くちづけ

「初めてのキスってどんな味?」
よくそんなことを恥ずかしげもなく聞けたものだ。酒の力とはおそろしい。

たぶん俺はそのとき、酔っていた。
酔っている自覚はなかったけど、俺の言葉を聞いてスカイアイが「酔っているのか?」と驚いた顔で聞くのも無理はない。普段の俺なら絶対に踏み込めない話題だっただろう。あまり酒に強くはないから、積極的には飲まない。けれど、そのときは飲みたい気分だった。
というのも、その日、見てしまったからだ。スカイアイが女性から誘われているところを。
モデルのように背の高い、美しい女性事務官だった。己の美しさを自覚していて、その自信が内側から彼女を輝かせていた。長身のスカイアイと並ぶと、とても様になって眩しかった。
そんな女性に誘われるのも、スカイアイにとっては慣れたもののようで、「君のような美人に誘われて嬉しいよ。ありがとう。でも、残念ながら今夜は片付けなければいけない仕事があって……また今度、時間ができたら誘うよ」と、相手を不快にさせずに、うまく断っていた。
別にこんなことは初めてでもないのだ。
スカイアイは、モテる。
優しくて、思いやりがあり、他人の機微にも敏い。悪口は言わないし、他人は褒めて伸ばし、しかし自分には厳しく、仕事にはいっさい手を抜かない。皆からも信頼されている。
俺とは違いすぎて、同じ男として比べたり嫉妬する気も起きない。
あるとき、スカイアイみたいな出来る男になりたいと、胸の内を漏らしたことがある。それを聞いた彼は大笑いして、俺は大きなショックを受けた。自分にとっては真剣だったし、スカイアイなら俺のつまらない悩みも、決して馬鹿にしないと思っていたから。
でも、ひとしきり笑った後、彼はこう言った。
「この軍で君以上に出来る男が他にいるのか、撃墜王」って。
俺はぐっと言葉につまった。
確かに空の上ではそうなんだけれど、地上において、もう少し出来る人間になりたいんだと、言い訳がましく反論した。が、またしても彼は「何でも完璧に出来る人間は可愛げがない。少しくらい抜けたところがある方が魅力的だよ」と持論を展開した。何でもスマートにこなしてしまうスカイアイが言うと、説得力にかける言葉だった。
スカイアイは魅力的なので女性が放っておかないのも仕方がない。たぶん経験も豊富なんだろう。そんな考えにふけると、胸の奥を何かがちくりと刺すのだった。

その夜、部隊の皆でカードゲームをして、戦利品として手にいれたウイスキーを手に、スカイアイの部屋を訪れた。俺が全て飲むのは無理だから、彼にあげるつもりだったけれど、グラス二つを手に一緒に飲もうと誘われた。
俺は、もやもやした感情を酒で洗い流したくて口をつけた。
スカイアイの隣に自信たっぷりに立てる女性に嫉妬した。想像の中の、過去に彼の隣にいた人にも。
俺には無理だから。彼の隣に立てる自信もないし、ふさわしいとも思えない。選ばれて当然と、なぜ思えるのだろう。選ばれなくてもなぜ傷つかずにいられるのだろう。俺は怖い。スカイアイに精神的に依存している今、彼に拒否されたらきっと生きていけない。
だから確かめるのが怖かった。このままの関係でずっといたかった。それなのになぜこんな言葉を口走ってしまったのか、自分がわからない。
「――初めてのキスってどんな味?」
ソファーにゆるく体を預けて俺の左に座っていたスカイアイは、口の前まで持ってきていたグラスをぴたりと止め、信じられないことを聞いたような顔で右側を見た。
「メビウス1、酔っているのか?」
「……酔ってない」
胸を刺す棘を忘れたくて飲んだのに、膨らむ一方のそれをどうにもできず、拗ねた態度をとってしまった。
静止したグラスの中の氷がからりと音をたてる。
沈黙に、聞いておきながら今更恥ずかしさが込み上げてきて、ひたすら手の中のグラスに伝う水滴を目で追う。自分の顔が無数に歪んでうつっていた。
「初めてのキスか……。覚えていないな、味なんて」
ため息と共に吐き出される言葉。それほど遠い昔の話なのか。それとも思い入れがない相手だったのだろうか。
初めてのキスはレモンの味、と最初に言ったのは誰だったんだろう。キスする前に、レモン味の飴でも舐めていたのか。それとも青春の甘酸っぱさをレモン味にたとえたということなのか。何にしても俺には縁遠い話だ。そんな益体もないことをぐるぐる考えていた。
「……そんなに気になるなら」
「ん?」
スカイアイが何か言った。
「してみるか、俺と」
思考が停止した。
誰が、何を?
混乱して動きを止めた俺をよそに、スカイアイが手にもったグラスをゆっくりとテーブルの上に置く。体ごとこちらに向きなおり、俺の頬を手のひらで包み込んだ。俺の頬の方が熱いせいでひんやりと冷たく感じて気持ちがいい。
心臓の音が、耳の横で鳴っているみたいにひどくうるさい。
顔を、彼と目線が合うように上げられる。スカイアイがどんな顔をしているのか、知るのが怖い。冗談を言っている目であればどんなによかったか。俺も笑い話でごまかせたというのに。冗談もごまかしも効かない、まっすぐに俺を見ている青い瞳。
――ああ、ひどい。
この目に見つめられたら、俺は逃げられないじゃないか。

