約束

肌にまとわりつく湿気が鬱陶しい。
重く沈んだ空気に基地は支配されているというのに、この部屋の一角だけは、不自然に賑やかな声に満ちていた。
服や靴、ボールペン、本、時計……。さまざまな日用品がテーブルの上に並んでいる。
今回の出撃で、また、何人か死んだ。
死亡した味方の私物を仲間たちで分ける。形見分けだ。
「メビウス1、ほら、これ」
所在なく立ちすくむ俺に声をかけてきたのはオメガ1だった。手渡されたのは、なんの変哲もないボールペン。
「お前、まだ取ってなかっただろ」
「いや、俺は……」
いらない、と断りたかった。冷たいようだが、俺は前回の作戦で死んだレイピア8とそれほど親しくなかったし、故人の持ち物をこれ以上、増やしたくなかったのだ。
「まぁ、そう言うな」
オメガ1は俺の手に、ボールペンを握らせた。見た目以上に、ずっしりと重く感じる。
捨てることもできず、引き出しに溜まっていく仲間たちの形見。
基本的に私物は家族の元に返還されるが、受け取るべき家族がいない者も軍には多い。
レイピア8は洒落者で、彼の私物はセンスのよい物や、価値の高い物が多かった。すると皆、あれがいい、これがいいと奪い合いをする。一般的な人の感覚で見ると、不謹慎と言われるだろう。死者を冒涜していると思われるかもしれない。
思うに、俺たちはすでに正常じゃない。死があまりにも近くにありすぎて、日常化している。昨日、話した人間が今日はおらず、明日には自分がいないかもしれない。そんな毎日で、正気を保てるはずもない。
悲しむ家族もいない人間にとって、私物を欲しがってもらえるのは幸せなことだと、俺は思う。物とともに自分が存在したあかしが、誰かの中に残るなら。
誰にも欲しがられない物こそ不幸だろう。たぶん俺は後者の人間だ。俺の持つ私物に価値の高い物はひとつもないし、悲しむ家族もいない。時が過ぎれば忘れ去られていく存在だ。
なぜ、こんな俺が生き残っているのだろう。生きるべき人はたくさんいたはずだ。両親しかり、レイピア8しかり。
別に死にたいわけじゃないが、生きる意味も俺にはなかった。空を飛びたいという、たったひとつの願いが叶った今、望むことはなにもない。
そう、なにもない――はずだった。
脳裏に、あの人の顔がちらつく。
はじめて会ったときから、こんな俺なんかにも、変わらず、優しく接してくれるスカイアイ。
スカイアイは俺が死んだら、少しは悲しんでくれるだろうか。
たとえ死んでも、指先に刺さった抜けないトゲみたいに、スカイアイの心の片隅にいられたら――。そう夢想しただけで、俺は極上の毛布に包まれたみたいに、幸せな気分にひたれるのだった。

雨音だけが静かな廊下に響いている。こうして一人で歩いていると、まるで世界に自分だけしか目覚めていないかのようだ。もしかすると、それを否定したくて、いつもスカイアイを訪ねているのかもしれなかった。
手には、擦りきれて角の丸くなった本が一冊。
この本は、何度目かの誕生日プレゼントに父からもらったものだ。瓦礫の山となった家から、かろうじて見つけて、持って帰ることができた。父の形見だった。
その本を片手に、ドアをノックする。
彼の部屋をノックする時、いつも少しためらう。俺なんかが彼の部屋を訪ねてよいものか、幾度訪ねても、いまだに自信がないからだ。ノックをして、扉が開くまでの数秒間。緊張する。
「ああ、メビウス1か。どうぞ入って」
そう言って、笑顔で迎えてくれるスカイアイ。俺はこの瞬間が好きだった。
「また眠れないのか」「何か飲む?」などと俺に気を遣ってあれこれ話しかける。そんなスカイアイに訪ねてきた理由を告げるか迷った。
自分のエゴでしかない言葉を告げるのは勇気がいる。でも、どうせ死ぬのなら、後悔を残したくなかった。
「メビウス1、どうした」
スカイアイが俺の肩に手を置いた。顔をのぞき込まれる。部屋に入ったきり無言の俺を、心配していると顔に書いてあった。
「スカイアイ……」
「ああ」
「俺が死んだら、この本、スカイアイに持っていて欲しい」
息を呑む気配がした。
スカイアイの反応は怖くて見られなかった。うつむいて本を撫でる。
言いづらいことは、一気に言ってしまうに限る。頭の中で、何度もシミュレーションした言葉を発する。
