その人は、落ち着く声をしていた。
低音で、一音一音が丁寧な発音で聞き取りやすい。話し方は少しゆっくりで、その人の優しい性格を表しているようだった。しかし堅苦しいわけではなく、ユーモアも兼ね備えていた。
最初のミッションで開口一番、無線で「誕生日だから勝利をプレゼントしてくれ」と言われ、それまでガチガチに緊張していた心が解れた。冗談だと思ったら、本当に誕生日だったのだから驚きだ。
基地に帰った時、皆でささやかながら、今日の勝利とその人の誕生日を祝うパーティーをした。
顔を見たことはなかったが、声を聞いてあのAWACSの人だとわかった。背が高く、目を合わせるには、小柄な自分は少し見上げなければならなかった。
声にも増して印象的だったのは、その瞳。その名に違わず、深い青をしていた。俺はその空色の瞳が一目で気に入ってしまい、思わずじっと見入ってしまった。
その人はよく俺に話しかけてきた。
俺は口下手で、公用語を話すことも少し苦手だったせいもあり、必要なこと以外ほとんど口を開かなかった。単語を繋げて喋るような俺の話を、その人は辛抱強く聞いた。俺が部隊で孤立していたのを心配してのことなのだろう。優しい気づかいのできる人だ。男女問わず皆から慕われていた。
俺の身の上話で面白いことは何一つない。寧ろ暗くなる話ばかりだ。俺は自分自身に全く自信がなく、いっそのことユリシーズでなぜ死ななかったのかと、そんなことさえ考えていた。
でも一つだけ、捨てられない願いがある。
空を自由に飛ぶこと。
幼い頃から、空に憧れていた。それさえ叶うなら自分の全てを捧げても構わないと。そして今、あの憧れた空の上にいる。自由に飛べる快感は何にも勝る、はずだった。
死ぬことなど怖くない、空で死ぬなら本望、と思っていたはずが、地上に降りれば俺は地を這う鼠のように小心になった。
敵に殺される悪夢も見たが、それ以上に恐ろしいのは任務を失敗する夢だ。任務を失敗して味方に損害が出るくらいなら、地面に激突した方がましだとすら思った。
夢を見るのに疲れて、よく眠れなくなった。だが俺自身、不眠をそれほど重要視していなかった。空戦をして本当に芯から疲れきった時は、気を失うように眠れるからだ。
そんな俺以上に俺のことを心配した人がいた。その人の側は居心地がよく、つい俺は迷惑をかけるとわかっていながら、彼の部屋に入り浸る様になっていた。そしてあの人の声を聞いていると自然に眠気が訪れ、そのまま眠ってしまうこともしばしばあった。
あの人はソファで眠る俺の体を心配し、自分の部屋のベッドを明け渡し、そこで眠るように命令した。
オレンジのデスクライトが仄かに部屋を照らし、椅子の軋む音がかすかに響くだけの部屋で、俺は悪夢を見ずに眠ることができた。
そこはあの人の柔らかい気配に満ちていた。
なぜあの人は、俺にこれほど優しくしてくれるのだろうか?その頃からそんな疑問が頭を占めるようになった。その疑問は裏返せば、優しくしてくれる理由に何か特別なものがあって欲しいという、自分の願望が潜んでいた。
離れた所から、他の人と話しているあの人をじっと観察する。他の人と、俺と、あの人の接し方に何か違いがあるだろうか。わからなかった。
俺は正直なところ他人の感情に疎い。興味がなかったといってもいい。だからこれは初めての経験だった。
少し遠くから見つめていると、視線に気づいたあの人がこちらを見て、ゆっくりと微笑む。声をかけてはこない。だがその瞳の奥に温かな何かがにじむのを感じて、俺の鼓動は高鳴った。
「君はいつも私の目をじっとみるんだな」と、いつか言われたことがある。初めて会ったときからその青が好きで、今は温かい何かをその虹彩の奥から感じたくて、つい見つめるのがクセになっていた。
こちらが見つめるとき、相手もまたこちらの瞳を見つめている。そんな単純な事に俺は気づきもせずに。
黄色中隊を退けた頃、失われた隊員の補充もされ、新兵も増えていた。同じ年頃のはずの人間から向けられる尊敬の念のこもった視線に、俺は居心地の悪さを感じた。いつの間にか、周囲が自分に向ける意識が一変していた。
過度な期待や尊敬、ただの興味本位、中には嫉妬も含まれていた。俺はそんな立派な人間じゃない。ただやみくもに任務をこなしていただけ。飛ぶことしか能がない人間なんだと叫びたかった。
そんななかで、俺をただの俺として見つめてくれる瞳が側にあることがどれ程の救いだったか、あの人は知らないだろう。
俺は勝手に救われて、あの人に好意を抱いたけれど、あの人にふさわしいのが自分だとは、これっぽっちも思わなかった。
俺はあの人が受け入れてくれるのを良いことに、甘えて、甘えきって、弱く醜い存在に成り果てた。
この戦争が終わるまでは、共に戦線に立つことになるだろう。だがその先はわからない。英雄視されることにも辟易していたし、戦争そのものにも疲れていた。
飛ぶことだけが己の価値だったのに、それを捨ててしまったら自分には何が残るだろう。そんな自分にもあの人は、俺の好きだった微笑みを向けてくれるのだろうか。
青い虹彩の奥に愛しさを滲ませた微笑みを。