今は遠い

ここのところ良く眠れたためしがない。疲れていても、頭は冴えて、ベッドに入っても眠気は訪れない。短いこま切れの睡眠で日々をしのいでいた。
眠くなって眠るのがどういう感覚だったのか。何も恐れずに眠っていた頃の記憶は遠い。

眠れない夜は長い。
そういう時、俺はスカイアイの部屋を訪ねる。スカイアイは遅くまで仕事をしていて、たいてい起きていた。俺の突然の訪問をいつも受け入れてくれて、拒まれたことはただの一度もなかった。
最初は少しの雑談をしていただけだったのだけれど、ある時、うとうととしている俺にスカイアイが「そのまま寝ていけばいい」と言い、彼の部屋のソファーで仮眠を取った。スカイアイの部屋でなら何故か眠れる。気づいた俺はたびたび彼の部屋を訪れるようになった。迷惑をかけている自覚はあったけれど、いつも温かく迎えてくれるスカイアイに、つい甘えてしまっていた。

その日もそうだった。
スカイアイと次の任務について話をした後、やはり眠気を覚えた俺はそのままソファーで眠ろうとした。
「待て」の声。
いい加減、迷惑で出て行って欲しかったのだろうか、と一瞬よぎった。けれど次に続いた言葉は予想とはまるで違っていた。
「ソファーでは腰が痛くなるだろうから、ベッドで寝なさい」と。
さすがにそこまで甘えられないと断ったのだが、スカイアイは譲らなかった。仕方なくベッドに横になると、スカイアイは妙に満足気な顔をして俺の頭を撫でた。そんなスカイアイに遠い日の記憶がよみがえる。昔、父親にこんな風に優しく頭を撫でられたことがあったと。
スカイアイはまだ仕事を続けるらしく、部屋の明かりは落とし、デスクライトだけ灯してパソコンに向かった。
ベッドには彼がいつもつけている香水の香りが染み付いている。それは俺を落ち着かない気持ちにさせたけれど、意識はあっという間に闇に沈んでいった。

いつも一人で眠る時は悪夢を見て起きるが、その日は違っていた。
父さんと母さんがいた家。夢のなかで俺はまだ子供だった。母さんが俺の好きなシチューを作ってくれて、父さんは俺に星を見るための望遠鏡を贈ってくれた。何度目かの俺の誕生日。父さんが、次の休みには一緒に望遠鏡で星を見に行こうって言ってくれたけれど、その日は永遠に来なかった。
夢の中でしか会えなくなってしまった懐かしい人たち。今ではほとんど思い出さなくなっていた。

目を覚ますと、スカイアイは俺が眠った時のまま、机に向かっていた。それほど時間は経っていないらしい。体を起こした俺に気がついて、スカイアイがこちらを見た。
「どうした、メビウス1」
驚いた顔をしている。
彼が机から立ち上がり、こちらに歩いて来る。ベッドの縁に腰を下ろし俺の目の下をそっと拭った。――指が濡れている。
「何か、嫌な夢でも見たのか」
ささやくように静かな声だった。
嫌な夢ではない。むしろ嬉しい。今は絶対に会えない人に会えたのだから。でも、涙は止まらなかった。
「夢を、見た。父さんと母さんがいた頃の」
「ああ」
「俺の父さんは、戦闘機パイロットだったんだ。家の近くに空軍の基地があって、そこに赴任してた」
俺はスカイアイに語る。
あまり会えなくて寂しかったけど、休みの日には良く一緒に遊んでくれた。寝る前には、戦闘機の話や他国の有名なエースパイロットの話を聞かせてくれて、俺が興奮して眠れなくなって母さんに怒られたりしてた。
「父さんが大好きだったよ。俺もいつか父さんみたいな戦闘機パイロットになりたいって思ってた」
「夢を叶えたんだな」
「うん……、でもちょっと違うかな」
「違う?」
薄暗い部屋の床に互いの声が沈む。涙の滴が落ちて、そこだけ色を濃くしたシーツをじっと見た。
「俺がパイロットになったのは、空で父さんが待っていて、空で死ねば父さんと同じところへいけるような気がしたからだよ」
「………………」
なぜ涙が止まらないんだろう。さっきから拭っても拭っても溢れてくる。父さんも母さんもいない悲しみは、もうとっくに乗り越えたと思っていた。
あんな夢を見たのは、スカイアイが俺の頭を撫でたからだ。父さんがよくしてくれたみたいに。
涙を拭おうとした手をスカイアイの手が握る。見上げると、痛みを堪えたような顔があった。
腕を引かれ傾いた体をぎゅっと抱き締められる。
「生きてくれ」
頭を肩口に押さえつけて言う。スカイアイの声が体に伝って響く。
「俺のために生きてくれ」
涙がスカイアイのシャツに染み込んでいく。
誰かに生きてくれと言われたのは初めてだった。兵士になった時から、いつ死んでもいいように、死ぬ覚悟だけは常にしてきたつもりだ。誰かのために“生きる”なんて、考えもしなかった。
抱き締める腕の強さに、スカイアイの気持ちが嘘ではないと伝わってくる。俺が死ぬと悲しむ人が、少なくとも一人はいる。だったらその人のために生きなきゃいけないのかもしれない。
俺は微かにうなずいた。顔を上げてスカイアイを見る。
「わかった……。あなたのために、生きるよ」
そう言うと、スカイアイは安心したような、けれどどこか寂しそうな顔をした。俺は何か間違ったかと首をかしげた。
涙はもう止まっていた。