密やかな夜

閉ざされた扉の前でノックをしようと腕を上げ、その姿勢のままピタリと静止する。じっと扉の先を透視するように見つめ、ゆっくりと腕を下ろした。さっきから何度もノックをしようとしては躊躇っている。
メビウス1は自分の優柔不断さにため息をついた。
吐く息が白い。
廊下は薄暗く、人影はない。もう消灯時間はとっくに過ぎていたからだ。こんな時間に訪ねても迷惑だからやめておけ、と理性は訴えるのだが、体は目の前の部屋に入りたくて仕方がないらしい。
凍る寒さに体がきしんだ。雪が降るのかもしれない。このまま立ちすくんでいたら風邪を引きそうだ。いいかげん、どちらにするか決めなければ。前に訪ねたのは三日前だった。あれから、たった三日しかたっていないのだ。
……やっぱり今日はよそう。そう決心して、扉の前から離れようとした。そのとき、足元から冷気がはい上がって、メビウス1はふるりと体を震わせた。鼻がムズムズする。とっさに手で口をおおったが、くしゅっと小さな音が静かな廊下に響き渡るのを止められなかった。
部屋の中から人の動く音が聞こえて、失態を悟る。扉が開き、長身が姿を現した。
「やっぱり、メビウス1か」
「あ……っ、スカイアイ、あの……」
「また眠れないのか?……ああ、いい。とにかく部屋に入れ。寒いだろう?」
スカイアイは有無を言わさずメビウス1を部屋に招き入れた。中は暖房が効いていて暖かい。
「さぁ、座って。一体いつからいたんだ?」
スカイアイは冷えきったメビウス1をソファーに座らせると、厚手のブランケットを持ってきて肩にかけた。
「ごめん、こんな時間に……。迷惑、かと……」
「迷惑だと思ったことはないよ。いつでも来ていいと言っただろう?どうせ俺は起きているんだから」
スカイアイは気にするなとニッコリ笑って、紅茶を淹れてくれた。湯気の立つそれをひとくち飲むと、フルーティーな紅茶の香りの中にブランデーの風味が鼻に抜ける。メビウス1はスカイアイのいれてくれる、このスピリッツティーが好きだった。寒い夜に飲むと体がポカポカしてきて、眠気がおとずれる。
ここのところよく眠れないメビウス1は、今夜のようにスカイアイの部屋を頻繁に訪ねていた。いつからか目を閉じれば悪夢を見るようになり、眠るのが怖くなってしまったのだ。夜、静かな部屋で一睡もできずにいると、ネガティブな想像が悶々と頭に浮かんできて、気持ちが沈む。外が白みはじめて安心し、ようやく少しだけ眠るという日々だった。目の下には常時くまができ、当然スカイアイには心配された。眠れない夜にはスカイアイの部屋をおとずれ、他愛ない話に付き合ってもらっている。眠くなるまで……。
迷惑をかけている自覚はあった。けれどスカイアイがいきなりたずねてくるメビウス1を拒んだり、迷惑そうにしたことは一度もなかった。
スカイアイはネクタイをゆるめ、首元のシャツのボタンを外し、仕事用のデスクに軽く腰をかけてコーヒーを飲んでいる。自分の部屋でくらいリラックスした格好もするだろうが、いつも制服をきっちり着ているスカイアイだから、こういう姿は新鮮に見えてドキドキした。
(いや、ドキドキってなんだ)
自分の内心に突っ込む。男が男にドキドキするのは変じゃないかと思ったが、スカイアイは同じ男から見ても格好いいし、大人の男の色気というものを備えていた。メビウス1にはとても出せないものだった。だから憧れるしドキドキするのも仕方ない。そう納得した。
デスク上のパソコンには、先程まで作業をしていた画面が写し出されている。
「スカイアイは、いつもこんな時間まで仕事してるの?」
「まあ、そうだな」
「眠くならない?」
「もうずっとこんな感じだからね。慣れたよ」
「大変だね、管制官も」
