4.
部屋の扉が躊躇いがちにノックされた。
「メビウス1……入るぞ」
スカイアイの声に心臓がキュっと縮んだ。だけど、スカイアイが訪ねてくるのは予想していたから、すぐに気持ちを切り替えた。
「……。どうぞ」
声をかけて一拍の後、ドアが開いた。スカイアイが部屋を一望して息をのむ。
メビウス1はスカイアイには背を向けて、大きなボストンバッグに自分の衣服や私物を入れ始めた。
「本当に、辞めるんだな……」
スカイアイのため息混じりの声が、物がなくなってガランとした部屋に響いた。
「うん」
衣服を仕分ける。服は最低限あればいい。私物といっても本当に大切なものは少ない。
「君に、謝らなければならない」
「え……?」
スカイアイが、床に荷物を置いて座って作業をするメビウス1の隣に片膝をついた。
「以前、君は俺に刺された理由を知っているかと聞いたな。そのとき、俺は君に嘘をついた。……すまない」
「なんだ、そんなこと。……もういいよ」
「辞める理由はやはり、命が狙われたからか」
「ん……、それもあるけど」
ボストンバッグに入れる私物を選ぶ。父の形見の本や、スカイアイにもらったお守り。お守りは戦いのたびに身につけて勇気を貰っていたせいか、あちこちほつれ、くたびれている。
――まるで俺みたい。
そう思ったら、なんだか笑えてきた。
「疲れたんだよ」
「疲れた?」
「英雄だ、なんだって言われるのが」
入りきらない残りの私物は処分してもらおうか、と考えた。
「俺は英雄なんて柄じゃない。スカイアイも知ってるでしょう?」
話をふっても、スカイアイからの返事はなかった。
「俺は別に英雄になりたかったわけじゃないし、こんなのは重荷でしかない。上の人が俺の存在に危機感を抱くのなら、辞めてあげるよ」
「飛べなくなるぞ。……いいのか」
スカイアイの言葉に一瞬、胸がつまった。
「……しかたないよ」
戦闘機で空を飛ぶのは大好きだ。二度と飛べないとなったら、つらいし悲しい。でも、考え方を変えたんだ。もともと、こんなに長く生きる予定じゃなかった。今は人生のボーナスステージにいるようなものだ。ラッキーなんだ。だから軍を辞めるのは、ラッキーじゃなくなって、普通に戻るだけのことだ。
そう、言い聞かせた。
「俺のことも“しかたない”で片付けるのか」
「……スカイアイ?」
スカイアイの声にトゲを感じて、思わず彼の顔を見た。いつも優しいスカイアイが、今は眉をしかめ、口は真一文字に結ばれている。
「軍を辞めるということは、俺と一緒に飛ぶことも二度とないということなんだぞ。君はそれで平気なのか」
メビウス1はうつむいて、スカイアイから放たれる怒気に耐えた。
唇を噛む。
急に寒くなって指先が震えた。部屋の温度が二、三度下がった気がする。
黙ったままのメビウス1に苛立ったのか、スカイアイは怪我をしていない方のメビウス1の腕を強く掴んで身体ごと自分の方へ向けさせた。
「君は……俺がいなくても平気なんだな」
静かで冷静な声だった。決して怒鳴られたわけじゃない。それなのに、突き放されたように感じる。言葉は凍りついた刃となってメビウス1を切り裂いた。
これまで、誰に何を言われても平気だった。誤解されても、嫌われても、イヤミを言われたって、ここまで深くは刺さらなかった。スカイアイだからこそ、彼に誤解されるのは何よりつらかった。
「平気な……、平気なわけない……っ」
必死にこらえていた感情がほとばしった。
「だけど、仕方ないじゃないか!こうする以外、俺とあなたが無事でいられる方法なんてない……!」
「俺……?」
「毎日、疲れた顔をして、あなたが俺のために動いてくれていたの知ってる。だけど俺を庇えば、あなたの立場も危うくなるんだよ」
「そんなことは百も承知だ。俺が君の一番の理解者で、支援者であることは上層部にも知れわたっている。すでに一蓮托生なんだ」
「でもっ…………俺のせいで、あなたが傷つくのは嫌だ……っ。俺なんかどうだっていいんだ。あなたが無事でいてくれなくちゃ……っ」
涙がぼろぼろ流れた。腕を掴まれていて涙を拭えない。
こんな風に泣くつもりなんて、なかったのに。
本当はずっとつらかった。軍を退役すると決意したのは自分なのに、スカイアイと離れる日が近づけば近づくほど、胸がつまったように息苦しくなった。もう、二度とこの人に――優しい声も、大好きな瞳も見ることができないと思ったら……苦しくて苦しくてしかたがなかった。
ちっとも平気なんかじゃない。
好きだった。どうしようもなく。
「あなたがいなきゃ……俺は……生きていけない……」
「メビウス1……」
泣きながら訴えるメビウス1を、スカイアイは戸惑った様子で肩を引き寄せ、抱きしめた。
