「看守なんて役に立たない。あいつらは買収されてるんだ。……頼むよ、あんたしかいないんだ……!」
そう言って頭を下げる。
バンドッグにとっては、このタブロイドという男も理解不能だ。他人のために何故そうも必死になれるのか。トリガーとも、たかだか数日前に知り合ったばかりだろうに。タブロイドの罪状は政治犯らしいが、とてもそんな風には見えなかった。痩身で常に笑顔で穏やかで。そんな奴はこの第444航空基地飛行隊――いわゆる“懲罰部隊”にはふさわしくない。ただのお人好しだ。
訴えを無視してインスタントコーヒーを啜る。
タブロイドは頭を上げるとこちらに真剣な眼差しを向けた。
「いいのか?」
「……何がだ」
「トリガーが使い物にならなくなっても。あんたにとって、得難い、貴重な駒なんじゃないのか」
タブロイドの静かな声が夜の部屋にしんと響いた。
コーヒーの入ったコップをデスクに置く音が嫌に耳につく。
こちらが動かない限り、この男も諦めそうにない。重いため息を吐いて手に持っていた書類をデスクに放り投げた。
「どこだ。……案内しろ」
タブロイドが顔を輝かせた。
薄暗い基地の廊下を進む。
囚人たちの寝床は半地下にある。天井近くにわずかな灯り取りの窓。通路を挟む形で両脇に鉄格子の牢が並ぶ。緑色にところどころ変色した壁と赤錆とすえた臭い。定期的に清掃しているが染み付いた臭いは取れない。用がなければ来たくもない場所だ。
狭い通路を塞ぐほどの体躯を持つ男が、ニヤニヤと笑いながら声をかけてきた。
「よう、バンドッグ。お姫様を助けに来たのか?」
「フン、誰が姫だ。あれはじゃじゃ馬ってところだろう。しかし珍しいなチャンプ。お前が祭りに参加しないなんて」
「ああ……ああいうのは、好かないんでな」
チャンプの含みにバンドッグは眉をひそめる。
前回のトリガー暴行騒ぎにはチャンプも参加していた。とにかく血の気の多い男だ。食堂で、トリガーが数人から因縁をつけられ喧嘩が始まった。次第にそれはチャンプや他の人間、果ては止めに入った看守も巻き込み、テーブルやら椅子をひっくり返す大騒ぎになったのだ。バンドッグはたまたまそこへ行きあたったにすぎない。騒いでいた全員に独房行きの処罰を食らわした。もちろんトリガーにも。
チャンプが参加しないということは、今回は殴り合いの喧嘩ではないということだ。舌打ちをする。
奥に進むにつれて人が多くなっていった。野次馬だ。怒号や嘲笑が飛び交う。そこに止めに入るべき看守もいるのだから頭の痛い話だ。
靴音を響かせると看守がまず気づき、こちらを見て顔を青ざめさせた。
「バ、バンドッグ……」
「その腰の物を寄越せ」
顎で示したのは、看守が護身と囚人に対しての威圧が目的で携帯している電気警棒だ。持ち手は頑丈なゴムで出来ており、先端に剥き出しの電極が付いている。
バンドッグに睨まれた看守は慌てて腰のそれを取り外した。
電気警棒を持ち、バンドッグはさらに人の渦の中へ進んだ。
囚人達は管制官の姿を見つけると、さっきまで大声を上げていた口をたちまちに閉じ、草が分かれるように両端に寄った。自然と道ができる。
人垣の奥には数名の囚人。床には抑え込まれた半裸のトリガーがいた。
痩身の男がトリガーの後ろから前髪をつかみ顔を上げさせ、頬を掴み口を強引に開けさせている。トリガーの目の前に陣取っている男は囚人服のツナギの前を開け、性器を露出している。
何をしようとしているかは一目瞭然だった。
「トリガー……!」
バンドッグの後ろにいたタブロイドが叫ぶ。その声に気づいた男がこちらを振り返った。
「バ……バンドッグ……!」
慌てて股間を隠す姿が間抜けだった。その隙に足早に男に近づき、電極のスイッチを入れた警棒で腹を殴りつける。青い火花が薄暗い牢に散った。男はうめき声を上げ、腹を抱えて前かがみになった。そのみぞおちに向かって思い切り革靴のつま先をめり込ませた。男は吐瀉物を床にまき散らす。
