旅立ち - 1/5

1.

「メビウス1、入るぞ」
部屋の扉をノックするやいなや、返事をする間もなくスカイアイが中に入ってきた。部屋のクローゼットについた鏡と向き合いながら、もたもたとネクタイをいじっているメビウス1を、スカイアイは呆れたように見てため息をついた。
「なんだ、まだ準備できていないのか?」
「ごめん……ネクタイが……」
本日行われる終戦の式典のために正装をしなければならないのだが、しなれない格好だからだろう。ネクタイが綺麗に結べなくて、ずっと鏡の前で格闘していたのだった。
ネクタイが上手く結べないなんて、大人として、仮にも社会人としてどうなんだろうか。己とは正反対に美しく結ばれたスカイアイのネクタイを見て、メビウス1は少し落ちこんだ。
「かしてみろ」
見かねたのか、スカイアイが苦笑して手を差し出した。
向かい合って立つ。
濃紺のツヤのあるネクタイが首に巻かれる。邪魔にならないように顎を少し上げるとスカイアイと見つめ合う結果になり、視線だけをぎこちなく反らした。
距離が近すぎて落ち着かない。スカイアイからはいい匂いがするし、ブルーグレーの礼服姿もかっこいい。胸が高鳴ってどうしようもない。
メビウス1はスカイアイに特別な感情を抱いていた。
彼はこんな自分を肯定してくれた。生きていていいのだと言ってくれた。今の自分はスカイアイのために生きている。必要としてくれる彼に依存して、身の程知らずな感情を抱いてしまった。
スカイアイを前にすると、心は浮わついてひどく乱れる。些細な言葉に嬉しくなったり、奈落に落とされたりして、まったく自分の思いどおりにならない。恋愛ごとに疎いメビウス1も、これが恋というものだと、さすがに理解した。
「うん……?」
スカイアイの眉間にシワがよった。さっきから、ああでもない、こうでもないと、手元がいったりきたりしている。まさか結び方がわからなくなったわけではないだろう。
「どうも、やりにくいな」
いったんネクタイを外して、鏡の方を向けと言われ、スカイアイに背を向けた。
スカイアイは普段からネクタイをしているし、ネクタイをどう結ぶかなんて、もはや毎日意識せずにやっているはず。意識せずにやっていたことを意識すると、急にまごついてしまうことはある。向かい合うと、いつもの結び方とは反転してしまうため、やりにくかったらしい。
背後から被さるように腕が伸びてくる。彼の手が首筋を掠める度に、ぞわぞわとした感覚が背筋をかけ上った。こんな些細な触れ合いさえ、メビウス1にとっては大事件だ。早く終わってほしい自分と、終わってほしくない自分が頭の中で争い、拮抗した。
最後に襟を整えて、ほんの数十秒でネクタイは美しく結ばれていた。
知らず詰めていた息をはく。
「あ、ありがとう……」
「いや……。それより、この髪で出席する気か?」
スカイアイが後ろから、手入れもせず伸びすぎた前髪を手ですいた。
こうして触れられる度に、もしかしてスカイアイは俺を好きなのではないか、などという考えが頭をよぎった。鏡に映った彼の瞳があまりにも優しいから。
しかし、そんな考えはもう一人の自分がすぐさま否定する。思い上がるな、と。メビウス1は、スカイアイみたいな素晴らしい人の横に胸をはって立てる自信がなかった。容姿もそうだ。髪を手入れもせずボサボサに伸ばす理由は、人に見られるのが嫌だからだ。他人の視線を遮るものがあると安心できた。
「えっと……やっぱりダメ、かな」
「髪を切っておけと司令に言われていただろ?……しょうがないな。ワックスは?」
「ない」
「……だろうな」
スカイアイは聞くまでもなかったと苦笑して、少し待っていろと言って部屋を出ていった。すぐに戻ってきた彼の手には、小さなワックスのケースが握られていた。
「どこから……?」
「隣の部屋のやつから借りてきた」
スカイアイはワックスを手の平にのばし、メビウス1のボサボサ頭に塗りたくった。
「うう……」
ベタベタした感触が気持ち悪い。
「スカイアイ……俺、式典に出たくない……」
もう、今日に至るまでに、何度も何度も口にしてきたことだった。
「これも仕事の内だと割りきるんだ。別に、なにか話せと言われたわけじゃないだろ。ただ立っているだけでいいんだから」
泣き言をいうたびにスカイアイは言葉を尽くしてメビウス1をなだめた。
舞台の上で、皆の視線を浴びる――それがどれだけ嫌なことか、スカイアイも理解してくれている。最初は、演説を望まれていたと聞いて背筋が凍ったのだ。それはさすがにメビウス1の性格をよく知る司令官やスカイアイが阻止した。
空を飛ぶ能力だけは人並み以上あるメビウス1は、たくさんの敵を殺して英雄と呼ばれるようになった。英雄ともなれば、少しは自分に自信が持てたかというと、そんなことはない。周りの評価と自分の内実との落差に、かえって惨めな気持ちになるだけだった。
「よし、できた。こんな感じでどうだ?」
メビウス1の髪をいじくっていたスカイアイが、鏡を見るように促した。
目を隠すほどに長かった前髪のほとんどをオールバックにして、左に残した一房を横に流している。ワックスで固められ、ずいぶんすっきりした髪型になった。
普段、目の前を覆っていた前髪がなくなり額がスースーする。
スカイアイのセンスに間違いはなく、これなら正装にも合っていると思うが、なんだか自分を無防備に晒しているようで恥ずかしくてたまらなかった。
鏡越しにスカイアイは「かっこいいよ」と自分の仕事ぶりに満足そうな笑みを浮かべた。