見つめ合いながら、ゆっくりと近づく顔。俺は見ていられなくてぎゅっと目を閉じる。まるで待っているかのようになってしまって恥ずかしい。触れるまでのその間が永遠にも感じられ、触れた後は時が止まったかのようだった。
柔らかく少し湿った感触に全神経が集中した。
スカイアイが俺の背中に手を回し引き寄せようとするが、両手で握ったままの俺のグラスが胸に当たって失敗する。彼は少し笑って、体を一度離し、こわばった俺の手からグラスを取り上げテーブルに置いた。それを取り上げられたら、俺の手は、腕は、どこにやればいい?
スカイアイがもう一度俺を引き寄せる。今度は成功して、互いの胸と胸が合わさり、彼の体温と香水の香りに包みこまれた。
「メビウス1……」
すぐ耳元で吐息混じりの低い声が響いて背筋が粟立った。耳朶に温かい唇の感触がして、次いでこめかみに、頬にゆっくり移動する。たまらなくなって俺はスカイアイの背中に腕を回し、ギュッとしがみついた。
緊張した背中を撫でられ、俺が詰めていた息を吐いたタイミングで、もう一度唇を塞がれる。今度はもう少し深く、唇を食むように何度か角度を変えて。吸われると小さく湿った音が響くのが恥ずかしい。
息苦しくなり、少し顔を離して震える息を吐く。濃密な甘い気配に頭がくらくらする。
俺の呼吸が整うのを待って、薄く開いた唇に湿った温かい舌が侵入した。
「……ん……っ」
初めての感触に、びくりと震えた体をスカイアイはなだめるように撫でながら、俺の舌をくすぐるように優しく絡めとった。
なぜか瞳が潤み出し、目尻に涙の粒が浮かんだ。
互いの飲んだウイスキーの芳醇な香りが鼻腔を抜けていく。酒に酔っているのか、彼とのくちづけに酔っているのか、もはやわからない。体がぐずぐずに溶けていく快楽に支配され、何も考えられなくなった。
最後にちゅっと小さく唇を吸われて、俺はぐったりと彼の胸に倒れこんだ。
息を乱す俺の髪を優しく梳きながら、スカイアイは「どんな味だった」と聞いてきた。
味なんて、そんなもの――。
初心者にするキスにしては少し濃厚すぎやしないかと、気恥ずかしさを誤魔化して腹をたてた。
だけど俺はきっと、今後ウイスキーを飲むたびに、彼とのくちづけを芳醇な香りと共に思い出すことになるのだろう。