今日はあいにくの曇り空。
でも、これまで雨の日が続いたから、久しぶりの傘がいらない天気に、外出する人も多かった。
ほかほかに温まったソーセージの匂い。
大柄なおじさんに。
小さな女の子に。
今日も私は、ホットドッグを売る。
「ありがとうございましたー!」
トレーニングウェアを着たポニーテールの女性に玉ねぎたっぷりのヘルシーなオリジナルソースのかかったホットドッグと、ドリンクを渡した。
女性が立ち去った後ろに、もう一人お客さんが立っているのに気づいた。その姿を見て思わず「あ」と声が漏れてしまった。その声に、うつ向いていたお客さんが顔を上げた。
柔らかそうな薄い色の髪に、こちらを見上げる透明な瞳。ぽかんとした表情はどこかあどけなくて年齢不詳だ。
この男の子(といっても私と同じ歳くらいだと思うけれど)は、よくうちにホットドッグを買いに来てくれる常連のお客さんだった。
店の目の前にある公園でランニングをするのが日課らしく、走って汗を流した後、小腹がすくのかうちのホットドッグを買っていく。
彼が初めてうちの店に来たのは半年くらい前だった。背の高い三十歳くらいの男性と一緒だった。その男性が映画俳優みたいにかっこよかったからよく覚えている。チリソースの辛いホットドッグをよく頼むから、背の高い男性に“チリソースの人”と勝手にあだ名をつけた。
チリソースの人とこの男の子はおそらく一緒に住んでいて、とても仲睦まじい様子に私は何かを察した気になったものだった。
しかしここ数ヶ月、チリソースの人をぱったりと見なくなった。男の子の方は相変わらず店に来てくれるのに、あの背の高い人はまったく見ていない。男の子も毎日毎日、感心するくらい変わらず公園を走っているけれど、心なしか元気がないような気もする。いったいどうしてしまったんだろうか。
あの傍目に見ても仲がよかった二人にいったい何が起こったのか、私は想像力を発揮してしまう。
ケンカした? ……しかし、もう数ヶ月経っている。数ヶ月間ずっとケンカ中ってこともないだろう。
まさか、もう一緒に住んでいない?
想像はどんどん悪い方へと膨らんでいく。
私は落ち込んだ風の彼が気になって気になって仕方がなかった。何度もどうしたのかと声をかけようか迷った。しかし、いくら気になろうと彼はただのお客さんで、私は店員。プライベートに踏み込むような質問ができるはずもなく、私はいつもの言葉を言うしかない。
「いらっしゃいませ!」
お客さん用の笑顔を張りつけた私に、彼は興味をなくしたようにメニュー表に視線を落とした。
それに違和感を覚える。
彼はいつもスタンダードなホットドッグを頼んでいたはず。色々食べてみたけれど、やっぱりノーマルなケチャップ味が一番気に入ったらしく、もはやメニュー表を見ることはなくなっていたのだ。
――まあ、たまには気分を変えたくなっただけなのかもしれない。
そんなのはよくあることだ。いつも同じ味だと飽きて、たまには違う味を試してみるけれど、いつもの味の方がやっぱり美味しかったな、などと思い直すことが。
「今日はなにになさいますか?」
私がそう促すと、彼は何度か口を開いたり閉じたりしてためらった後、小さな声で呟いた。
「……チリソース、で」
「えっ」
私はまたしても感情が声に出てしまった。
……あまりにも意外だった。
だって、彼は辛いのが苦手なはずだ。記憶にある限り、彼がチリソースを頼んだことは一度もない。
私がメニューを復唱するのを戸惑っていると、変なことを言っただろうかと彼も眉を下げて不安そうに私を見た。
「は、はい! チリソースですね、かしこまりました!」
(いけない、いけない。接客に私情は厳禁)
私は気持ちを切り替えて、パンにソーセージを挟んだ。その上に真っ赤なチリソースをかける。うちのチリソースは見た目だけじゃなく、しっかりと辛みがあるのが特徴。辛いのが好きな人には受けて、定番のケチャップ味の次くらいには人気があった。
店名がプリントされた紙にホットドッグを挟んで、できあがり。
「お待たせいたしました!」
それを彼は黙って受け取った。
「ありがとうございましたー!」
とぼとぼと一人で去っていく後ろ姿が頼りない。なんとなく目が離せずに彼を見ていた。
彼は定位置である公園の入り口付近にあるベンチに腰をかけて、ホットドッグを食べ始めた。私はそれをハラハラして見守る。
数口ホットドッグをかじった彼だったが、しばらくしてその手が止まった。持っていたペットボトルの水をグイっとあおる。
やっぱり、辛いのだ。
心配した通りになった。でも私にはどうにもできない。何度も食べては休憩をする彼を遠くに眺めながら内心で苦笑した。
でも、なぜ彼は急にチリソース味を頼んだりしたのだろう。辛いのはわかっていたはずなのに……。
やはり脳裏に浮かぶのは、あの“チリソースの人”。
結びつけるのは安直すぎるだろうか。
あの人がこの味を好きだったから?