「トリガー大丈夫か!?」
タブロイドがトリガーを抑えていた男に掴みかかって揉み合いになっていた。トリガーの意識は朦朧としているようだったが、身体が少し自由になるやいなや痩身の男の腕に噛み付いた。
「ぐぁ……ッ、痛ぇ……! こいつ、何しやがる!」
男がトリガーの顔を力任せに殴りつけ、腕を引きはがす。噛まれた腕にはくっきりと歯形が浮かび血が滲んでいた。
「トリガー!」
タブロイドが倒れ伏したトリガーに覆い被さってかばう。
バンドッグは喉の奥で笑った。ほとんど意識がないのにやり返したトリガーに、どこか胸のすく思いがしたのだ。
この惨状で笑っている姿が不気味に思われたのか、周囲にいた人間がバンドッグから距離をとる。
乱れた髪をかき上げ、腕から血を流した男を睨みつけた。
「こいつに何をした?」
「え……っ」
「普通の状態であれば、お前らごときがこいつを好きにできるはずもないだろう。何をしたんだ」
「そ、それは……」
「ほぅ……お前もこれを食らいたいようだな」
酷薄な笑みを浮かべ手に持った警棒をちらつかせると男はしぶしぶ「薬を盛った」と白状した。身体の動きを鈍らせる薬だ。医務室から手に入れたらしい。
バンドッグは本日何度目かのため息をついた。
医者に賄賂を渡して手に入れたのか、それとも隙をついてくすねたのか。どちらにしろ、この基地の管理体制がなっていない証左だ。――仕方のない話だが。この基地のやつらは囚人だけではなく看守も整備士も皆、腐っている。ひとつの腐った蜜柑が正常な蜜柑にカビを移すように。この基地に蔓延した腐臭が、そうでない人間までいずれは染めていく。ここに長くいればいるほど正常な感覚でいる方が難しくなる。
倒れてタブロイドに抱えられたトリガーを見る。完全に意識を失ったらしい。人を射殺しそうなダークブルーの瞳が、今は閉じられているのが惜しいと思った。
「タブロイド、トリガーを医務室へ連れて行け」
「あ、ああ」
「こいつらは独房だ――沙汰は追って言い渡す」
主犯の男共を看守に引き渡し、バンドッグは囚人達の居住区から立ち去った。
翌日、トリガーは医務室の白いベッドで目覚めた。
担当医から事件の経緯を聞き、目覚めたのならさっさと出ていけと言われ医務室を後にした。
殴られた顔や腹が鈍く痛む。盛られた薬の副作用か身体が怠かったが、医師が何も言わなかったということはそれほど危険な薬ではなかったのだろう。
廊下の窓から明るい日差しが差し込む。
早朝のザップランド。
滑走路の向こうに水平線が見える。
自らの意思とは関係なく周囲が目まぐるしく変化する中でここの景色だけはただひとつ好ましいと思えるものだった。
トリガーが食堂に入るとタブロイドが声をかけてきた。
「もう大丈夫なのか?」
タブロイドは他の囚人とはどこか違った。“ハーリング殺し”と揶揄し値踏みしてくるのが大半の中で、彼だけは温かい微笑みを返してくれる。
「ああ、たぶん。……正直、最後の方は意識が朦朧としていてよく覚えていないんだが、あんたが助けてくれたって聞いた……ありがとう」
「いや、俺じゃない。俺は助けを呼んだだけで実際は何もしていないよ」
「え……?」
タブロイドは食事の乗ったトレーを運んでテーブルにつく。トリガーもそれに習ってついていった。食事といっても、薄い豆のスープのような、正規兵だった頃とは比ぶべくもない食事だ。
「――バンドッグだ。看守でさえ買収されて見て見ぬふりを決め込んでいたから、頼れるのは奴しかいなかった。俺が頼んだ程度で動いてくれるかわからなかったが……間に合ってよかった」
そう言って安堵したように笑う。
「バンドッグが俺を助けた?」
「意外か?」
「……嫌われてると思ってた」
「何故?」
「初日に賭けで……大損させたらしいから……」
