戦士の血脈

青くきらめく海に囲まれた小さな島。
降り立ったアスファルト。彼方の人影が蜃気楼のように揺らめく。近づくにつれて、トリガーの鼓動は早くなった。英雄に会えるのだ、と。

強いエースパイロットはどの国にもいるが、メビウス1は破格だった。十年以上前の大陸戦争で、敗北寸前の自軍を勝利にまで導いた。その人物像は謎に包まれ、真偽の定かではない噂ばかりが蔓延している。
パイロットに成りたてのトリガーにとって、メビウス1は子供の頃から憧れていたヒーローであり、ミーハーなのは自覚しているが、会えるのが嬉しくてたまらなかった。

遠くから見ていた人影が、今は目の前にいる。
背が高く、靴は太陽の光を反射し、濃紺の制服はしわ一つない。中年の男だが体は引き締まり、隙はない。きつい日差しと照り返しを、黒いサングラスによって防いでいるのだろう。トリガーには迫力を演出しているようにしか見えなかったが。
緊張で敬礼が堅くなる。
「オーシア国防空軍所属の……」
「待ってくれ」
その人が右手を上げて制止する。
「君は多分勘違いしている。俺はメビウス1ではないんだ」
「は……?」
唐突な告白にトリガーは目を点にする。
その人は軽く咳払いをして横を向き、誰かに向かって話しかけた。
「メビウス1、俺の後ろに隠れていないで出てきなさい」
よく見ると、その人の影に隠れてもう一組の足が見える。背の高い人の右肩辺りからひょっこりと出てきた白っぽい頭に、こちらを覗くガラスのような二つの眼。
「――!?」
背の高い人に促されてしぶしぶ出てきたのは、トリガーよりも背が低く、新米パイロットでももう少し鍛えているんじゃないかと思うほど華奢な体だった。トリガーより確実に年上だとわかるのに、どこか幼さを残した顔をした男だった。もじもじとこちらをうかがい恥ずかしそうにしているが、この人がメビウス1なのだろうか。
呆然としながらトリガーは、恐る恐る背の高い人をうかがった。
その人は深くうなづく。
トリガーの中のメビウス1像がガラガラと音をたてて崩れていった。英雄というものはもっと強そうで、威厳があり、格好よくカリスマを持った存在だと想像していたのだ。それがどんなに愚かな行為か、今はわかる。
人物像が謎だったのはISAFが――今はIUNだが、巧妙に隠しているのだろうと思っていた。だが実物が“これ”なのだとすれば、想像とかけ離れ過ぎていて、真実を言っても誰も信用しないせいなのではないかと少し思った。
戸惑うトリガーに対し、英雄メビウス1は口を開いた。
「口で説明するのが下手だから、訓練は実地でいいよね?」
トリガーはこの地に、メビウス1に教えを受けにやってきたことを思い出した。

訓練の後、夕暮れに染まる基地のミーティングルームで報告書をまとめていたトリガーに、あの時に会った背の高い人――メビウス1担当の管制官だと後からきいた――スカイアイが話しかけてきた。
「メビウス1と飛んでみてどうだったかな?」
「……すごかったです」
本当に感動した時、人は語彙力がなくなる。そもそもトリガーは口下手な方だった。子供の感想じみた返答に恥ずかしくなり、慌てて付け加えた。
「あ、いえ……俺は、その、メビウス1についていくのがやっとで……」
「ふふ、そうか」
何が面白かったのか、スカイアイは肩を揺らして笑う。
「メビウス1について飛べる者は、これまで一人もいなかったんだ。さすがだな」
「そう、だったんですか?」
「うん。メビウス1は誰かを教えることに致命的に向いていない。口下手なのもあるが、もっと根本的なところで」
スカイアイが言うには、メビウス1の飛行技術を後世に繋ぐため、メビウス1を教官としてパイロットを育成しようとしたことが過去にもあったらしい。しかし、それは失敗に終わった。メビウス1にとって飛ぶことは息をするように当たり前のことで、自分に出来ることが、皆には何故出来ないのかがわからなかった。わからないから教えられない。才能を持つ人間が、人を教え導くことに長けているわけではないということだ。
「君と一緒に飛ぶのが、楽しかったと言っていたよ。誰かと並んで飛ぶなんて、彼にとっては初めての経験だからね」
「あの、何故、俺だったんでしょうか」
トリガーを指名したのはメビウス1だ。ただの新米パイロットに過ぎない自分を生徒に選んだのは何故なのか、トリガーはずっと不思議に思っていた。
スカイアイは窓の外の夕焼けを眺めながら溜め息をついた。
「さあな、俺にはメビウス1の考えはわからない。ただ、以前に君の飛行を見た時『俺と同じにおいがする』と言っていた」
「におい……?」
「何か、感じるものがあったのかもしれないな」
スカイアイの低い声が、朱に染まる静かな部屋に響いた。