「こんな汚い本、誰も持っていかないとは思うんだけど、念のため……ッ」
肩に痛みが走った。スカイアイの手が置かれた方の肩だった。ぐ、と痛いくらいに掴まれている。驚いてスカイアイを見上げようとした。それより早く、引き寄せられ、かき抱かれていた。
「……ス、スカイアイ……?」
「やめろ。言うな。そんなこと。聞きたくない」
今までスカイアイの口からは聞いたことのない、鋭い否定の言葉だった。サッと血の気が引く。
迷惑だったんだ。言うんじゃなかった。
後悔が波のように押し寄せる。しかし、一度吐き出した言葉を元に戻せるわけもない。
スカイアイなら受け入れてくれるのではと、どこかで彼の優しさに期待していたのだ。でなければ、こんなにショックを受けるはずがない。
「あ、……ごめ……」
「違う、謝ってほしいんじゃない」
俺を抱きしめたまま首を振る。
スカイアイの指が、強く腕に食い込んで痛かった。俺の言葉のどこに動揺したのかはわからないが、彼を傷つけてしまったのは確かだった。
謝罪さえも許されず、何も言えない。自分があまりにも情けなくて、泣きそうになった。
彼は何度か深呼吸して、少しずつ俺を抱きしめる腕の力を緩めていった。力を入れすぎたことを詫びるように、俺の腕や背中をさすった。
「君の、言いたいことはわかるつもりだ。次の作戦は、ストーンヘンジに裸で殴りかかるようなものだから。君は強いよ。今まで見てきたどんなエースよりも。俺はずっと、君のような存在を待ちわびていたのだと思う……。だが、どんなに強くても、戦場において絶対はない。味方も、敵も、レーダーから消失するところを、これまでさんざん見てきたから、わかってるんだ……」
どんなときも味方を鼓舞してきた声に力がない。それはスカイアイが俺にはじめて漏らす弱音だった。スカイアイが俺に弱音を吐いてくれるなんて、本来なら嬉しいくらいだったが、傷つけたのは自分だから、ありがたがれるはずもない。
スカイアイは体を離して俺を見つめた。その瞳は、重い雲が垂れこめたように陰っていた。
「だけど、考えたくない。君が死ぬところなんて想像もしたくない。……その本は君にとって、とても大切なものなんだろう。でも、本を受け取ると約束すれば、君が死ぬことを認めるようで嫌なんだ」
その言葉を聞いて、俺は顔と言わず、全身が熱くなった。
スカイアイの弱音とは別のところで、俺は自分勝手に彼の言葉に感動していた。
スカイアイは俺に死んでほしくないと言っている。
強く――。
そのとき俺の体を貫いたのは、悦びだった。
「あ……」
全身を満たした悦びが、眼からあふれたと思った。熱いしずくが頬を伝い、ボタボタと滴り落ちた。
「メビウス1!?すまん、泣くな。……いや、俺のせいだな」
スカイアイがあわてて拭くものを探して辺りを見回す。が、手近に何もない。仕方なく、手で涙を拭われた。少々乱暴で、頬の皮膚が擦られてヒリヒリした。あわてたスカイアイが新鮮で、こんなときなのにおかしくて、笑えてきた。
「ふふ、ごめん、違うんだ。嬉しくって……」
嬉しくて泣くなんて初めてだった。両親が死んだ時に泣けなかった俺は、自分の涙腺は干からびてしまったのだと思った。でもスカイアイと出会ってからは、これまでが嘘のように泣いてばかりいる。
「ありがとう、スカイアイ。そんなふうに言ってくれて……。俺、忘れられるのが、怖かったんだ」
「忘れるわけないだろう。忘れられるはずがない」
言い切る力強い言葉が、嬉しくて、くすぐったい。
「そっか……うん」
「メビウス1、次の作戦、必ず生きて戻ると約束してくれないか」
スカイアイが俺の両腕をつかんで、真正面から俺を見据える。その真剣な眼差しに胸が熱くなる。
約束したところで、それが戦場において何の効力もないのは、俺も、スカイアイもわかっている。でも俺たちにはきっと、約束が必要なんだろう。お互いを縛る何かが――。
スカイアイと見つめ合う。鏡合わせの虹彩がひび割れたように映る。
その瞳に誓った。
俺はずっと、自分の命と生を価値の無いものだと思っていた。いつ死んでも惜しくないと。そんな俺でも“必要だ”とあなたが言うのであれば、あなたが必要とする限り、俺は生きる。
灰色の雲に覆われていても、広くて青い空が変わらずそこにあるように、あなたのもとに必ず帰ると。
「約束する」