タブロイドがカラカラと笑う。
「あんな憎まれ口、バンドッグにとっちゃ平常運転だ」
「そうか……」
もちろん理由はそれだけではなく。なんとなくバンドッグの自分を見る目が猛禽類のように鋭く厳しいような気がしたからなのだが、そんな感覚的なことを他人に話してもわかるはずもない。
トリガーは薄い豆のスープを啜った。
タブロイドが一段声を潜める。
「まぁでも――今回助けてくれたからといって、バンドッグには気を許さない方がいい」
タブロイドは硬いパサパサのパンをスープに浸している。
「何故だ」
「正直な話、基地司令は大した人物じゃない。ここを真に仕切っているのはバンドッグだ。俺たちに任務を与え、生かすことも殺すこともできる」
だから誰も奴に逆らえないのだとタブロイドは語る。
「バンドッグに対して強気に出られるのは、それなりに腕があるやつだけだよ。――もちろん、空戦の」
タブロイドのスプーンの先がトリガーを指す。
自分もその「強気に出られる奴」だと言いたいのだろうか。他にも初戦を見た感じだと、カウントやチャンプ、ハイローラーなどは正規軍と遜色ない動きをしていた。犯罪に手を染めなければいいパイロットだっただろうに。
トリガーが物思いに耽っていると、隣に人の気配があった。
「面白そうな話をしているな」
そう言って隣に座ったのは、痩身の中年の男。
「何だ? フルバンド」
タブロイドが胡散臭いものを見るように目を眇めた。
「バンドッグの弱みは何かって話をしていただろう?」
「はぁ……そんな話はしてない」
「気にならないのかよ、お前ら?」
「気にならないよ。そんな恐ろしいこと」
「おいおい、情報握ってないと死ぬぜ?」
タブロイドがうんざりした顔をする。フルバンドはそんな態度は気にならないのか話を続けた。
「バンドッグが何故こんな懲罰部隊なんかに来ることになったのか、不思議じゃないか?」
フルバンドがタブロイド、トリガー両者の顔を見る。
――確かに、それは少し気になる。
さっきタブロイドも語ったが、バンドッグがこの基地を掌握できているのは彼にそれだけの能力があるからだ。それだけ有能な男が、懲罰部隊へ送られたのには何か理由があるに違いない。
そんな気持ちが表情に出ていたのか、フルバンドはニヤリと笑った。
「俺が入手した情報によると……バンドッグは正規軍のAWACSをやっていた時に、上司の不正を暴いたらしい」
「不正を……? それでどうして左遷させられるんだ」
トリガーもタブロイドと同じ疑問を抱いた。不正を暴いたなら褒められるべきなんじゃないのかと。
「実際には暴いたというより、不正の片棒を担がされていたらしい。情報の改ざん、隠蔽――それを告発したようだ」
「なるほど。告発したバンドッグ自身にも罪はある。だから左遷で済ませたってことか?」
フルバンドはタブロイドの言葉に大きく頷く。そして内緒話をするように顔を寄せて囁く。
「……だが、俺はそれだけじゃないと睨んでる」
「どういうことだ」
「バンドッグは何か密命を受けてこの基地に来たんじゃないかってな。……これは情報屋としての、俺の勘だがね」
言いたいことを全て喋り終わったのか、フルバンドはトレーを持って立ち去った。
残されたタブロイドとトリガーは互いに顔を見合わせるしかなかった。フルバンドは噂話をさも真実かのように語る奴だ。だから完全に話を鵜呑みにするなよ、とタブロイドはトリガーに忠告した。
数日後。
トリガーを暴行した囚人数名が任務に出て死亡した――と、タブロイドが硬い表情で告げた。トリガーは聞いたその足でバンドッグの執務室へ向かっていた。何を言うべきかもまとまらぬまま。
執務室のドアをノックをすると「入れ」と低い声が返ってくる。
ドアノブを握る手のひらに汗をかいているのを自覚する。
扉を開くと煙草とコーヒーの混ざり合った匂いがした。
