2.
式典の会場は広いホールを貸しきって行われた。屋内なのは、まだ戦争が終わって間がなく、部外者を入れぬよう警備を万全にするためだった。
スカイアイは舞台の下、会場の角からメビウス1を見守った。彼の緊張がスカイアイには手に取るようにわかったが、彼の無表情からそれを読み取った者は少ないだろう。
メビウス1の噂は聞いていても姿を見たのは初めてという者も多い。これまで暗殺を警戒して、ISAFはメビウス1を表舞台には決して立たせなかった。それだけに、初めて姿を現す彼に皆の視線が集中するのも致し方ない。
スカイアイが手を加えたヘアスタイルも良く似合っていたし、身長の低さも、舞台の上ならいくらか誤魔化される。黙って立っている分には、メビウス1は英雄然としていた。
滞りなく式典は進み、メビウス1が舞台から階段を降りて会場の席へ戻るところだった。会場の端にいたスカイアイを彼は迷わず探し出し、目線が合った。緊張で固くなった無表情がふわりと和らぐ。スカイアイも“よくやった”の意味を込めてうなずき、微笑みを返した。
瞬間、メビウス1が立ち止まった。
階段をあと少しで降りきるところで何かに気がつき、目を見開いている。さっきまでの柔らかさは消え去り、ピリッと張りつめた気をまとう。それは、さながら戦場のただ中にいるかのごとく。
メビウス1の尋常ならざる様子に、スカイアイは思わず席を立ち、辺りを見回した。
会場の最前列、ちょうどメビウス1の降りてくる階段の前あたりに座る男が、懐に手を入れ前屈みになっていた。
――あの男――!
懐に隠しているのは、銃か、刃物か。
わからない。
だが会場端のここからでは、たとえ走っても、メビウス1と男の間に割り込むのは間に合わない。
男が弾かれたように飛び出す。音を立てて倒れるパイプ椅子。警備の者たちが気づく。メビウス1はもはや逃げられないと悟ったらしく、男と正面から対峙した。
(やめろ、君は丸腰だ!)
空では無敵の英雄も、地上では一兵卒にも劣る。
スカイアイは、冷たい氷のナイフを飲み込んだような心地がした。駆け出したいのに脚が上手く動かない。男の血走った眼も、覚悟を決めたメビウス1の表情も、細部に至るまでハッキリと認識できるのに。
――全てがスローモーション。
「メビウス1!」
口だけがかろうじて動いた。
その声に、周りの人間も動き出した。
男が叫びながらメビウス1に突進する。小さな身体を弾き飛ばす勢いで男に覆い被さられたメビウス1は、男と一体になり地面に倒れこんだ。その上から何人もの警備の兵や、近くにいた人間が男を取り押さえようと集まる。場は騒然とした。
スカイアイはようやく動くようになった脚で駆けよった。
「どいてくれ!」
周りの人間を押しやって、倒れ伏したメビウス1に少しでも近づこうとした。
「止血だ! 止血急げ!」
メビウス1の傷をみた兵士が大声で怒鳴っている。
床に点々と飛び散った赤にスカイアイは身をすくませた。人々が踏み荒し、どす黒くかすれ、汚れていくそれ。
スカイアイは足元から地面が崩れ落ちていくような気がした。
式典は中断された。
軍の内部だけの式典であったから、緘口令がしかれ、メビウス1が襲われた事実も怪我の具合も、外へ漏れることはなかった。
翌日、スカイアイは司令官の元を訪れていた。
司令官がスカイアイに尋ねる。
「メビウス1の容態は?」
「……命に別状はありません」
「そうか、それはよかった」
中年の司令官はスカイアイの報告を聞いて、人の良さそうな顔で笑った。
スカイアイは司令官のように「よかった」と笑う気にはとてもなれなかった。今回はたまたま運が良かっただけだ。
ナイフを隠し持っていた男はメビウス1を刺そうとした。彼はとっさに右腕で身体を庇い、ナイフを受け止めた。もしも逃げようとして、下手に隙をみせれば殺されていただろう。メビウス1はあの瞬間、腹を刺されるよりは腕一本を犠牲にしたほうが生き残れると考え、実行した。普段はぼんやりしているくせに、極限状態での彼の判断はいつも正しい。ナイフは腕で勢いが削がれて、腹には深く刺さらなかった。だが右腕を深く傷つけた。しばらくは安静が必要だろう。
「大丈夫かね?君の方が死にそうな顔色をしているよ」
「は……、いえ」
メビウス1が刺されてから、彼の治療に付き添ったり、事態の把握に奔走した。ほとんど寝ていない。寝られるわけがなかった。メビウス1が刺されたときは、心臓が止まるかと思った。あんなに式典に出るのを嫌がっていたのに、無理に出席させた結果がこれだ。後悔しても、したりない。
「あの男はどうなりましたか」
「捕らえて尋問中だ」
「なぜ、メビウス1を」
「メビウス1に個人的な恨みがあったと供述しているようだ」
「恨み……?」
スカイアイは馬鹿馬鹿しい――と、吐き捨てるように笑った。
メビウス1は誰かに恨まれるような人間じゃない。百歩譲って恨まれていたとしても逆恨みだろう。
「ですが、あの男は武器を持ち込んでいた。会場は厳重に警備をしていて、武器の携帯も禁止。入り口で検査をしていたはずです」