もしもそうだったとしたら、なんだか切ない。食べられないのはわかりきっているのに、あの人との思い出に浸りたくて――なんて。
何度も手を止めて水を飲み、いつもの倍以上の時間をかけて、それでも彼は食べるのをやめなかった。
時々、遠くの空を眺めて、何かを探しているみたいに……。
彼の見上げた方角の空には、灰色の重たい雲がある。明日も雨だろうか。
そうなったら彼は公園にランニングをしに来ない。うちの店にも、寄らない。
それから数日の間、雨が続いた。
コンクリートにできた水溜まりに太陽の光が反射する。
公園の緑も、生まれたてみたいにキラキラと輝いている。
今日は久しぶりの快晴。
だからって私のやることは変わらない。雨の日も、晴れの日も、ホットドッグを売る。ただそれだけ。
でも、こんな日はお客さんも多くなる。私も朝から気合いが入る。
「いらっしゃいませ!」
いつもと同じようにしているつもりでも「今日は元気がいいね」なんてお客さんに見破られ、それに照れ笑いを浮かべた。
朝から次々に現れるお客さんに対応していた時だった。
「こんにちは」
聞き覚えのある、いい声だった。
ハッとして顔を上げるとそこにいたのは、白いシャツを着た背の高い三十歳くらいの男性――。
「チ、チリソースの人!」
「はは、そんな風に覚えられてたのか」
「あっ、すみません、お客さんに!」
「いや、いいよ。気にしないでくれ」
チリソースの人はおかしそうに笑った。その笑顔が以前と変わらず、爽やかでまぶしい。
「この店に来るの久しぶりだったから、覚えていてくれたのが嬉しいよ」
「も、もちろんです。今日もチリソースになさいますか?」
「ああ、頼む。……君は?」
そう言ってチリソースの人は後ろを振り返った。その視線の先にいたのはあの白っぽい髪の男の子で、私は二度びっくりした。
「えっと……いつもの、で」
相変わらず彼はチリソースの人の背に隠れて、うつ向きがちに恥ずかしそうにしている。彼はチリソースの人よりもうちの店に通っているくせに、いつまでたってもこんな感じだ。内心で苦笑しながら私は注文を復唱した。
でき上がったホットドッグを二つ、チリソースの人が受け取る。二人は店から離れ、公園のベンチに座って食べ始めた。
チリソースの人にまた会えて、うちの店を覚えていてくれたのがとても嬉しい。そして、男の子とケンカしたわけでも別れたわけでもなさそうで、他人事なのにホッとしている。
ずっと来なかったのは何故なのか――気になるけれど、お客さんにプライベートなことを尋ねるわけにもいかない。しょせん私はあの人にとってはただのホットドッグ屋の店員でしかないのだった。
あの背の低い方の彼が、ホットドッグを食べながら久しぶりに笑顔を見せている。チリソースの人も穏やかに笑って何かを話している。
数ヶ月前と何も変わらない光景がそこにあった。
私は大きく息を吸って、吐き出した。
空を見上げたら、青くどこまでも晴れわたっていた。気持ちのよい風が湿った空気を吹き飛ばす。
雨でも晴れでも私には関係ないと思ったけど、やっぱり嘘。
晴れの方がずっといい。お客さんも多いし、忙しい方が好きだから。
次に来たお客さんに向けた私の笑顔はきっと、とびきりのものだったに違いない。