書類が山と積まれたデスクにバンドッグが座っていた。簡素なデスクの上の書類は乱雑に積まれているにもかかわらず、不思議な均衡を保っていた。
「失礼します」と声をかけ入室したものの、バンドッグは書類を睨みつけたままこちらを見ようともしない。
「……何の用だ、スペア15。用がないならさっさと出ていけ」
書類越しにギロリと睨まれる。
――そう、何か言いたいことがあって来たはずだった。ただ、自分がそれを言ってもいいのか。何と言えばいいのか――わからない。
口を開いて空気を吸い込んで、また閉じる。
バンドッグがこれ見よがしに重いため息を吐く。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
あきれたように言われる。口は悪いが、どこか受け入れられているようにも感じて、重たかった言葉が口からこぼれ落ちた。
「……何も――殺さなくてもよかったんじゃないか」
そのひと言で真夏のザップランドが極寒の地に様変わりした。
バンドッグは書類をデスクに放り投げ、立ち上がった。軟なパイプ椅子がぎしりと軋んだのが耳障りだった。
ゆっくりとこちらへ靴音が近づく。
目の前まで来るとトリガーの前に影が出来た。
鋭い瞳が頭上からトリガーを射抜く。
「貴様は何の権限を持って俺にそれを問う。たかだか新人の囚人にすぎないお前が、『殺さなくてもよかった』だと?」
バンドッグの手がトリガーの胸ぐらを掴んで壁に勢いよく叩きつける。パラパラと砂が天井から落ちる。
衝撃で胸が詰まった。
「そうか、輪姦されるのがお前の好みだったか? それは悪いことをした」
くつくつと声に出してバンドッグが笑う。
「……っ、そう、じゃない」
「では何だ。連日騒ぎばかり起こす馬鹿な囚人にかかずらっている暇はない。俺の仕事の邪魔だった。だから始末した――それだけだ」
バンドッグの腕が外れ、苦しかった喉が解放される。空気を勢いよく吸い込み、咳き込んだ。
バンドッグが告げたこと――それは紛れもなく自らが意図的に人を――部隊の人間を殺したのだということ。奴らが任務に選ばれたのは偶然だと言い逃れも出来た。死んだのは弱かったからだと他責も出来た。
なのに、しなかった。
その事実がトリガーの胸に重くのしかかる。
「任務のためなら、人を殺して……平気なのか。あんたは」
「フン、愚問だな。お前らを管理することが俺の仕事だ」
「じゃあ……なんで。なんで過去に、上司の不正を告発したりしたんだ? あんたなら、それも任務だと割り切れたんじゃないのか」
バンドッグの眉が面白いことを聞いたと言いたげに跳ね上がった。
「ハッ……貴様、それをどこで聞いた?……まぁいい。出どころは大体想像がつく」
大きな手がトリガーに近づき、顎をつかんだ。さっき壁に叩きつけた手とはまるで別人のように、それは甘やかで優しくも思えた。
「愚かなお前に忠告してやろう。情報は慎重に取り扱え。噂の真偽も判別できん間は、な」
吐息がかかるほどの距離で低く囁く。悪魔の囁きのように。
自分を痛めつけた囚人が死んだと聞かされて、それが直感的にバンドッグのやったことだと思い、この部屋にやって来た。フルバンドの情報の真偽もわからないまま口に出していた。それがどれほど危険な行為か、バンドッグに言われて初めて気づく。
自らの失態に、生唾を飲み込んだ。
バンドッグは含み笑いを響かせる。顎から手のひらを滑らせ、首すじに手がかかった。
「……トリガー。俺に忠実な犬でいる間は殺さん」
わかったな、と言い含め、静かに指が離れていった。
トリガーはその後、バンドッグの冷たい温もりがいつまで経っても首すじに残っているような気がしてならなかった。

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