氷のとける時間

その日は難しいミッションがうまくいき、デブリーフイングが終わったあと皆で宴会をすることになった。
何かにつけて飲むのが好きな連中だ。
俺はあまり酒が得意じゃない。パーティーという人が集まる場も苦手だ。けれど、任務が成功した喜びを、生きている実感を、仲間たちが酒を飲むことで味わっているのを知っている。歌ったり、踊ったり、はしゃぐ彼らを遠目に眺めるのは好きだった。
すみっこのテーブルで、なるべく存在感を消して飲んでいたら、仲間と談笑していたスカイアイがこちらに気づいてにこやかに近寄ってきた。
「メビウス1、隣いいか?」
「い、いいけど……」
なぜ、わざわざ俺の隣で飲むんだろう。スカイアイは皆と話したり飲んだりした方が楽しいんじゃないだろうか。
そう思って隣に腰を下ろす彼を見た。
「ん、邪魔だったか?」
「ううん、ただ……」
「ただ?」
「……皆と話さなくていいのかなって。スカイアイと話したい人がいっぱいいるんじゃないかな」
俺と話してもつまらないでしょう、とは言わなかった。あまりにも卑屈だ。
スカイアイは少し笑って肩をすくめた。
「さぁ、どうかな?残念ながら、俺が話したい人は、俺と話したいとは思ってくれていないみたいだけど」
「えっ……、そうなの?」
スカイアイでもフラれるのかと、驚いて聞き返したら、彼の長い人差し指が俺の鼻先を指した。
その意味を、一瞬はかりかねた。
「えぇっ、お、俺?」
「ははは。君と話したいんだ。いいかな?」
「うん……」
そんな風に言われたら断れない。恥ずかしくて顔が熱くなった。
それで一体、何を話すのかと身構えていたら、話題はとても他愛ないことばかりで拍子抜けした。今日のミッションのねぎらいから、酒の好みや、好きなつまみだとか好きな食べ物。俺がノースポイント出身だから、ノースポイントの食の話をしたら興味深く聞いてくれた。
「ノースポイントの料理か。知ってるよ。スシとかテンプラだろ」
「寿司は毎日食べないよ。……特別な時だけで」
「へぇ、そうなのか。じゃあ、君の好きな家庭料理ってなんだい?」
「ん……味噌汁とか……たまご焼き、とか……」
「たまご焼き?」
「名前の通り、たまごを焼いたものだよ」
何がスカイアイの琴線に触れたのか、たまご焼きがどういうものか、詳しく説明させられた。
「ぜひ食べてみたいな。君の作ったノースポイントの料理。すごく美味そうだ」
「そんな……大したものじゃないよ」
口ではそう言いながら、スカイアイに手料理をふるまうのは悪くない気がした。別に料理好きではなく、特別うまいともいえない。人並みに作れる程度だけど、スカイアイが喜んでくれるなら、日頃の感謝を込めて作ってあげたいと思った。
「うーん、ふわふわのたまご焼きか。食べてみたいなぁ」
スカイアイが呟いているのを横に聞きながら、アルコールを摂取したとき特有のふわふわする感覚が全身を包んだ。スカイアイと、取り留めもなく話しているうちにペースが早くなり、気づかないうちに結構な量を飲んでいたらしい。それに、こんなに人と話すのは久しぶりで、頭も口も疲れてしまった。疲れは眠気をよんで姿勢を保つのが難しい。
かくんと傾いた頭が横にいたスカイアイの肩に当たった。慌てて元に戻す。
「あっ……ごめ……」
「いや。……メビウス1、眠そうだな」
「ん……」
正直、眠い。スカイアイと飲むのは楽しいし、もっと話していたいのに、眠気には勝てなかった。
スカイアイが俺の頭を手で引き寄せ、彼の肩にもたれかけさせた。寝ていいよ、と髪を撫でられ、それが目蓋をどんどん重くした。吸い込まれるような眠気に、理性を総動員して抗う。スカイアイは俺の腰を引き寄せ、体を完全に彼にもたれかけさせた。接したスカイアイの体は日だまりのようにほかほかしている。
これじゃ、スカイアイは席を離れることもできないじゃないかと、うっすら頭をよぎったが、体はもう言うことを聞かず、指先ひとつ動かなかった。