「すまない……。キツいことを言った」
涙が止めどなく流れては、スカイアイのシャツに染み込んでいく。震える肩や背中を、スカイアイの手のひらがなだめるように撫でた。
「本当は、君がこの軍を辞めて、自分のために生きるのもいいと思っているんだ。君の安全のためにもな」
「っ……じゃあ、なんで」
「離れる前に、どうしても君の本心が知りたかった」
「本、心……?」
腕のなかでスカイアイを見上げた。スカイアイは指先でメビウス1のぐちゃぐちゃに濡れた頬をぬぐった。さっきは冷たく感じた瞳が、今は柔らかく凪いでいる。
「俺は、君が好きだ」
その告白はあまりにも唐突で、メビウス1は一瞬、時が止まったかのように頭が真っ白になった。
衝撃に呆然となって涙も止まった。スカイアイの目は、メビウス1をまっすぐに見つめる。真剣に。
「ずっと……好きだった」
――そうかもしれないと、思うときはあった。
ふとしたときに感じる、見守る瞳。泣きたくなるくらい、優しく包みこむような気配。
けれど、それは自分の妄想で、勘違いだと思ってきた。
だって、違ったら怖いから。やっぱり勘違いだったら自分が傷つくから。自分には、スカイアイに好きになってもらえる価値なんかないと思いこもうとしていた。
「君も、薄々気づいていたんじゃないのか?」
「お、俺なんかの、どこが……」
スカイアイの顔が見られない。さっきまで子供みたいに泣いていたくせに、急に恥ずかしさがこみ上げてきて、顔が熱かった。ゆでだこみたいになっている気がする。
スカイアイが小さく笑う振動が身体に伝わる。
「さぁ、どこなんだろうね。君は無表情で、喋るのも下手だし、いつも眠そうにボーッとして何もないところでつまずくし、誰とも関わろうとせず……いつも死にたがっていた」
最後にポツリと言われてドキッとした。スカイアイは、メビウス1が死に場所を求めていたのに気づいていたのだ。そんな自分を何故――。
スカイアイはうつむいたメビウス1の顎を指ですくい、正面から見つめた。
「気がついたら、君のことばかり見ていたよ。君は自分に自信がなくて、自分には価値がないと思っているようだけど、君には君にしかない魅力が、ちゃんとある」
吐息がかかりそうなほどの距離で、そんな言葉を囁かれて、ぐらぐらと目眩がした。
これは都合のいい夢なんじゃないのか?
「君が好きだから、忘れられたくなかったんだ。……君は?」
「えっ」
「君の気持ちが知りたい」
「あ、……う、その……」
真剣な瞳で見つめられて、メビウス1は真っ赤な金魚のように口をパクパクさせた。
スカイアイが逃がすまいと、手で頬を挟んでメビウス1の頭を固定した。
言っても、いいんだろうか。
彼に、この気持ちを。
求めても、許されるのだろうか。
幸せになることを――。
「メビウス1……」
スカイアイがそっと促す。
大好きな、深い青の瞳が目の前にある。
高度一万五千フィートから見える空の色だ。
天に近づくほど空の青は深くなっていき、空は“空”ではなく、実は“宇宙”だったのだと気づく――。メビウス1はそんな地球の空と宇宙の狭間を感じるのが好きだった。自分がひどくちっぽけに思えるから。
メビウス1はちっぽけな自分を、殻をまとい、壁を築くことで守っていた。けれども広大な空にあれば、そんな殻も壁も無意味だ。なぜなら、すべての命が平等にちっぽけで、等しく輝くのだから。
不安も、見栄も、嘘も。スカイアイの瞳の前ではすべてを剥ぎ取られて、ありのままの自分をさらけ出すしかない。
メビウス1の口から、自然と言葉がこぼれ落ちた。
「あなたが、好きだ……」
言った途端、スカイアイにかき抱かれた。ああ、という肺から絞り出したような感嘆と共に。
「長かった……」
「……え?」
「君のことが好きだと自覚してから、今日まで……長かったよ。戦争中の君には、とても告げられなかったから」
「……スカイアイ、いつから俺のこと――?」
その疑問には答えず、スカイアイはメビウス1の頬を両手で包み、愛おしそうに見つめた。親指が唇をそっとなぞる。スカイアイの意図に気づいたメビウス1は目を伏せて、訪れる熱を迎え入れた。
少しかさついた唇。やわらかい。スカイアイの背にそっと左腕を回す。すると、スカイアイもメビウス1の背中を抱き寄せて、後頭部を手で支えられ、口づけが深くなった。
「……ん……」
口づけは、メビウス1の心を温かく解きほぐした。
幸せにおなり――と、誰かに背中を押されたような気がした。
これまで感じたことのない幸福感が胸をいっぱいに満たす。
――生きてきて、よかった。
メビウス1は初めて、そう思った。