「あ、トリガー、こんなところにいた」
静寂を破り、メビウス1が開け放たれていた扉から顔を出した。走ってきたのか、上気した頬が子供のようだ。
「君の機体の調整について話そうと思って。ハンガーに行こう」
座っている俺の腕を引っ張る。まるっきり目に入れられていないスカイアイが大袈裟に溜め息をつく。
「メビウス1、俺がトリガーと話していたんだが」
「スカイアイ、いたの?」
「いたの、はないだろう。……まったく、君はトリガーが来てから彼にべったりだな」
「だって、楽しいから。……さあ早く」
腕を引かれて仕方なく席を立つ。メビウス1とスカイアイの言い合いを聞き流しながら、確かな居心地のよさを感じていた。

訓練の最終段階として、メビウス1と一対一で格闘戦をすることになった。同じ条件で三回戦う。当然、誰もがメビウス1が勝つことを疑っていなかった。トリガー自身ですら。
すでに二本取られ、最後の戦いでトリガーはメビウス1にひたすら食い下がった。勝とうと思っていたわけではない。ただ戦うことが楽しかった。技を駆使し、互いに全力を出し合い、相手の呼吸すら感じられるような読み合いを、トリガーは初めて経験した。全身が研ぎ澄まされ、感覚が目覚めていくようだった。体は限界を超えて悲鳴をあげていたが、一秒でも長く戦って、このひりつく感覚を味わっていたかった。
ふいにメビウス1の挙動が鈍く感じられ、あきらかな隙が生じた。その隙を逃さず、引き金をひく。

終わった後は疲れはて、しばらくコックピットから動くことも出来なかったが、それはメビウス1の方が深刻だった。見た目には若く見えるが、三十半ばを越える肉体の衰えは容赦なく彼を襲い、長時間のフライトでこそ顕著に現れる。最後にトリガーが勝てたのは、彼よりずっと若かったからに過ぎない。
メビウス1はトリガーとの勝負を「楽しかった」と、少年のような屈託のない笑顔で称えた。
メビウス1には健康上に問題があり、引退を考えていると、後にスカイアイが教えてくれた。
「死ぬまで飛んでいたいだろうが、そういうわけにもいかなくてな」
スカイアイの顔に刻まれた皺に、隠しきれない寂しさがにじんでいた。

別れる前に、どうしてもメビウス1に聞きたいことがあった。
屋上から青い海と空を眺める。そういえば、この人が一人でいるところは、必ず空が見える場所だった。
「何故、俺だったんですか」
「……君は戦うことが好きでしょう?」
ぎくりとした。この間二人で戦ったときの胸の内を言い当てられた気がして。
「大丈夫。俺も、そうだから」
メビウス1はトリガーを安心させるように微笑んだ。
「戦うことって、つまり、相手を殺すことで。人を殺すことが好きなんて、自分はおかしいんじゃないかとずっと思ってた」
「それは……」
メビウス1の苦悩はわかる気がする。トリガーはまだ実戦を経験していないが、その内同じように悩むかもしれない予感がした。
「俺がエルジアに何て呼ばれていたか、知ってる?」
「リボンつきの死神……」
「うん、そう。それだけ沢山殺してきたってことだよね」
「でも、それはエルジアも同じなのでは?黄色の13も」
「……懐かしいな、その名前」
メビウス1は空を仰いだ。
「あの人と戦ったとき、“同じだ”と感じたんだ。俺たちは力を尽くして戦える相手を探してた。たとえ殺されても悔いはなかった。あの瞬間、俺たちは互いだけが唯一無二の世界にいた」
最大の敵との命がけの戦いが、至高の瞬間だったかのようにうっとりと目を閉じる。
「罪深いとわかっていても、一度味わうとやめられないんだ……。業が深いよね」
命をかけた戦いこそ、この人の望むものなのだ。華奢な見た目とは裏腹に、メビウス1の身の内には戦士の魂が宿っている。
「あ、この話、スカイアイには内緒にしててね」
メビウス1は慌てて人差し指を唇に当てて、ないしょ話の約束をした。
結局、話が脱線して、何故トリガーを選んだのかという理由は曖昧なままだった。話が下手だというのは本当らしい。自分も口下手な方だから、人のことは言えないが。
それでも、なんとなく理解した。
トリガーにはメビウス1のような経験はまだない。だが、どこかの空に彼の言うような至高の戦いがあるのだとしたら。
胸が高鳴る己はやはり、メビウス1と同じ、業の深いファイターパイロットの血が流れているのだろう……。