「そこだよ。警備に穴があった可能性もないわけじゃないが……。あの男が検査の目をくぐり抜け、武器を持ち込み、メビウス1が降りてくる階段のちょうど前に座っていたのは、はたして偶然だと思うか」
当日の会場内の席は自由ではなく、混乱と混雑を避けるために席順は事前に決められていた。メビウス1に恨みを持つ男が、なにがしかを計画したとしても席順まで都合良くはならないだろう。
「つまり……席順を指定し、警備をすり抜けさせられるような力を持つ誰かが、あの男の裏にいると?」
「困ったねぇ」
司令官はため息をついて、窓の外を眺めた。
「メビウス1の存在を疎ましく思う一派が、どうやら我が軍にはいるらしい」
司令官は話す。上層部では英雄となったメビウス1の影響力を警戒する向きもあると。戦争に勝つためにはメビウス1の力に頼らざるをえなかったが、戦争に勝利したことで本格的に動いてきたのだ。
おそらく今回の事件は警告だ。警備がいる中で狙ったのだから。本気で殺す気があるなら、あの男はナイフではなく銃を握らされていたはず。
英雄と持ち上げておいて、邪魔になれば始末する――スカイアイも軍人で、軍の内部がそれほど綺麗でないことは知っている。むしろ人間の集まりである以上、そこには醜悪な欲にまみれた汚泥が溜まる。だが、メビウス1にはそんなものと無縁でいて欲しかった。
メビウス1を狙うものが敵であれば、たとえ困難でも戦って撃破できる。が、それが味方であったなら。背後から撃たれる銃弾をどうやったら防げるというのか。
司令室を後にするスカイアイの足は自然、重くなった。
メビウス1が看護されている病室は、扉の前に常に警備の兵が立っている。メビウス1に面会できるのはスカイアイと、司令官に許されたほんの一握りの仲間だけだ。
「あ、スカイアイ」
スカイアイが入室すると、白いベッドに身を起こしていたメビウス1は、パッと顔を輝かせた。彼の嬉しそうな表情を見ただけで陰鬱とした気持ちが幾分か癒される。
「起きていて大丈夫なのか?」
「うん。傷はすぐに縫合してもらったし、塞がってるよ」
刺された腹を、患者用の服の上から左腕で撫でてみせた。右腕は包帯で巻かれ、動かさないよう肩から紐で吊るされている。命に別状はないとはいえ、痛々しい。
ベッドの上で半身を起こして、簡易テーブルの上に置かれたフルーツの桃を食べていたらしい。右腕は使えないため、左手にフォークを握っている。
ぎこちない動きでカットされた桃を左手で刺そうとする。みずみずしい桃はつるつると滑り、皿の上で回転した。
「うぅ……。あ、そうだ。スカイアイも食べる?」
照れ隠しか、急にスカイアイの方へ左手を突きだす。フォークを渡そうとする、その頬は赤い。
ふっと、スカイアイは吹き出してフォークを受け取った。桃をひとつ、フォークで刺してメビウス1に差し出してやった。
「ほら」
「あ……、ありがとう」
蚊のなくような声で呟いて、メビウス1は桃の刺さったフォークを受け取った。赤くなった顔で、無言のまま桃を頬張るメビウス1が愛らしい。微笑ましい光景のはずなのに、見ていると胸が締めつけられた。
「……すまなかった」
「……え?」
「君に、式典に出ろと言ったことだ。こんなに、後悔したことはない」
「スカイアイのせいじゃないよ」
「ああ、そうだな」
上からの命令で、メビウス1は出席しなければならなかった。そこで何が待ち受けていようとも……。こうなることは必然だった。それでも後悔する。
「守ってやれなくて、すまない」
彼を守るなんて傲慢かもしれない。彼は戦士だし、スカイアイは万能じゃない。それでも、大切な人を守りたい。
その感情に突き動かされるまま、メビウス1を両腕で抱きしめた。後頭部に指を差し入れ、彼の頭を自分の肩口に押し付けた。髪から彼の甘い香りが漂ってスカイアイを包みこむ。髪の間から覗く白い耳に頬をつけた。ひんやりと冷たい。彼の身体の冷えた部分を全部、自分の熱で温めてやりたいと思った。
「ス、スカイアイ……」
メビウス1が戸惑っている。
味方が彼を追い落とそうとしたときスカイアイにどれだけのことができるだろうか。彼をどこまで守ることができるのか、自分にその力があるのか。――わからない。恐ろしかった。何もできないまま、彼を目の前で失うのが。
ついメビウス1を抱きしめる力が強くなる。彼は傷を負っているというのに。
そんなスカイアイの様子に何を思ったのか、メビウス1がそっと名を呼んで語りかけた。
「スカイアイは、いつも守ってくれてるよ」
「え――?」
思いもよらない言葉に、少し身体を離してメビウス1の顔を見た。彼はこれまで見たことがないくらい優しく微笑んでいた。
「スカイアイはいつも俺の心を守ってくれている。……だから、俺は今も生きていられるんだ」
それがとても誇らしいことのようにメビウス1は笑う。
その微笑みがスカイアイの胸をついた。愛おしさや切なさがない交ぜになってスカイアイを襲う。
スカイアイはメビウス1を、今度はそっと、存在を確かめるように抱きしめた。