* * *

静かな寝息が聞こえてきて、ほっとする。酔って眠そうなメビウス1を自分にもたれかけさせたけれど、嫌がって体を離されたらどうしようかと内心ヒヤヒヤしていた。というのも、親切心だけではなく、邪な気持ちが自分の中にあったからだ。誰に見られても、酔いつぶれたんだと今なら言い訳が出来る。そんなせこい計算すら用意している自分が少し情けなかった。
メビウス1の体温が、薄いシャツ越しにじんわりとしみてくる。すっかり力が抜けて寄りかかった体の重みが愛おしい。いつもならありえないくらい近くに彼の息づかいを感じ、アルコールのせいではなく、鼓動が高まった。
スカイアイの恋愛的指向は女性だった。過去に付き合ってきたのは女性で、男に惹かれたことは一度もない。なのに、寄りかかった体温に、肌の匂い、筋肉の固さに少しも嫌悪感はわかない。もう何度も自問自答して確認してきたことだ。この感情が何であるかを……。

メビウス1の存在を知ったのは戦場だった。
敗れ続けた末に押し込まれたユージア大陸北東部の島国、ノースポイントの基地――そこに夏の空を見上げた若いパイロットがいた。薄い色の髪をなびかせ、少しも暑さを感じさせない透明な空気をまとって佇んでいた。フライトスーツに水色のリボンにも見える意匠。そこに書かれたメビウス118の文字。
彼がメビウス1で間違いなかった。
学生といっても通りそうなベビーフェイスに、背はスカイアイより頭ひとつぶん低く、体も頼りないくらい細い。その存在は希薄で、蒸して重たい空気に溶けていってしまうんじゃないかと、おかしな心配をしたのを覚えている。
彼の性格はノースポイント人らしく物静かで真面目。自信なさげで、少々頼りなかった。他人と距離をおく態度から、仲間に誤解されることもしばしばあった。
戦場では恐れを知らず、誰よりも早く敵に突っ込んで、ことごとくをなぎ倒す圧倒的な強さを見せつけるくせに、地上にいるときの彼は戦場でのイメージと違いすぎた。だがスカイアイは、その二面性に妙に惹かれた。本当の姿はどちらなのか。寡黙なメビウス1の心に秘められている想いは何なのか。知りたくて、彼をずっと見ていた。空でも、地上でも。
メビウス1は己に執着がないようだった。彼の瞳は空虚で、映すものは空だけだった。
そして、他者を関わらせまいとしている。はじめは、単に人見知りや引っ込み思案なだけかと思っていた。しかし、彼から過去の話をいくつか聞いていくうちに、それだけが理由ではないと気づいた。
彼が――死にたがっているのだということを。
もうすぐ死にゆく人間にとって、親しい人など必要ない。むしろ現世に心残りを抱いてしまう。だから彼は他人を拒絶しているのだ。彼に自覚があるかはわからないが。
その考えに至ったとき、スカイアイの胸は締め付けられたように痛んだ。ひっそりと死ぬ準備をしているなんて、悲しすぎる。死ぬのはやめろだとか、俺がついている、などと軽々しく言えなかった。まだスカイアイとメビウス1はそれほど親しいとは言えない。そんな状態で言葉だけ費やしても彼に届きはしないだろう。もっと、信頼される必要がある。彼に、安心して心の内を明かしてもらえるように。そして、彼の深い孤独に寄り添いたいと思った。
――そんな風に、ひとりの人間に思いこむ時点で、スカイアイは後戻りできぬ底無し沼にはまりこんでいたのだ。気づいたときには、もう遅い。
酒の入ったグラスを少しずつ傾けて、ゆっくりと飲む。カランと氷が鳴った。
メビウス1はスカイアイが自分を想っているとは少しも考えてはいないようだ。そんな事象は、この地球上に存在するわけがないと信じている。スカイアイは、わりと分かりやすく好意を示しているつもりだったが、彼にはまったく伝わっていなかった。それはメビウス1が、スカイアイをそういう対象として見ていない証のようでつらかった。
他人にも、自分にすら執着が薄いようにみえる彼の心の隙をついて、スカイアイを心にねじ込むことは可能かもしれない。だからといって全てを奪うみたいに何の自覚も覚悟もない彼を、騙すように己のものにしたくなかった。
同じだけの温度で想ってほしい――そんな奇跡を願っている。
いつかメビウス1と一緒に、彼の手料理を食べる日が来るだろうか。この戦争のただなかで、互いの命のあるあいだに……。
スカイアイはグラスの氷がとける間、メビウス1の静かな呼吸に耳を澄ませた。