アイラブユーを教えて

「メビウス1、君の国の言葉を教えてくれないか」
夕食後のリビング。何気なくつけていたテレビには恋愛映画が流れていた。言葉の通じない男女が、身ぶり手ぶりや片言でコミュニケーションを取り、惹かれ合う話だ。俺はこの映画の楽観的な男にも、すぐに泣く女にも共感できず、いささか冷めた気持ちになっていた。もともと恋愛映画にさして興味がないせいもある。それにしても、スカイアイがこんなことを言い出したのは、この映画に何か触発されたものでもあったからなのだろうか。
「ノースポイントの言葉を?」
「うん。簡単な日常会話ができる程度でいいんだ」
「いいけど……」
俺はノースポイント出身で、ノースポイントには独自の言語がある。パイロットになるには公用語の習得は必須で、俺は公用語が苦手でたまらなかったけれど、こればかりは必死に勉強した。
スカイアイとの会話は、初めて会ったときから公用語で、今現在もそうだ。うまく話せているかは自信はない。が、スカイアイと会話して経験を積み、少しはマシになってきた気もする。
「じゃあ、まずは挨拶からだな」
スカイアイは何がそんなに楽しいんだか、ニコニコしてやる気に満ちている。
「えっと、朝は……“おはよう”」
わかりやすいように一音一音意識して、はっきりと発音した。
「オハヨウ?」
「そう。昼は“こんにちは”」
「コニチハ」
「んん……ちょっと違うかな?“こんにちは”」
「コン、ニチハ?」
ぎこちない声が返ってきて、思わずクスッと笑った。いつもほれぼれするような美しい発音で公用語を話すスカイアイでも、俺の国の言葉は難しいみたいだ。
「こら、メビウス1。笑うなんてひどいじゃないか。こっちは初心者だぞ」
スカイアイが眉をひそめて大仰にため息を吐いた。しかし、その瞳は柔らかい。
「ごめん。バカにしたんじゃないんだ。なんだか俺の国の言葉を話すスカイアイが新鮮で、かわいくて……」
「かわいい?」
クスクス笑う俺を、スカイアイが怪訝な顔をして見ていた。
「それにしてもノースポイントの言葉は難しいな。まだ君と出会ったばかりの頃、公用語の発音が苦手だと言っていた君の気持ちがよくわかるよ」
ISAFに入隊したての頃は、自分の公用語に自信が持てず口下手なのも相まって、他人とほとんど話さなかった。なかなか隊員と馴染めない俺にスカイアイが手を差し伸べて、自信を持たせてくれた。
「そんなこともあったね」
二人でしばし懐かしさにひたって微笑み合った。ふとテレビを見ると、砂浜の上にハートを描いて微笑み合う男女がいる。陳腐な演出だな、なんて思いながら見ていたから、スカイアイの聞いたことに反応が遅れた。
「アイラブユーはなんて言う?」
「…………え?」
「愛を伝える言葉だよ。君の国ではなんて言うんだ」
「そ、それは……」
すごく嫌な予感がした。これはまさか、俺がスカイアイに対してあの言葉を言うハメになるのでは。
愛してる、と。
想像しただけで俺の心臓は百メートルダッシュした時のように早くなった。“愛”なんて大袈裟で、日常的に使わない。俺には縁のない言葉だった。今の今まで。
「どうした、メビウス1。教えるのが面倒になったか?」
スカイアイが残念そうな顔をする。
「あっ、そんなことないよ……!」
ぶんぶんと首を横に振った。
(そうだ、これは言葉の練習だから。愛の告白なんかじゃなく!)
スカイアイをがっかりさせたくなくて、そう言い聞かせる。
「え、えっと……、アイラブユーは」
「うん」
「あ……、あ……」
うつ向いてぎゅっと目をつぶり、無意識に手を膝の上で固く握った。
たとえ、これが言葉の練習であっても、想い人に愛を伝えるのは恐ろしくて恥ずかしくて、なんて勇気のいることなんだろう。こんな機会でもなければ、絶対に言わなかったにちがいない。
「……あいしてる」
蚊の鳴くような声で、けれども丁寧に声に出した。実際に口に出してみれば、言葉を教えるためだとか、そんな理由はどこかへ消しとんでしまった。言葉が意味を持つ。
誰かに向かって初めて愛を口にした。不思議なことに、愛を告げればさらに愛しさが胸から湧いた。枯れない泉のように。声に出した言葉は魂の宿った言霊になるという、俺の国の思想を思い出した。
スカイアイを見上げると、俺を見据え、口を開くところだった。
「アイ……」
「わーーーー!」
大声で遮りながら、とっさにスカイアイの口を両手で押さえた。
そうだ。俺が言ったら次はスカイアイが復唱するに決まっている。
スカイアイの口から“愛してる”なんて言われる心構えができていなかった。“アイラブユー”なら言われたことがある。何度も。なのに自分の国の言葉で言われると思うと、意味や込められた想いは同じでも、何かが違う気がした。
スカイアイが俺の手首をつかんで、ふさがれた口を解放した。
「メビウス1、口をふさぐな。練習できないだろ」
「ご、ごめん、でも、待ってくれ。心の準備が……」
「ふふ、なんの準備なんだ」
笑いながらスカイアイは、俺の頭の横でつかんだ両手首に力をかけて、後ろへ押し倒した。覆い被さられて目を見開く。
「え、え……?」
なんで押し倒されているんだろうか。言葉を教えていただけなのに。
スカイアイがじっと俺を見つめている。
「す、スカイアイ……待っ……」
慣れ親しんだ言葉でスカイアイに愛を告げられたら、俺はどうなってしまうんだろう。今この時でさえドキドキして死にそうなのに、心臓が持ちそうにない。
耳をふさぎたいが両手は押さえられている。
もう、どうにもならない――。
スカイアイの顔がゆっくり近づくのを見ていられずに目を閉じた。それは逆に聴覚を敏感にさせた。耳元でスカイアイが息を吸う、微かな音すら拾うほどに。
「――――――」
スカイアイの低い声。かつては無線で聞いた声が鼓膜を振動させて、ずっとずっと美しく、クリアに届く。
彼は持ち前の優秀さを発揮して、一度しか聞いていないくせに完璧な発音で囁いてみせ、俺は体から力が抜けた。
スカイアイとはセックスだってしている仲なのに、たった五文字の言葉になぜこうも心が震えるのだろう。どうしてこんなにも、嬉しい。
「メビウス1、どうだった?」
耳元から顔を上げて俺を見たスカイアイが驚いた顔をした。きっと俺が目を潤ませて、湯立ったみたいに真っ赤だったからだろう。
俺は何か言おうとして口を開きかけたが、スカイアイが指先で頬をさらりと撫でて遮った。
「何も言わなくていいよ」
君の顔を見ればわかる、気持ちが届いたのは。と微笑んで、俺の口をその唇で、優しくふさいだ。