「君たちに比べれば、なんということもない」
「俺たち?」
「戦場で命をかけて戦うわけじゃない。それに比べれば、事務仕事なんて大したことじゃないさ」
肩をすくめて自嘲するスカイアイに、ムクムクと何かが胸に立ち上ってくる。
「そんなこと、ない」
「……ん?」
「スカイアイは、戦場でみんなを助けてるし、勇気づけてる。少なくとも、俺は……俺は、すごく」
手の中のティーカップをギュッと握った。うまく伝えられなくてもどかしい。
スカイアイが自分を卑下するのは嫌だった。
戦場で飛ぶのは孤独だ。何があっても己の力で対処しなければならない。そんな中で彼の声だけが耳元で聞こえる。励まされる。それが戦う力になる。
空で、地上で。これまで自分がどれだけスカイアイに支えられてきたか。今だってそうだ。こんな夜中に訪ねても嫌な顔ひとつしない。優しい、本当に優しい人だ。
――スカイアイは、なぜこんなに優しくしてくれるんだろうか。
ふと、そんな疑問がわいた。
「ありがとう」
考えにふけっていたら、いつの間にかスカイアイが隣に座っていた。すぐ近くにある青い瞳が細められる。メビウス1の好きな、空の色をとかした美しい瞳に自分が写っている。ぼうっと見とれていると、大きな手がのびてきて髪をすいた。その感触が気持ちよくて、しだいに目蓋が重くなる。スカイアイはいつだってこうして簡単にメビウス1を眠らせる。魔法のように。
あくびを手で抑え、噛み殺した。それを見ていたスカイアイが小さく笑う。
「眠くなってきたか?」
「ん……」
「なら、寝ていけばいい。外は寒い。部屋に戻るまでに眠気がとんでしまうだろ」
「そんな、そこ、スカイアイのベッドで」
「いいから、ほら」
スカイアイはメビウス1を立たせ、肩を押してベッドへと誘導した。
「ダメだよ。俺がベッド占領したら、スカイアイが寝られない。いつもみたいに、ソファーで仮眠させてもらえたらいいから」
「俺はもう少し仕事をするから大丈夫だ。それに……」
スカイアイは選択の余地を与えずメビウス1をベッドに押し込んだ。
本当にここで寝てしまっていいものか。眠気でいつも以上に頭の回転が悪かった。暖かく柔らかい毛布に包まれると、気持ちよくて全身がとろけそうだった。同じもののはずなのに、自分のベッドではこんな風に感じないのはなぜだろう。
「君はもう少し、自分の状態を深刻に捉えるべきだよ。こんなに目の下を黒くして」
スカイアイの親指が目の下をゆっくりなぞる。温かい指が、冷えて血行の悪くなった皮膚を温めて、じんとする。
「ん……」
うっとりと目を閉じ感じ入る。知らず吐息が漏れた。
「……おやすみ」
ささやいてスカイアイが髪をひと撫でする。ゆっくりと離れていく手に、すがりつきたくなった。
でも、いけない。
ぎゅっと目を閉じ、甘えてはいけないと自制する。
これまで一人で生きてきて、それが当然だったはずなのに、いつの間にか彼が側に居るのが当たり前になっていて、その変化が恐ろしかった。スカイアイの優しさは、毒のようにメビウス1に侵食した。優しさに溺れて、一人で立てなくなる。側にいたい。側にいてほしい。身のほどをわきまえず、そんなことを願うようになった。その欲求は日増しに膨れ上がり、抑えが効かなくなってきている。本当は眠るのなんかどうでもよくて、ただスカイアイに会いたくて、この部屋に来ているのかもしれない。
空を飛ぶ以外に、望むものなんかないと思っていたのに――。
自分の浅ましさが嫌になって、思考を止めた。今はただ、なにも考えず眠りたかった。
スカイアイの香水の香りが残るベッド。爽やかな樹木の温かみに、どこかセクシーさが漂う匂い。彼そのもののような香りを吸い込み、メビウス1は眠りに落ちた。