「えっと……、リーチ……?」
緑のテーブルの上に自信なさげにそっと置かれた千点棒。
場の空気は凍りついた。
口には出さなくとも皆の声が聞こえてきそうな気がした。
こいつ、またかよ――と。
オメガ1は左隣に座ったメビウス1をチラリとうかがう。その表情は嬉しそうでも、緊張や期待で力んでもいない。まったくいつもと同じに見える。生意気な。少しくらい表情に出れば可愛げがあるものを。オメガ1は心の中でメビウス1をなじった。
さっきからメビウス1ばかりあがっている。
最初はビギナーズラックかと思って微笑ましく見ていたのだが、気がつけばオメガ1の持ち点はあと五千ほど。しかもメビウス1は今、親だ。ここで下手な打ち方をして当たってしまったら、五千点くらい消しとんでしまいそうだった。
(ここは安全に、オリるか……)
消極的だが仕方がない。今のメビウス1はツキにツキまくっている。運気の流れを感じるのだ。そういう時に流れに逆らって無茶をしても、決していい結果にはならない。
オメガ1は出来上がりつつあった手牌を崩して安牌を切った。
メビウス1は隣に座ったスカイアイとなにやら話している。
この麻雀を始めるときに面子が四人集まらず、穴埋めにメビウス1を誘った。するとルールを知らないと言う。ならばと、同じ場にいたスカイアイを誘ってみた。スカイアイはルールは知っていたがそれほど麻雀は得意ではないらしい。
空いている席は残りひとつ。そんなこんなでスカイアイがメビウス1に教えながら一緒に打つ、ということになった。
麻雀を何も知らないメビウス1にスカイアイが一から解説をする。スカイアイは麻雀が得意ではないと言っていたがどこまで本当か。その解説は横で聞いていても見事なものだった。
「麻雀は役がないと上がれないんだ。ただ、基本形が出来てさえいれば『リーチ』できる」
「役って……?」
「このルールブックに一覧が載っているね」
スカイアイがメビウス1に渡したのは麻雀牌の入っていた箱についていたルールブックだ。
それをじっと見つめたメビウス1は眉間にシワを寄せて難しい顔をした。
「む……、いろいろあって覚えられないよ」
「覚えなくてもいいよ。できそうな役があれば教えてあげるから」
「うん。ありがとう……」
にっこり笑うスカイアイに、つられてメビウス1も微笑みを返していた。
一生懸命ルールを覚えようとしているメビウス1と、隣で楽しそうに教えるスカイアイ。
誘ったのはこちらだし初心者なのはなんの問題もない。誰だって最初は初心者だ。
しかしこの二人が醸し出す空気に、俺らは一体何を見させられてるんだ……という気がしなくもない。
そうこうしているうちに、リーチをかけたメビウス1がツモ上がりした。
必死にオリて回していたがツモられてはどうしようもない。オメガ1は二千点を失った。
(クソッ、ヤバいぞ……あと三千点しかない。このままでは箱にされてしまう)
次はなんとしても勝つ。そうすれば親はオメガ1に回ってきて、勝ち続けさえすれば逆転の目も出てくるはずだ。
オメガ1は気合いを込めてテーブルの上で牌をかき混ぜた。
自分の手牌を並べ終わったメビウス1が「あ」と声を漏らした。
スカイアイと顔を見合わせてなにやらひそひそ話をしている。
戦々恐々とした。
一体どんな配牌がきたのか。
しかし本当に恐ろしいのはメビウス1の豪運だ。
スカイアイがついて教えているが、メビウス1の強さはスカイアイのせいではなかった。スカイアイは基本的にはメビウス1の好きに打たせている。メビウス1がどうしたらいいか迷ったときにだけアドバイスをするスタンスのようだった。
さっきの上がりにしてもカンチャン待ちで、決して上がりやすい形ではなかった。それを引いてくるツモ運がメビウス1にはある。
しかし恐れてばかりいては勝負には勝てない。相手に気迫で呑まれてはならないのだ。
場の流れをこちらに引き寄せる必要がある。オメガ1は、今回は強気で打つことに決めた。
メビウス1の一巡目の捨て牌は、五筒。
はじめは字牌や端牌から切っていくのがセオリーの麻雀でど真ん中を切っていく。これはもうチャンタ狙いなのがバレバレだ。チャンタ自体は安いし上がりにくい役だ。しかしメビウス1のツモ運ならジュンチャンや混老頭になることもありえる。ただ、狙いがわかりやすい分、こちらが当たることはそうそうない。
切り時を見極め、安全に自分の手牌を組んだ。
今回はオメガ1の手牌も悪くない。メンタンピンドラドラくらいいけそうだなとほくそ笑む。
そうこうしている内にオメガ1はテンパイした。しかしここでリーチをするかどうか迷った。リーチをすれば役がひとつつき点数が上がる。しかし手を動かせなくなり、他家に振り込む確率も上がってしまう。今のオメガ1は一回でも当たりたくない状況だ。
ななめ横に座るメビウス1は相変わらずもったいない牌をバンバン切っている。捨て牌だけで上がれそうな勢いだ。自分の手牌を完成させることだけを考えていられる、危険をかえりみないところが初心者の強みだな、とオメガ1は思った。
(命の危険もかえりみず、か。お前の戦闘機動みたいだな。だが守りも考えないと麻雀は上手くなれんぜ、メビウス1。いずれお前は俺の当たり牌を切ることになるだろう)
よし、やはりここはリーチをするべきだと心に決め、朱色の点がついた千点棒を手に取った。
その時。
「あっ」
スカイアイがメビウス1の引いてきた牌を見て小さく声をあげた。
「……あ、ツモった」
メビウス1が遅れて反応する。
「なにっ……見せてみろ!」
メビウス1が自分の手牌を皆の前に晒す。
その牌のあまりにも特徴的な並び。
唯一無二の役。
「国士だと……!?役満じゃねーか!」
役満は、親なら四万八千点――。
自分の三千点が消し飛んだ。
リーチしようかどうか悩んでいた自分があまりにもちっぽけで、惨めだ。
「えへへ、国士無双って唯一知ってた役だから、一回やってみたかったんだー」
「やったな、メビウス1」
「うん」
スカイアイとメビウス1は顔を見合わせて笑い合って喜んでいるが、オメガ1はとてもそんな気にはなれなかった。
オメガ1の点数はマイナスで箱になり、勝負はメビウス1の一人勝ち。
人数が足りないからとメビウス1を誘ってしまったのが全ての運のつきだったのだ……。
「スカイアイ……」
「どうした、メビウス1。しょんぼりして」
「オメガ1に『お前なんか二度と誘わねえ!』って言われてしまった」
「そうか……。じゃあ、俺とチェスでもするか? 俺は麻雀よりチェスの方が得意なんだ」
「やったことないよ」
「じゃ、教えてあげる」
メビウス1はスカイアイにチェスのルールを教えてもらいながら勝負したが、運の要素がまったくないチェスでスカイアイに勝てたことは、ついぞなかったという。