左の頬が、ズキズキと痛む。
仲間に胸ぐらをつかまれて、殴られた。背が高く立派な体格を持つその人は軽く殴っただけかもしれない。けれども、俺は簡単にふっとんで、近くにあった机を巻き込んで倒れた。その人は殴った後、ばつの悪そうな顔をして後悔しているようだった。気性は荒いが他人のために怒れるこの仲間は、きっと性根は優しいに違いない。
たぶん悪いのは俺で――。
空戦中、味方が助けを求めていたのに気づいていながら俺は掩護に入らなかった。味方は彼が助けてやったが、なぜ味方を助けなかったのだと、彼は怒って詰問してきたのだ。
一応、自分の中で理由はあるが、うまく説明できる気がしなかった。彼はイライラしているし早く答えなければと焦って、結局、出てきたのは「ごめん」のひとことだけ。もともと彼には好かれていなかったし、殴られるのも仕方がないと言えた。
俺は話すのが苦手だ。
どう言ったらいいのかわからなくて言葉につまったり、考え自体がまとまらないこともよくあった。
口を開きかけても、考えをまとめているうちに時間がかかり、相手はだいたい俺の言いたいことを勝手に推察して自己満足して去っていくか、話したくないのだと誤解され、やはり離れていった。何が言いたいのだと相手をイラつかせることもあった。半開きの口は、むなしく閉じるほかなかった。
けれどそれは俺の口が遅いせいで誰のせいでもない。大抵の人は他人である俺のことなんかどうでもいいと思ってる。とるに足らない存在で、興味もない。そんな相手の言葉を、誰がじっと時間を費やして待ってくれるだろう。俺だってそうだ。他人に興味などなかった。――それは悪いことだろうか。
「メビウス1」
背後から呼び止める声に肩がはねた。できれば今は会いたくない人物だった。左の頬を手で包み、殴られた痕を隠す。
「メビウス1、ヴァイパー7に殴られたと聞いたが、大丈夫か?」
振り返らない俺の前にわざわざ回り込み、高い背を屈めて顔をのぞき込む深いブルーの瞳が、心配そうに揺らめいている。今の情けない姿を見られたくなかった――スカイアイには。
これまで俺の話など聞こうとする物好きはいなかった――彼を除いて。
スカイアイは自発的に話さない俺に質問をし、答えを返させるという手法で俺と会話した。俺の言いたいことを勝手に推察したりもしなかった。必ず俺の言葉をじっと待ってくれた。優しい瞳で見つめ、ときにうなずきながら。
そんなスカイアイの姿に、遠い過去の記憶が重なる。
父さんは俺の話を引き出すのがうまかったし、母さんはつたない俺の言葉を黙って聞いてくれた。スカイアイの話の聞き方は、両親のそれを彷彿とさせた。
スカイアイは俺とは真逆の人間で、話すのがとてもうまい。声を仕事にしているのだから当然かもしれない。スカイアイの仕事は瞬時の判断力と、的確な伝達力が必要だ。俺のように何を言うべきかを迷っていたら、秒で動く戦況に対応できない。スカイアイはどちらも備えていて、その上、言葉で俺たち現場の兵の士気を高めた。この人のためならばと思わせてくれた。仕事ができても人の心をつかめる指揮官はそうそういない。スカイアイは皆に頼られ、慕われていた。
そんな人が、なぜ俺の話を聞いてくれるのか、ずっと疑問だった。面白いことなど、なにひとつ話せないのに。
けれど嬉しかった。
誰かに話を聞いてもらえることが、俺に興味を持ってもらえることが、正直に言うとたまらなく嬉しかった。
「メビウス1?手をはなして傷を見せてくれ」
ボーッとしていた俺の左手に、そっと彼の手が触れ、隠していた左頬があらわになる。
「ああ……口の端が切れてる。これから腫れるな。他にケガは?」
首をふった。
本当は倒れたときに机にぶつかってあちこちが痛かったが、わざわざ彼に知らせて心配させることもないと思い、言わなかった。
スカイアイは無言で俺の目をじっと見てくる。心の中まで見通されそうで、居心地が悪かった。
スカイアイはふっとため息をひとつ吐いた。
「医務室へ行こう。手当てをしなければ」
「だ、大丈夫……」
「ダメだ。君たちの体は常に万全の状態に保たなければならない。少しの不調でも報告しろ」
スカイアイの言葉が胸に刺さった。俺が言わなかった体の痛みを、どこまで察したのだろうか。それとも、心配してくれた彼にうそをついた罪悪感から、すべてを見透かされた気になっているだけなんだろうか。
医務室へと歩きながら、殴られたときの状況を聞かれた。ポツポツと答えているとスカイアイが不思議そうに尋ねた。
「君は、殴られたというのに怒っていないんだな」
「え?……うん」
「なぜ?普通、理不尽に殴られれば腹も立つだろう」
「だって……」
まったく理不尽ではなかった。ヴァイパー7が怒るのも当然だったし、説明をしなかった俺が悪い。
そう考えたところでスカイアイを見上げると、彼はじっと見て続きを促している。これは話すまで許してもらえない。目と目で通じ合えたらいいのに。考えたことが伝われば、しゃべる労力を費やさなくていい。テレパシーがあればなぁなんて、子供じみたことを願ってしまう。そうすれば誤解も生まれない。
「……ん?」
「あ、その、ヴァイパー7が怒るのも当然だから」
「なぜ」
「えっと、だから、俺が掩護に入らなかったから……」
「君が掩護に入らなかったのには、理由があるんだろう」
「えっ」
思わず立ち止まり、スカイアイを見上げた。なぜわかったのだろう。
「君の飛び方をいつも見ているから、何となくわかる。君は効率を重視している。戦場を広く見て、どこから、何からつぶすのが効率がいいか常に考えている。それには危険度も含まれていて、戦場で最も危険なものからつぶしていく。……そうだろう?」
俺は口を開けて呆然とした。左頬の痛みも忘れた。
そんなこと、誰にも言ったことはない。自分が何を思い、何を考え飛んでいるかなんて。
「君の戦場での判断は非常に合理的で信頼できる。だから俺から細かな指示を出す必要はなく、好きに飛んでもらっている」
カッと体に火がともったように熱くなった。恥ずかしい。いや、これは嬉しい?
スカイアイがそんな風に考えていたなんて知らなかった。何も言わなくても俺の飛び方を理解して、認めてくれていた。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「あのとき、ヴァイパー7が掩護に入ることも、君の中では織り込み済みだったんじゃないか」
「っ、……そう」
ここまで言い当てられるとそら恐ろしい。
「だったら、それを彼に説明するべきだったな」
「…………」
「君の性格を考えたら、難しいのはわかるがね。ヴァイパー7だって、言われなければわからないだろう。そこは君にも悪いところがあった。だからといって君が怒らないのも違う」
「えっ……?」
「相手が気に入らないからって暴力に訴えるのはよくないだろ?そこは怒ってもいいと思うよ」
そう、スカイアイは微笑む。
温かさに包まれて、ああ、かなわないなあと思う。
スカイアイの言葉はいつも正論で、でも押し付けがましくなくて俺の心にスルスル入ってくる。優しくて、本当に俺のことを思って言ってくれているのがわかって、なんだか泣きたくなる。
すべてスカイアイの言うとおりなんだ。だけどうまくいかないんだ。俺はやっぱり話すのが苦手だし、面倒だと感じる。他人に理解してもらう必要もないって考えてる。なのに、スカイアイに理解されていたと知って、心の底から嬉しいと思ってる。矛盾だらけだ。
スカイアイは、そんな自分の中の矛盾に苦しむことはないのかな。
無意識に彼をじっと見ていたらしい。スカイアイが「ん?」と上背をかがめて話を聞く体勢になり、慌てて首をふった。
「な、なんでも、ない」
「そうか?……なんでも話してくれて、いいんだよ」
スカイアイの言葉が耳に甘く響く。彼は声もいい。誘惑されたら、本当になんでもペラペラしゃべってしまいそうだった。
ダメだ。甘えるな。彼は優しいから俺みたいなのにも気を使ってくれているだけだ。勘違いするなと、医務室へ向かう間、自分に言い聞かせなければならなかった。